米沢藩(よねざわはん)は、出羽国(明治維新以降の羽前国)置賜郡(現在の山形県東南部置賜地方)を治めた藩。藩庁は米沢城(米沢市)。藩主は上杉氏。家格は外様で国主、石高は30万石、のち15万石から18万石。米沢は戦国時代の天文17年(1548年)から伊達家の本拠地であった。当時の伊達家は第14代伊達稙宗と嫡子の晴宗による内紛(天文の乱)が起こっており、その内紛に勝利した晴宗は伊達家第15代となり米沢に本拠を移した。しかし晴宗と嫡子の輝宗も内紛を起こし、輝宗が勝利して第16代となるも、伊達家はそのために勢力拡大が大幅に遅れていた。天正12年(1584年)10月、輝宗は隠居して嫡子の政宗が第17代当主となる。政宗は相馬家、二本松畠山家、蘆名家など奥州南部の諸氏を攻めて勢力を拡大。天正17年(1589年)6月に摺上原の戦いで蘆名家に大勝して同家を滅ぼし、以後政宗は蘆名家の本拠であった黒川城を本拠とした。さらに二階堂家、石川家や岩城家を滅ぼした政宗は奥羽66郡の内、およそ半ばを支配する奥羽の覇者となった。しかし天正18年(1590年)の小田原征伐で政宗は6月に小田原に参陣して豊臣秀吉に臣従した。このため伊達家の存続は許されたが、秀吉の奥州仕置により会津郡・安積郡・岩瀬郡など3郡は秀吉の発令していた奥羽両国惣無事令違反であるとして没収され、政宗は再び本拠を米沢に移した。だが秀吉は奥州仕置に際して厳しい検地を命じたため、10月初旬に奥州仕置で改易された大崎家や葛西家の旧領で一揆を起こした。この一揆は会津の新領主となった蒲生氏郷と政宗によって鎮定されたが、一揆の扇動に政宗があり、また氏郷暗殺の謀略があったとして秀吉は天正19年(1591年)秋に政宗から故地米沢をはじめ、伊達郡や信夫郡などを没収して大崎・葛西の旧領を与えた。これにより伊達家の領地はさらに減少し、年貢収入に至っては従来の半分ほどになった。政宗は岩手沢城を新たな居城と定めて岩出山と改名した。政宗が移封された後、伊達家の旧領は会津の領主であった蒲生氏郷の所領となり、氏郷は米沢に蒲生郷安を入れた。だが文禄4年(1595年)に氏郷が死去。嫡子の秀行が13歳で跡を継ぐ。しかし東北の鎮守として90万石もの所領を支配するのは容易ではなく、重臣間の諍いがあって18万石に減封された。蒲生家に代わって会津に入封したのは越後春日山城主の上杉景勝であった。領地は蒲生旧領と出羽庄内に佐渡を加えた120万石であり、これは徳川家康や毛利輝元に次ぐ第3位の石高であった。景勝は家老直江兼続に30万石(一説には甘粕氏の刈田郡白石城を含め32万石)を与えて米沢に入れ、伊達政宗及び山形の最上義光に対する抑えとした。ただし直江自身の所領は6万石だったといわれ、直江は上杉家全体を執政する立場にあったことから米沢には城代を派遣し、自らは本拠の若松城で景勝を補佐した。慶長3年(1598年)8月に秀吉が、慶長4年(1599年)閏3月に前田利家が死去すると、徳川家康の勢力は豊臣政権内において抜きん出た立場になり、家康は政宗をはじめとする諸大名との無断婚姻を繰り返した。家康に対抗しようと五奉行の石田三成は直江兼続に接近し、直江は景勝と慶長4年(1599年)8月に会津に帰国すると、領内の山道を開き、武具や浪人を集め、28の支城を整備するという軍備増強に出た。景勝・兼続主従は慶長5年(1600年)2月から若松城に代わる新たな城として、若松の北西およそ3キロの地点に位置する神指村に神指城の築城を開始した。しかしこの軍備増強は、越後の堀秀治や出羽の最上義光らにより家康に報告され、また上杉家中でも和平を唱える藤田信吉が出奔して江戸に落ち延びたため、家康は景勝に弁明を求める使者を出したが景勝は拒絶し、家康は諸大名を集めて会津征伐を開始した。