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田淵幸一

田淵 幸一(たぶち こういち、1946年9月24日 - )は、東京都豊島区出身の元プロ野球選手(捕手、内野手)・指導者(監督、コーチ)、野球解説者、阪神タイガースOB会会長(第6代)。株式会社タブチエンタープライズ所属(生島企画室にも業務提携で在籍)。ニックネームは「ブチ」「ブッちゃん」「タブタ」「オッサン(東尾修が使用)」。3代目ミスタータイガースとも称される。現役時代は阪神タイガースの主砲として活躍し、に移籍した西武ライオンズではチームの2年連続リーグ優勝・日本一に貢献した。引退後はダイエー監督、阪神・楽天のコーチを歴任。また、北京オリンピック野球日本代表ヘッド兼打撃コーチも務めた。父親が毎日新聞社に勤めていたこともあり、裕福な家庭で生まれ育った。両親と姉の4人家族。豊島区立高田中学校在学中に野球を始め、2年生には五番打者となる。法政大学第一高等学校に進学。1年生時の秋季東京大会では正捕手として準決勝に進出するが、日大一高に7回日没コールド負け、翌年春の甲子園出場を逃す。3年生時のには夏の甲子園の東京都大会準々決勝まで進むが、日大二高に9回サヨナラ負け、甲子園には届かなかった。法政大学経済学部に進学し、、1年生の春から東京六大学野球リーグに出場。同年にはマニラで開催された第6回アジア野球選手権大会野球日本代表(東京六大学選抜チームが派遣された)に選出され、日本の優勝に貢献した。この時の正捕手は早大の大塚弥寿男だったが、2年後の同大会では中心打者として完全優勝を飾っている。山中正竹らとバッテリーを組み、在学中3度のリーグ優勝を経験。リーグ通算97試合出場、342打数94安打、打率.275、78打点。ベストナイン3回選出(4年の1968年秋季は早大阿野鉱二が選出され自身はベストナイン特別賞)。山本浩二・富田勝と共に「法政三羽烏」と呼ばれ、3年生の春にそれまでの本塁打リーグ通算記録(8本)を早々と更新、通算で22本塁打まで伸ばし、1997年に慶応大学・高橋由伸(現・巨人)に破られるまでリーグ記録だった(なお、高橋に新記録となる23本目の本塁打を打たれた投手が、田淵の母校・法政大学所属で後にプロでも田淵と同じ阪神に入団することになる安藤優也(現・阪神)であり、安藤は法政大学野球部の新年会で田淵に「お前、とんでもないことをしてくれたな」と言われ、以後安藤は田淵への謝罪を込めてお中元やお歳暮を贈っているという)。1968年のドラフト1位で阪神タイガースに入団。ドラフト会議前には巨人の指名が確実視され本人もそれを望んでいたとされたが、山本浩二や関西出身の富田を指名すると噂されていた阪神が、「在京ならまだしも関西球団はちょっと…」という田淵を1位指名した。ドラフト前に巨人関係者と会食し、「君には背番号2を用意している」と言われ感激したが、ドラフト指名がこのような結果になってしまい、落胆した。一方、諦めきれない巨人側も、田淵を一度阪神に入団させ後に巨人へ移籍させる「三角トレード」を提案、また密かに田淵との会談を画策したが、阪神側はトレードを拒否。巨人入りが絶望的となり田淵は阪神と契約した。ドラフト指名後の記者会見で、母親が田淵を「ぼくちゃん」と呼んでいることが発覚して記者たちの度肝を抜いた。大阪へ出発する東京駅では、号泣する母親に記者たちが「まるで出征兵士やな」と失笑を買った。阪神入団後は強肩、強打の捕手として1年目からレギュラーに定着。22本塁打を放ち、捕手として初めての新人王を受賞した。しかし、2年目の8月26日の対広島戦で、外木場義郎から左こめかみに死球を受け昏倒。耳からは血が流れており、すぐさま救急車で病院に搬送された。この怪我は「田淵の体質がこれで全て変わってしまった」と言われる程大きなもので、翌年まで尾を引いた。この頃、打撃フォームを一本足打法にしてから飛距離が伸び始め、には34本塁打を記録した。江夏豊とのコンビは「黄金バッテリー」と呼ばれた。しかし、入団当時「もやし」「キリン」のあだ名をつけられるほどやせていた体型が、この頃から急に太りだした。4月から5月にかけて、巨人を相手に同一カード7打数連続本塁打という記録を作った(4月26日、後楽園球場で6回に関本四十四から左翼席へ3号、8回に菅原勝矢から左翼席へ4号2ラン、9回にも同じ菅原から5号3ラン。