アルトゥーロ・メルツァリオ("Arturo Francesco Merzario" 、1943年3月11日 - )は、イタリアの元F1ドライバー。また1978年から1979年にかけて参戦したコンストラクター「メルツァリオ」のチームオーナー。姓は「メルザリオ/メルヅァリオ」と表記されることもある。マールボロのテンガロンハットがトレードマーク。コモ県チヴェンナ出身。コクピット内部に潜り込むようなドライビングスタイルが特徴。1960年代からイタリア国内やヨーロッパでスポーツカーレースで活躍、1970年よりスクーデリア・フェラーリに加入した。1972年にスポンサーのマールボロの支援によりスポット参戦ながらフェラーリからF1デビューし6位入賞。この年はスポーツカーレースを優先し、同年のスパ1000km、タルガ・フローリオなどを制した。1973年はフェラーリからF1にフル参戦。フェラーリからのイタリア人ドライバーのF1フル参戦としては、1967年シーズン中に事故死したロレンツォ・バンディーニ以来のことであったが、この年のフェラーリは1勝も挙げられないほどの低迷ぶりを見せ、同僚のジャッキー・イクスとともに悪戦苦闘を強いられる。結局最高位は2度の4位に留まり、チームとしても合計12ポイントしか獲得できないという惨憺たる結果に終わる。このことについて当時のフェラーリ総帥だったエンツォ・フェラーリは、生前「彼にはすまない事をした」と語っている。1974年からはフェラーリを離脱しフランク・ウィリアムズのチーム(フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ)から参戦。度重なるマシントラブルに泣かされたが、1974年の地元イタリアグランプリでは4位入賞を果たす。また1975年のイタリアグランプリのみ、指の骨折で欠場したウィルソン・フィッティパルディの代役としてフィッティパルディから出走した(11位完走)。1976年はマーチから参戦するも、シーズン途中でウィリアムズに復帰。その復帰初戦となったドイツグランプリではニキ・ラウダの大事故に遭遇したが、ブレット・ランガーやガイ・エドワーズ、ハラルド・アートルらとともにラウダの救出にあたり、ラウダは顔面に大やけどを負ったものの一命を取り留めた。1977年には自らがオーナーとなり、自チーム「チーム・メルツァリオ」を設立。初年度はマーチのシャーシを購入しての参戦だったが、完走は出走した7戦中1戦のみに終わる。また第12戦オーストリアグランプリのみ、自チームからではなくシャドウから出走している(決勝リタイア)。チーム2年目となった1978年は、マーチのシャーシを改造し「メルツァリオA1」を制作。コンストラクターとして参戦したものの、16戦中完走ゼロ,予選落ち6回,予備予選落ち2回という散々な成績に終わる。またイタリアグランプリのみではあるが、アルベルト・コロンボを2台目として出走させている(メルツァリオ:決勝リタイア/コロンボ:予備予選落ち)。1979年は、序盤4戦は前作の改良版「メルツァリオA1B」で参戦するも完走ゼロ(うち2回予選落ち)、その後新車「メルツァリオA2」を投入。またシーズン途中で撤退したカウーゼンからマシンパーツを買い取って「メルツァリオA4」も制作したが、A2を投入した第5戦以降全戦で予選落ちを喫してしまい、メルツァリオはチームとともにこの年をもってF1から退いた。なおこの年のモナコグランプリのみメルツァリオの代役として、カウーゼンのドライバーだったジャンフランコ・ブランカテリが出走した(予備予選落ち)。F1からは引退したものの、その後もイタリアやヨーロッパのスポーツカー選手権に参戦を続け、1990年代まで第一線で活躍した。現在もモータースポーツへの情熱は衰えておらず、様々なレースにスポット参戦しているほか、イタリア国内でレーシングドライビングスクールを経営している。
出典:wikipedia
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