神指城築城は6月まで続けられたが、家康率いる討伐軍が江戸にまで来たため中止し、白河城の修築が急がれた。7月24日、下野小山で石田三成らの挙兵を知った家康は、次男の結城秀康や娘婿の蒲生秀行らを宇都宮城に牽制として残し、8月に西上を開始した。直江兼続は家康を追撃しようとしたが、上杉領の北に位置する最上義光や伊達政宗らの攻勢もあって追撃は断念した。一説に景勝は天下に上杉家の信を失い、恥辱を残すことを恐れて許さなかったとされている。直江兼続は矛先を出羽山形の最上義光に向け、9月3日に直江は米沢に帰城すると、大軍を最上領に差し向けた(慶長出羽合戦)。直江は現在の東村山郡山辺町大字畑谷にあった畑谷城を落としたが、長谷堂城で最上軍の猛烈な反撃を受けて攻勢は停滞、その間の9月15日、関ヶ原の戦いで石田三成の西軍は壊滅したため、家康ら東軍の圧勝に終わった。9月29日に景勝のもとに石田大敗の急報が入り、景勝は直江に総退却を命じた。この時、上杉軍と最上軍、及び最上を救援する伊達軍との間で熾烈な追撃戦が行われ、両軍合わせて3000余の戦死者が出た。景勝は家康と和睦するため、11月に重臣の本庄繁長を上洛させて謝罪させた。自らも慶長6年(1601年)8月8日に結城秀康に伴われて伏見城において家康に謝罪した結果、8月17日に家康は上杉家の存続を許したが会津など90万石を没収して出羽米沢30万石へ減封した。こうして上杉家の支配による幕藩体制下の米沢藩が成立した。上杉景勝が関ヶ原の戦いで出羽米沢に減移封されたため、直江兼続は米沢城を景勝に譲った。藩領は、上杉氏の旧会津領120万石のうち、出羽置賜郡(置賜地方)18万石と陸奥国伊達郡(現伊達市、伊達郡、福島市)および信夫郡(現福島県福島市)12万石からなっており、米沢からは峠を隔てた陸奥側の抑えとして福島城に重臣本庄氏を城代として置いた。米沢は直江兼続の所領であったが、直江は上杉家全体の執政として若松城に詰めていたことが多かったため、内政はほとんど整っておらず、城下は蒲生家の時代に築かれた8町6小路の町人町と数百の侍町があるに過ぎない小さな城下町であった。この小さな城下町に会津に住んでいた家臣団や越後以来の寺社・職人などが大人数で移ってきたため、城下は大混乱した。直江は上・中級家臣は別として、下級家臣に対しては一軒に2、3世帯を共同で同居させてそれでも住居が無理なら掘っ立て小屋を建てたという。また屋敷割りから祖の上杉謙信の霊廟を築いたりした。大坂の役では徳川方についた。米沢の藩政の基礎を固めた直江兼続は元和5年(1619年)12月に、上杉景勝はその4年後に死去した。景勝の死後、家督はただ1人の息子であった定勝が継承した。定勝時代の米沢藩は安定しており、事件は寛永17年(1640年)の数百戸を焼失した大火と寛永19年(1642年)の凶作くらいだったとされる。定勝は正保2年(1645年)に死去し、家督は嫡子の綱勝が継いだ。だが寛文4年(1664年)閏5月に綱勝は嫡子も養子も無いままに急死した。このため上杉家は無嗣断絶の危機に立たされたが、綱勝の正室の父に当たる会津藩主保科正之が奔走し、綱勝の妹富子と高家の吉良義央との間に生まれていた当時2歳の綱憲を末期養子とすることを訴えて幕閣に認められた。ただし所領に関しては、ペナルティとして信夫郡と伊達郡にあった12万石、屋代郷(現山形県高畠町)3万石が没収されて置賜郡内の15万石のみとされた。綱憲の時代に忠臣蔵で知られる赤穂藩浪士の討ち入りがあった(赤穂事件)。これにより綱憲の実父の吉良義央は討たれ、次男の義周は信濃諏訪藩に流罪とされて失意の内に死んでいる。綱憲は事変の2年後に病気を理由に家督を長男の吉憲に譲って隠居した。吉憲は在任18年で享保7年(1722年)に死去し、長男の宗憲が第6代を継ぐが、宗憲も享保19年(1734年)に死去し第7代を弟の宗房が継ぐが、これも延享3年(1746年)に死去と、病弱な藩主が相次ぎ短期間で入れ替わった。