続く5月9日に阪神甲子園球場で2回に高橋善正から左翼席へ9号ソロ。次の打席では死球に終わったものの、7回には高橋から左翼席へ10号2ラン、9回にも高橋からセンターへ11号ソロ。翌10日には1回に高橋一三から左翼席へ12号2ラン)。同年9月9日の対ヤクルト25回戦で、ヤクルトの安田猛が続けていた連続イニング無四死球のプロ野球新記録の更新を81で止める。安田は7月17日の対阪神15回戦、8回表1死二塁で田淵を敬遠で歩かせたのを最後にその試合の9回から無四死球を続け、1950年の白木義一郎の74を破って記録を更新していたが、この試合、2-2の9回2死二塁で田淵を敬遠したことによりその記録が止まった。に父親が死去。当日、知らせの電報を受け取りながら、監督・金田正泰の「試合を気にせんと帰ったれ」の言葉を振り切って出場し、平松政次から本塁打を2発放った。には王貞治の14年連続本塁打王を阻止する43本塁打を打ち、初タイトルを獲得した。この前年、田淵は自己最多の45本塁打(自身初のシーズン40本塁打)を放ちながらも4本差で本塁打王を逃していたが、1975年は怪我で出遅れた王を尻目に開幕から打ちまくり、最終的に王に10本差をつけてタイトルを獲得した。死球を受け、左手をまともに使えない状況で右手だけを使い、打ったホームランも含まれている。オフ、クラウンライターライオンズから生まれ変わったばかりの西武ライオンズにトレードされる。阪神から田淵・古沢憲司の2人、クラウンから真弓明信・竹之内雅史・若菜嘉晴・竹田和史の4人という大型トレードであった。このトレードは深夜に呼び出されて通告されるという異例のものであったが、球団側の「今度行く西武の根本監督は良い監督だから、行ってよく勉強して来い」という説得に対し、「じゃあ、(阪神の)ブレイザー監督は良い監督ではないんですか?」と言い返した。トレード自体は田淵がテレビのインタビューで不満をぶちまけるなどすったもんだの末に決着した。西武で体を鍛え直し、に一塁手に転向、指名打者でも活躍した。5年ぶりとなる40本塁打以上(43本塁打)を記録(西武球団史上初の40本塁打でもある)。1982年・には阪神時代に成しえなかったリーグ優勝と日本一も経験した。1983年にはシーズン中盤まで本塁打30本と独走。セ・パ両リーグ本塁打王は確実かと思われたが、7月に近鉄の柳田豊に死球を受け左手骨折、夢を砕かれた。限りで現役引退。引退後のから5年間、TBS(テレビ・ラジオ)の解説者を務める。1985年オフに西武の監督広岡達朗が解任。後任監督にオーナーの堤義明の希望で田淵の名前が挙がり球団フロントは参謀役に前年退団していた森昌彦を充てようと考えたが、その森は首を縦に振らず田淵監督を断念、森が西武の監督に就任した。1987年オフに阪神の監督吉田義男が退任。後を継いだ新監督村山実からヘッド兼打撃コーチ就任を依頼されたが、過去にトレードに出された際の球団の不手際もあり、復帰を断った(村山の希望とは裏腹に阪神球団は田淵の復帰を望んでいなかった)。田淵は「村山タイガースなら帰るが阪神タイガースへなら帰りたくない」と述べた。に杉浦忠の後任として福岡ダイエーホークスの監督に就任。ヘッドコーチに黒田正宏、打撃コーチに大田卓司、スコアラーに豊倉孝治と西武OBを招聘した(黒田はダイエーの前身・南海のOBでもある)。同じく西武時代の同僚杉本正、広橋公寿をトレードで獲得したが全く結果を残せず解雇になっている。田淵は1989年の秋季キャンプで二言目には「西武では…」「広岡さん…」と言い黒田ヘッドコーチを引っこ抜いて来たほど執着していた割には、秋の練習に限って西武方式を真似しようしなかった。就任当初は地元・福岡市のある市議会議員が「市を挙げて、市長が先頭に立ってダイエーを応援しよう」と主張し、議員・市民にも同調者は多かった。1年目はチーム順位・打率、本塁打、得点、失点、防御率はすべてリーグ最下位に終わる。85敗、勝率.325は2リーグ制以降の球団のワースト記録。田淵が指導したダイエー式足上げ打法は色んなチームのコーチやピッチャーからほぼ全員ダイエー打線は変化球に弱いと言われたと言う。監督になってから一軍の投手には「スライダーをマスターせよ」という指令を出したが河村英文曰く「これは監督が野球を学んだ(と自称する)西武の投手たちのうち、東尾修や郭泰源がスライダーを効果的に使って打者を牛耳っていたからだという。