チャブ (USS Chub, SS-329) は、アメリカ海軍の潜水艦。バラオ級潜水艦の一隻。艦名はコイ科ウグイ亜科のヨーロッパクレード・北米クレードに属する魚の総称や、それに姿の似た多種多様な魚の通称に因んで命名された。当初はハタ科の一種ブラック・グルーパーの学名に因みボナシ (Bonaci) の艦名であったが、1942年9月24日にチャブと改名される。チャブは1943年9月16日にコネチカット州グロトンのエレクトリック・ボート社で起工した。1944年6月18日にT・A・リッシュ夫人によって命名、進水し、1944年10月21日に艦長カシアス・D・ライムズ・ジュニア中佐(アナポリス1935年組)の指揮下就役する。この後、チャブはニューロンドンを出航し、1945年1月24日に真珠湾に到着した。2月13日、チャブは最初の哨戒で南シナ海に向かった。2月24日にサイパン島に寄港して補給を受けた後、哨区に到着した。3月3日、チャブは日本の潜水艦と思われる敵から雷撃を受けたが回避した。3月29日には僚艦フラウンダー ("USS Flounder, SS-251") からの情報に基づく護衛艦群を発見し、追跡した。敵機によって6度にわたる妨害を受けたが、チャブは全速力を出しなおも食い下がった。しかし、最終的には振り切られた。翌3月30日、チャブの上空で空戦があり、味方機が撃墜された。チャブはさっそく3名のパイロットを救助した。その時、2隻の哨戒艇が出現してきたので、チャブはその場を去った。チャブは南下して哨戒を続けた。4月12日、チャブはジャワ海を航行中に日本の二式水上戦闘機を発見し潜航。直後、爆撃を受け潜望鏡と油圧系統にダメージを受けたが、これ以上の被害はなかった。4月18日、チャブは64日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。5月14日、チャブは2回目の哨戒でジャワ海に向かった。5月21日未明、チャブはの地点で2隻の貨物船を攻撃した。この時、第34号掃海艇が出現したので、チャブはこれを撃沈した。その他、6月1日に小型船舶の船団を発見して攻撃したが成功せず、6月14日にもレーダーで探知した目標に魚雷を1本命中させたが、結果ははっきりしなかった。6月21日、チャブは38日間の行動を終えてスービック湾に帰投した。7月15日、チャブは3回目の哨戒でジャワ海および南シナ海に向かった。この頃には目標らしい目標もほとんどなかったが、それでもジャワ海で多くの小型船舶を撃ち沈めた。具体的には、7月24日に3隻のタグボートおよび小型船を浮上砲戦で撃沈し、8月5日にも大小のタグボートと艀を撃沈。8月9日には第五一号型駆潜艇風の小型船を撃沈し、8月11日には海上トラックを撃沈した。8月17日、チャブは33日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。チャブはフリーマントルからスービック湾に移動し、1945年末まで同地で訓練に従事し、その後西海岸に向かった。1946年、チャブは新たな母港である真珠湾を拠点として作戦活動に従事し、オーバーホールの必要があるときは西海岸を訪れた。1946年11月12日から1947年2月14日まで極東に展開し、模擬哨戒および第7艦隊との訓練を行う。1947年の後半はアラスカ水域への訓練巡航を行い、シアトルからサンフランシスコへの予備役兵の訓練を行った。サンフランシスコでのオーバーホールの後、チャブはニューロンドンに向けて1948年3月4日に出航、続いて大西洋を横断しトルコのイズミルに向かい、5月11日に到着した。5月23日にアメリカ海軍を退役、除籍され、2日後にトルコ海軍に移管された。トルコ海軍ではギュル ("TCG Gür, S 334") として就役する。1953年にギュルはフリート・シュノーケル改修が行われた。最初にトルコのゴルック海軍工廠で作業が行われ、仕上げはアメリカで行われた。グルは1975年12月12日に退役し、スクラップのためアメリカ合衆国に返還された。チャブは第二次世界大戦の戦功で3個の従軍星章を受章した。チャブの3度の哨戒は成功として記録された。合計4,200トンの戦果を挙げたと記録されたが、公式記録は第34号掃海艇のみだった。
出典:wikipedia
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