第8代は宗房の弟の重定が継ぐ。重定は先代までのように病弱ではなかったが暗愚で、藩政を省みず遊興にふけって借財だけを増やした。このため、米沢藩の財政は危機的状況に陥り、重定は幕府へ領地を返上しようと真剣に考えるほどであった。藩主が頻繁に入れ替わったため、藩政の実権は筆頭奉行の清野内膳が掌握したが、清野は宝暦6年(1756年)に辞職するまで藩政改革に手をつけず、何ら為すところが無かった。重定の時代には与板組の下級武士ながら寵愛されていた側近の森平右衛門利直が出世して実権を握った。森は租税の増収を図り、郷村の統制機構を整備して年貢の増徴を図ったが、一方で自らの親類を側近に取り立てたり人事や賞罰を独断して行うなど専横が強まり、藩政は腐敗したため、宝暦13年(1763年)2月に森は竹俣当綱により誅殺された。第9代藩主の治憲(鷹山)は日向高鍋藩秋月家の生まれで養子であるが、生母が秋月藩黒田氏に嫁いだ上杉綱憲の孫娘なので全く上杉家と無縁というわけではない。明和4年(1767年)に鷹山は家督を継ぐ。前述のように米沢藩は極端な財政難と政治腐敗で藩政が破綻寸前にあった。このため鷹山は、藩政と財政の再建を目指して自らが家督相続した強い決意を示し、さらに大倹約を主旨とした大倹令を発布した。また自らの生活費を大幅に切り詰め、奥女中も大幅なリストラを行った。他にも殖産興業政策、籍田の礼、世襲代官制度の廃止、備荒20ヵ年計画など改革は次々と実行され、鷹山の時代に米沢藩は息を吹き返すことになった。だが鷹山の改革は上杉家譜代の老臣らから根強い反対があり、1度は七家騒動において須田満主、芋川正令らが処分されたが、改革も後半になると再び老臣らが鷹山の腹心となっていた竹俣当綱を失脚させるなどした。また天明の大飢饉などで改革が停滞に入ったことも事実であり、鷹山は天明5年(1785年)に隠居し、第10代は重定の四男の治広が継承した。しかし治広と第11代藩主の斉定はいずれも鷹山の後見を望んだため、以後も鷹山の改革が続行されることとなる。鷹山は停滞した改革を再び再建するため、借財返済の延期懇請と財政支出の大幅緊縮を行った。しかし外国船の日本接近による軍役や家臣が多すぎる問題などから、財政は再び悪化していた。このため鷹山は寛政期に入ると、等級の区別無く有能な人材を大量に召しだして登用した。また財政再建16ヵ年計画を定め、農村復興計画や上書箱の設置、緊縮財政から領民保護など様々な改革を行った。一方、藩財政の悪化から事実上廃絶していた藩校興譲館を再興した。福祉政策も充実させて、滅亡寸前だった米沢藩を再建した名君上杉鷹山は、文政5年(1822年)3月に死去した。第12代藩主斉憲の時代に、米沢藩は幕末を迎える。斉憲は佐幕派として文久3年(1863年)に上洛して京都警衛を果たし、翌年からは嗣子茂憲が上洛して2年間京都警衛を果たしたため、その功績により慶応2年9月(1866年10月)に屋代郷3万7248石を幕府より与えられ、米沢藩の知行高は19万石近くまで増加した。大政奉還が行われると、藩論は佐幕派と尊皇派に分かれたが、藩主斉憲は保科正之の旧恩があるとして幕府に味方した。慶応4年4月に江戸城の無血開城が成り、戊辰戦争がいよいよ東山道に波及し始めると、米沢藩はかつての保科正之への恩義もあることから官軍と会津藩の間に立って仲介に努めたが、その行動はかえって官軍から疑いの目を向けられる結果を招いた。するとこれを察知した米沢藩の方でも、官軍は会津討伐が終了したあとも北進して東北の佐幕派諸藩を討つらしいという風聞を信じて驚き慄き、双方疑心暗鬼のうちに米沢藩は奥羽越列藩同盟に加わって仙台藩や会津藩とともに官軍に対峙するという好ましからぬ状況にはまってしまった。