指令を出された投手は春季キャンプから一斉にスライダーの取得に取り組み始めたが秋のキャンプで済ませないと春では遅すぎて一か月後の公式戦には間に合わない。投手専門でもない監督がピッチング内容の指導にまで直接に口を出すのは明らかに異常である。それもピッチングの事がよくわかっていないから無理難題を吹っかけられるピッチャーはこそいい迷惑だ」と述べている。チーム防御率5.56は当時のワースト記録。そのため、その議員に「こんなに弱いようでは田淵監督を証人喚問しなければならない」とまで発言された。同年オフには「広島の長嶋と長内がトレードに出されるみたいだ」とセレクション会議の内容を漏らしてしまい減俸処分を受けた。畠山準のパンチ力にほれ込み、田淵式打法を教え込んだがなかなかモノにならないと2軍に放り出してシーズンが終わると自由契約にした(皮肉にも、畠山は移籍した大洋で田淵式打法を捨てたことによりその打撃を開花させ、世代交代期にあったチームにおいてその橋渡し役として、また1998年のリーグ優勝・日本一には右の代打の切り札として貢献するほどに成長した)、河村は結果的には畠山は気まぐれな新任監督の単なるオモチャでしかなかった述べている。1991年5位、1992年4位と低迷し解任された。ウィリー・アップショー、トニー・バナザードと確執を起こし、投手コーチの権藤博とも対立した。権藤は下柳剛を実戦経験をつかませることが大成への近道と再三に渡り、一軍起用を進言した。しかし日々の勝利を優先すると田淵監督には簡単に受け入れてもらなかったと述べている。ヘッドコーチの黒田とも仲違いし、黒田は1991年限りで辞任した。解任された1992年の夏頃には水面下でオーナー代行の中内正が上田利治に会談を持ち快諾を得ていたがオーナーの中内功の意向もあり根本陸夫が監督に就任した。1993年から2001年までは、再びTBSの解説者を務める。、親友である星野仙一の監督就任に伴い古巣・阪神のチーフ打撃コーチに就任。翌のリーグ優勝に大きく貢献する。「うねり打法」と称した打撃理論で濱中おさむ・関本健太郎などを育成する。星野は著書の中で「うねり打法、3割打線だ、と終始注目を集めてきた通り、大型、小型のバッターをミックスして、上手く振り分けて、ポイントを一つも外さないで攻撃態勢を作ってくれた。和田とオマリーの協力を得ながら3人で、弱い打線のレベルを一気に引き上げてくれたのである」と記している。その反面、成績が奮わない選手や見込みがない選手に対しては早々に見限る事もあり、シビアな側面もあった。デリック・ホワイトの成績不振に対しては「もう(あいつに)直接教える事はない。後は本人次第で頑張ってもらうだけだから」と「戦力外」の烙印を押し、後にホワイトの解雇につながった。田淵のような専任コーチ経験のない監督経験者が、監督退任後にヘッドコーチ以外のコーチに就いた例は、中西太、杉下茂など兼任監督だったケースが大半で、田淵のケースは珍しい例である。田淵自身は、星野の下でコーチを務めていた頃から「俺は監督に向いていない、せいぜいヘッドコーチまでだ」とたびたび周囲に漏らしていた。2003年オフ、星野が健康上の理由から監督を勇退した際には、「俺は監督と一蓮托生」と自身も退団した。、三たびTBS解説者として復帰。TBS時代は、いずれもスポーツニッポン評論家との兼務である。2007年1月29日、星野が北京五輪日本代表監督に就任、再び星野の下でヘッド兼打撃コーチとなる。この時、星野からコーチ就任を依頼された際の言葉は「行くぞ」だけであった。結果は振るわず4位に終わり、チーム打率.233は決勝トーナメントに出場した4カ国の中で最低の成績で長打力.362は打率と共にワーストであった。秋、阪神タイガースOB会の第6代会長に就任したが、わずか1年で辞任している。からは星野が監督に就任した東北楽天ゴールデンイーグルスのヘッド兼打撃コーチに就任(星野が球団に田淵のコーチ招聘を要請)。阪神、北京五輪日本代表に続き、楽天でも星野をサポートすることになった。しかし、チームの極度の打撃不振から6月5日付で打撃コーチ職を解任。ヘッドコーチ専任となり、翌もヘッドコーチを務めたが、同年シーズン終了を以って解任となった。には、TBSテレビ(復帰後は2013年のみ地上波中継への出演なし、2014年より地上波中継にも復帰)・ラジオの野球解説者・スポーツニッポンの野球評論家へ復帰した。