仙台藩が奥州街道・常磐方面を担当したのに対し、米沢藩はその故地でもある越後を担当したが、いざ官軍と矛を交えてみると連戦連敗の苦杯をなめた。官軍に羽越国境の大里峠まで迫られたところで、同年8月18日官軍方から思いがけない吉報が藩主の正室 貞姫を経由して米沢藩にもたらされた。東山道先鋒総督府は土佐藩の迅衝隊を中心に編成された部隊だったが、その幹部である谷干城・片岡健吉・伴権太夫らは連名で米沢藩に恭順を薦める内容の書状を書き、これを土佐藩主山内豊資 → その三女で米沢藩主上杉茂憲の正室となっていた貞姫 → 藩主茂憲へと送付したのである。これを受けて米沢藩は24日までに藩論をまとめて恭順した。その後は官軍のために尽忠勤皇し、庄内藩討伐のために兵を出し、会津藩に対してもその非を説き恭順することを諭した。米沢藩は戦後の処分で、明治元年(1868年)12月に4万石を減封されて14万7000石となった。また藩主斉憲は隠居となり、嫡子の茂憲が家督を継いだ。明治2年(1869年)に蔵米支給の支藩米沢新田藩を併合した。米沢藩は宮島誠一郎の指導のもと、版籍奉還などの明治政府の改革を積極的に支持していくことで「朝敵」の汚名をそそぐことに尽力した。明治4年7月14日(1871年8月29日)廃藩置県によって米沢県となり、11月に置賜県を経て、山形県に編入された。藩主家は明治2年6月17日の版籍奉還と同時に華族に列し、明治17年(1884年)7月7日の華族令で伯爵を授けられた。上杉茂憲は藩主退任後、沖縄県令として県政の再建に尽力している。豊臣時代の領主である蒲生氏郷がキリシタン大名であった影響から、旧蒲生領は東北地方におけるキリシタンの根拠地のような地域になっていた。米沢も氏郷の家臣の蒲生郷安が城主であり、この郷安が氏郷の影響からキリシタンであったため、米沢にも少なからずキリシタンが存在した。やがて上杉家が米沢に入封すると、慶長16年(1611年)にフランシスコ会の神父ルイス・ソテロによって上杉謙信時代の宿老甘粕景継の子信綱が入信し、以後信綱ことルイス右衛門によって米沢のキリシタンが拡大することになった。江戸幕府における慶長18年(1613年)の全国禁教令を契機として、厳しいキリシタン弾圧が展開された。この幕府の弾圧で京都・大坂方面のキリシタンは衰退の一途を辿るが、それら迫害されたキリシタンは主に東北地方に逃れたため、かえって東北方面のキリシタンは盛況を呈するようになり、米沢では信綱の熱心な布教活動もあって信徒が1万人を越える勢いだった。このため幕府は米沢にキリシタン弾圧を命じるが、上杉景勝は幕府の命令に形式的には従いながらもキリシタンにはかなり寛容な態度をとった。これは上杉家中にかなりキリシタン武士が存在し、有能な人材を失いたくない景勝の思惑があったためとされる。だが景勝の死後、跡を継いだ定勝は幕府の度重なる圧力に屈して寛永5年(1628年)に甘粕信綱とその家族家臣など14名を処刑したのをはじめ、その後もキリシタン弾圧を続けて殉教者は寛永5年だけで70名以上に上った(米沢寛永5年のキリシタン弾圧)。島原の乱以後はキリシタン弾圧がさらに強化され、定勝の従兄弟にあたる公家山浦玄蕃(知行1000石)も定勝没後の承応2年(1653年)に幕府の命令で処刑されている。貢租は蒲生時代以来、半石半永制をとる。これは貢租納入の半分を貨幣で納入するもので幕末まで踏襲された。また貢租の貨幣にあてる分は一定の米や漆、紅花、青苧、真綿といった特産物の買い上げ代金を廻すという方法が採られた。このため、早くから藩の買上制が実施された。米沢藩は120万石からの大減封を受け、しかも佐渡銀山などを失って大幅な収入減を受けた。関ヶ原の戦いの際に備えて雇った傭兵や浪人などは解雇したが、越後時代から付き従ってきた譜代家臣、並びに武田家や小笠原家、蘆名家旧臣の召し放ちを極力行わず、6000人と言われる家臣団を維持した。そのため、江戸時代初期から厳しい財政難に苦しめられた。また米沢城は、伊達氏時代からの三階櫓を中心とした平城であったがほとんど拡張を行わなかった。また城下町は伊達家・蒲生家時代から手狭だったため、上杉家の家臣や家族が入るに及んで大混乱が起こった。このため上杉景勝・直江兼続らは下級武士を手狭な城下町の外に住まわせて、半農半士の生活を送らせたが、このような下級武士のことを原方衆という。それでも初期の米沢藩は、2代藩主上杉定勝が表高30万石に対して内高51万石と言われるまでに新田開発を進めたが、寛文4年(1664年)の15万石への半減で藩財政は再び大きな打撃を受けた。これ以降の実高は30万石程度(幕末の18万石への加増時には35万石前後)であるが、依然として家臣団は減らさなかったので、財政はますます厳しくなった。ちなみに、明治初年の史料をもって比較すると、加賀102万石の前田家の場合は、内高が120万石で、士族7,077戸、男12,414名、卒族戸数9,474戸、男14,029人であった。一方の米沢藩14万7千石(列藩同盟処分の削封後)の上杉家の場合は、内高が30万石で、士族3,425戸、男7,565名、卒族戸数3,308戸、男11,980人であった。この比較からも、米沢藩の厳しい状況は一目瞭然である。このような深刻な財政難にもかからず、第3代藩主綱勝は藩士に対して倹約を命じつつ自らは大好きな能楽にのめり込み、明暦3年(1657年)の火事では城下の東600戸を焼失したにも関わらず6000人の家臣を動員して狩りを行い、それに要した費用は代官や商人から借りることで補い、米沢藩の借金生活がこの時から開始された。綱憲は実父吉良義央夫妻の浪費による負債2780両を立て替えた上に、藩主の実父であるとして毎年6000両の援助金を送り、元禄11年(1698年)の鍛冶橋における吉良屋敷類焼では呉服橋に8000両の費用をかけて新邸を造築した上、米沢から大工50人を派遣した。さらに麻布藩邸などの新築、参勤交代などでの奢侈を行い、藩の貯金を一般会計に流用するまでに至る。7代藩主上杉宗房の代では領内農村の荒廃がすさまじく、年貢未進もかさんでいたため、元文3年(1738年)には当年分完納を条件に、それ以前7ヶ月の未納分の延納を許可する有様であった。上杉重定の代になると、派手好きで奢侈に走ったことに加え、寛永寺普請手伝いによる5万7千両超の工事費や宝暦5年(1755年)の凶作損毛高7万5800石超の被害も重なって、借財が莫大な額に上ったので、竹俣当綱(美作)の進言に従って幕府に15万石の返上を願い出ることを親族の尾張藩主に相談して、明和元年(1764年)に諭される返答をされる始末であった。米沢藩上杉家は他の藩と比較して下級武士の数が圧倒的に多かった。これは関ヶ原の戦いに敗れて所領を4分の1に削減されたにも関わらず、家臣に暇を出すことをせず、そのまま米沢に連れて来たからである。必然的に家臣ひとり当たりの知行高は低く抑えられ、のちのち上杉家そのものだけでなく家臣たちひとりひとりの極端な経済的困窮につながった。大坂の役では上杉軍は2万の軍を率いて出陣しているが、本来は30万石であるから動員できる兵力は多く見ても7500人から9000人(そもそも1万石の動員数が250人から300人)であり、上杉家は倍以上の兵を動員している勘定になる。同じ山形県内にあった庄内藩酒井家14万石の家臣は約1900人であるが、米沢藩は約5000人という数から比較しても、家臣の極端な大人数が財政難の原因のひとつとなったことは確かである。なお、上杉家の上級家臣(高家衆・奉行・家老・分類家)は95人で全体のおよそ2パーセント、中級家臣(上杉謙信の旗本だった馬廻組・上杉景勝の旗本だった五十騎組・直江兼続の与板衆)が930人で全体のおよそ19パーセント、残りが下級家臣でおよそ3900人であった。一般的に最下級の足軽以下の階級は技能職分として扱われ、士分階級のように世襲ではなく1代雇用が原則であった。だが米沢藩は足軽(特に鉄砲足軽)は世襲とされ、扶持に関しても手明組などの徒士階級、三扶持方の下士階級とあまり変わらず、場合によってはより高い扶持をもらっていた者もいた。米沢藩では鉄砲の技能を重んじ、その修練を奨励しており、毎年正月には「矩(のり)の鉄砲」と呼ばれる藩主上覧の鉄砲披露があり、家臣が鉄砲の技量を競う晴れ舞台であったためだった。鉄砲は中級武士も撃つことを許されたが、扱うことができたのは10匁筒だけであり、20匁以上の大筒撃ちは専門職の足軽だけに許された特殊技能であり、特別の大筒を操作できる者には30匁撃ちに3石、40匁撃ちに4石、50匁撃ちに5石の加恩給を与えられた。関ヶ原の戦い後に知行を大幅に削減されて下級武士の生活は困難になったため、米沢藩は会津口の南原、板谷口の山上、仙台口の東原に屋敷割りをして下級武士を住まわせ、藩境警備の任務に当たらせると同時に周辺の荒地を開墾させて半士半農の生活をさせるという屯田兵の暮らしをさせ、この集団は原方衆と呼ばれた。原方衆は下級武士の半数を占める約1900人であり、農民とあまり変わらぬ生活をしていたために「原方の糞つかみ」と蔑まれたが、彼らの中には武士の矜持を忘れずに学問や武芸の修練に励む者も多かったと伝わる。また、自ら開拓した土地はそのまま与えられ、収穫した年貢も一般農民よりは軽減されていたので、城下で暮らす武士階級よりずっと生活は安定していたといわれる。逆に原方衆を蔑んでいたと伝わる城下集住の下級武士の生活はかなり苦しく、藩財政が逼迫して減俸されると扶持のみでは生計が成り立たなくなった。このため、米沢藩特産品の筆結いなどの内職を行い、それでもなお不足なので職人や日雇い人足になって収入を稼ごうとした。彼らの雇い主である米沢の町人は、日雇い武士に失礼のないようにと「人足様」「大工様」と敬称をつけて呼んでいたといわれ、この遺風は現在まで続いている。1767年(明和4年)、17歳で重定の跡を継いだ養子の治憲(鷹山)は竹俣当綱と莅戸善政らを登用して藩政改革に乗り出した。倹約令発布、農村統制の強化、絹織物の専売制実施等の財政再建と、桑や漆の植樹、縮織技術の導入や黒井忠寄による灌漑事業などの殖産興業政策を行って藩財政を立て直した。また、先述のとおり特産品の青苧、紅花、蝋等も藩財政を助けた。儒学者細井平洲を招いて藩校の興譲館(現山形県立米沢興譲館高等学校)を設け、藩士の教育にもあたった。一方で、1773年(安永2年)7月には家老の須田満主や奉行の色部照長や千坂高敦らによる竹俣一派排除訴訟(七家騒動)も起こる。米沢藩では、藩主上杉家の実質上の祖である上杉謙信が藩祖として祀られ、その遺骸を納めた甕は遠く越後春日山(新潟県上越市)から米沢に運ばれて米沢城本丸内に安置されていた。上杉謙信崇拝に基づいた藩風は、越後以来の家臣の召し放ちが少なかったこともあって独特の誇り高い気風を生んだが、その一方で体面を重んじ、頑固で保守的な面があって、そのことが鷹山の藩政改革の障害となったという見方もある。しかし、鷹山隠居後も藩政改革に取り組む名君が続いたため、治憲・治広の代には借財を返済して5千両の囲い金(備蓄)を有するに至る。最後の藩主茂憲は、戊辰戦後に3万両を新政府に献上して三条実美らによる改易論を封じ込め、また、奥羽越列藩同盟参加の責任を戦死した家老色部久長に転嫁することによって藩存続の危機を乗り切った。廃藩置県の際は、旧藩士らに囲金や備金などから10万両余を分与するなど、沖縄県令としての治績に対する評価も高い。初代上杉景勝の執政直江兼続は元和4年(1618年)に禅林文庫を創設して足利学校や金沢文庫に匹敵する学問修行の道場とし、家臣の教育を図ろうとしたが、直江が翌年に病死したため実現までには至らなかった。第4代綱憲は将軍徳川綱吉の奨学により学問所を創設したが、以後は米沢藩の藩財政悪化により学問所自体が退廃した。このため、米沢藩で実質的に藩校が創設されるのは上杉鷹山の改革期である。鷹山は自らの師細井平洲を米沢に招聘し、師の命名で藩校は興譲館と名づけられた。規模や内容は元和や元禄の比ではなく、鷹山や細井は藩校に優秀な指導者となるべき人材の育成の役割を求め、藩校の席次は身分ではなく長幼の序で定められて場合によっては生徒に手当として年1両の手当金、寄宿代の無料などの特典もあり、この藩校の子弟が藩の中枢にあって活躍していくことになる。鷹山は仁慈の政治の実現を常とした人物であるが、財政再建が一段落した寛政4年(1792年)には家中・領民を問わずに90歳以上の老人には生涯1人扶持を与えることとする老齢年金制度、15歳以下の子供が5人以上いる家庭では末子が5歳に達するまで1人扶持の手当を支給することとするという子供手当を実施した。ただし、米沢藩では享保13年(1728年)から孝行。貞節などで優れた「善行者」を表彰する制度があり、鷹山はこの制度を推奨して福祉を定め、さらに善行者にはとりわけ模範的な人物に対して生涯家の門柱に名前を記して顕彰したといわれる。天正9年(1581年)から弘化4年(1847年)までの歴代藩主の法令を編纂した法令集に『御代々御式目』(全41冊)がある。また、諸役職の沿革については『紹襲録』、勤務規定については『御役成勤式』がある。町奉行の職務手鑑的なものに正徳4年(1714年)の『当官紀事』がある。米沢藩は刑法典を制定することなく、判例に準拠して処罰を行った。主要な判例集には『御呵附引合』、『中典類聚』、『御裁許鈔』などがあり、それらを繋ぐと江戸時代全期の刑事判決が明らかとなる。それらに記録される刑種は約60種ほどで、中には闇打、郷替、出奉公、定価屋渡など、他藩ではあまり見られないものも含まれる。外様家格:国主・大広間・殿上元服・一字頂戴・屋形号 30万石→15万石→18万石→14万7千石米沢新田藩(よねざわしんでんはん)は、米沢藩の支藩。外様。柳間詰。代々駿河守を称し、駿府城加番役を務めた。享保4年(1719年)に5代藩主吉憲が弟の勝周に領内の新田分1万石を分与して成立した。藩主は2代勝承以降は男子が生まれず、以後3代は宗藩の歴代藩主の弟を養子に迎えている。新田藩主は米沢藩内では「支侯」と呼ばれた。米沢城内二の丸に藩庁を置き、居所としていた。武鑑では江戸藩邸は麻布に上屋敷があったとしているが、これは宗藩の中屋敷の一部を与えられたものである。後に上屋敷の所在表記は飯倉片町となる。また、文政年間の武鑑で新田藩の家老である高梨左近が宗藩の用人を兼務しているように表記されたり、上杉藩の史料「紹襲録」でも文政元年(1818年)に宗藩の側役であった留守善次郎が新田藩主の勝義の用人になっているのが見られる。加えて、米沢城内に新田藩の役所や藩主御殿があり、上杉鷹山の隠居所である餐霞館は元は新田藩主の御殿であったものを流用したものであり、鷹山死去以降に支侯御殿に戻っている。このように、特定の領地や城地を持たないだけでなく、支配機構や財政、家臣団、居住地、さらには後継者まで全て宗藩の米沢藩に依存しており、江戸幕府の御三卿にかなり近い藩内分家であった。明治維新後、宗藩の所領削減もあって存続が難しくなり、明治2年(1869年)に宗藩に併合された。なお、廃藩後も子爵家として存続したが、宗家の当主の弟を養子とすることが支藩時代と同様に続いた。外様 1万石 (1719年 - 1869年)江戸藩邸は文政年間当時、外桜田御堀通り(現在の法務省敷地内)に上屋敷、麻布に中屋敷、芝白金に下屋敷があった。また京都藩邸は柳馬場通三条下ル西側に構えていた。麻布藩邸は上杉綱憲により新築された。京都藩邸は一時、森利真(平右衛門)が売却したが、竹俣当綱(美作)が買い戻している。また、1788年(天明8年)の京都の火事で一時焼失した。江戸における菩提寺は浅草新鳥越にあった(移転して現在は清川に所在)新義真言宗寺院、金知山宝蔵院で、米沢新田藩も同様であった。横山昭男の『上杉鷹山』(吉川弘文館)や上杉文書の「紹襲録」による。【藩主直属】米沢藩の首脳部は、奉行(3人)、江戸家老(2人)、侍頭(5人)の計10人で構成される。奉行職は上杉定勝の代に新設され、他藩の国家老に相当した。侍頭は5組編成になっている侍組の各組の番頭である。これらの重職には、藩内の上士階級である侍組の中でも特に家柄の高い家である分領家のみが就任することができる。分領家は全部で14家あるが、謙信・景勝政権下では外様扱いであった揚北衆や信濃衆出身の家が多くを占めている。しかし、奉行職については寛政10年(1798年)に馬廻組出身の莅戸善政が奉行に登用され、慣行が破られることになる。なお、宝暦元年(1751年)に中老職が新設されたが、一時期廃止される。寛政3年(1791年)に莅戸善政の登用をもって復活する。小姓頭は江戸の須原茂兵衛版武鑑では『用人』と表記された職で、当初は侍組しか就任できなかったが、与板組出身で侍組に昇格した森利真(平右衛門)の登用で慣行が破られる。役屋将は、藩境の高畠(のち糠野目)、中山、鮎貝、荒砥、小国の5箇所の要地に置かれた陣屋の城代を上杉綱憲が改称したものである。侍組から任命され、30~40人の足軽を配下に置き、藩境の警備や旅人・貨物の取締りを担当した。【奉行配下】なお、仲之間年寄は3人、町奉行は2人、郡奉行は2人であった。郡奉行は一時期廃止される。仲之間年寄は六老や六人年寄とも言われる。なお、先述の小姓頭同様に江戸中期以降の武鑑では仲之間年寄と大目付は「用人」として表記されている。寛政3年(1791年)年の改革で郡奉行は六人年寄の兼務とし、勘定頭は桜田屋敷将と桜田納戸頭を兼務することになった。【大目付配下】【勘定頭配下】【郡奉行配下】代官は上杉定勝の時に新設されたが、当初は世襲制であった。安永元年(1772年)に代官世襲制が廃止される。【小姓頭配下】【役屋将配下】役屋付は、役屋を助けて領内の取締りを強化するために街道沿いの38箇所に設置された口留番所の役人で、三扶持方から各番所に1~2名が配置された。先に設置された板谷、綱木、花沢、糠野目、掛入石中山、小滝、荻野中山、大瀬、栃窪、玉川、蓬生戸、折戸、黒鴨、筑茂、爼柳の15箇所を本口番所、後に設置された梓山、中荒井、荒井、上片子、下片子、矢木橋、新藤台、鉄砲町、芦付、一本松、上窪田、下窪田、外ノ内、福沢、大橋、椚塚、十分一、大洞、金山、高岡、田尻、烏川、平田の23箇所を藪口番所と呼んだ。【その他の側近職】※禄高は15万石時代のもの、侍組の席次は『致知嚢』(天保7年(1836年)作成)による。禄高の後の地名は主な知行地。上杉謙信の直臣で構成、組名は上杉謙信馬前に由来上田長尾衆で構成、組名は上杉景勝の直参五十騎に由来直江兼続の直臣で構成、組名は与板衆に由来侍組から漏れた越後の国人衆及び信濃衆で構成、組名は会津移封後に猪苗代で知行地を与えられたことに由来関ヶ原の戦いの際に集められた浪人で構成侍組・三手組の分家で構成上記以外に、明治維新後に後志国磯谷郡の一部が所領に加わった。また、越後国岩船郡91村の幕府領を預かったが、全域が村上藩に編入された。
出典:wikipedia
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