飛距離の長さ、大きく美しい放物線を描くホームランの軌道から「ホームラン・アーチスト(“アーティスト”とホームランを示す“アーチ”を合わせた造語)」と呼ばれていた。特に外角球に強かったが、この長打力には田淵の左腕が右腕より3cmあまり長かったことも影響したとされる。これを発見したのは、新人時代に田淵のスーツを仕立てた洋服屋であった。逆に晩年は、この腕の長さが原因で思うような打撃ができなかったという。打席ではあくまで冷静で、毎年多くの四球を選ぶ選球眼も武器の一つ。通算本塁打474本は歴代11位(2015年シーズン途中現在)の記録であるが、田淵の特筆すべき点として、本塁打1本を打つのに要する打数の少なさが挙げられる。2015年シーズン終了時点で通算300本塁打を記録した選手は41人いるが、田淵の本塁打率(打数を本塁打で割った数字=本塁打1本を打つのに要する打数)は王貞治に次いで2番目に少ない。※カブレラは300本塁打到達時点での本塁打率は田淵を下回っていたが、その後のペースダウンにより最終的には田淵を上回る数字で引退した。特に1983年には、故障で82試合しか出場していないにも拘らず30本塁打を打っており、プロ野球では初めて「規定打席に未到達で30本塁打」を記録した選手となった。この記録は2012年シーズン終了時点で田淵を含めて6人が記録しているが、田淵以外はいずれも外国人選手によるものである。デビューは対大洋戦での江夏豊の代打。平松政次と対戦し、シュートに手が出ず三振だった。これ以後シュートを極端に意識するようになり、若い頃の田淵はホームランを打つと球種が何であろうと取材には「打ったのはシュート」と答えていた。取材したスポーツ記者はこれだけで記事を書かなければならず苦労したという。なお、デビュー戦ではグリップの位置が高かったが、翌日からは下げるように改めた。そのためか、1試合2本塁打という好結果につながった。対巨人戦に強い打者であり、巨人がV9を達成した1973年には、シーズン37本塁打のうち16本を巨人戦で放っている。また同シーズンには1試合3本塁打を2度記録しているが、2度とも巨人戦である。また、巨人戦で5試合連続で9本塁打、7打数連続本塁打(前述)を記録。優勝争いをしていた10月10日の巨人戦では2-5の劣勢をひっくり返す逆転満塁本塁打を放った。これは田淵にとってプロ入り初の満塁本塁打だったが、田淵の記憶によればプロのみならず「野球人生初」だという。しかし、翌日の巨人戦は一度は7-0とリードしながら江夏がKOされ、10-10の引き分け。残り3試合でマジック1だったにもかかわらず広島、中日に連敗、巨人との最終決戦(10月22日、甲子園)にも敗れ、優勝はならなかった。後に本人も「このとき優勝していれば自分の野球人生は変わっていた」と語っている。打撃に対する姿勢も天才肌だったようである。西武時代に同僚だった野村克也が、大鏡の前で素振りもせずただ構えをチェックしている田淵を見つけ、何をしているのかと聞くと「僕は構えさえ決まれば打てるんです」と答えた。野村は「構えは確かに大事だが、いい構えだけでさあ何でも来いというのは田淵だけや」と呆れたという。いしいひさいちの『がんばれ!!タブチくん!!』では、極めて短足で「ドタドタ」と重そうに走る様子が描かれ、「滅多にないことの例え」として「タブラン(田淵のランニングホームランの略)」という言葉が出てくるが、星野仙一によれば法大時代の田淵は俊足であった。長嶋茂雄の六大学記録に迫っていた時、ランニングホームランで達成しそうになり「失礼だ」という理由で三塁で止まったこともある。プロ生活ではランニングホームランは一度もなく、盗塁も18個しか記録していないが、これは肥満以上に度重なる怪我の影響が大きい。また、球界屈指の長足でもあったが、それゆえにバッティングフォームの重心が高く、確実性に欠けるとの指摘もされていた。江夏豊は「田淵ほど、何もしない、何も考えないでホームランを打った男を知らない。オレがいままで見た野球選手のなかで、天才と呼べるのはただ一人、田淵幸一だけや」と述べている。西武時代監督だった広岡達朗は「あれには注文をつけても仕方がない。ホームランさえ打ってくれたらそれで十分だ」と述べている。長打力のある選手に多めの傾向があるとされる三振だが、現役時代は三振の少ない選手であり、1シーズンに100以上の三振を記録したことは一度もない。公式戦における犠打はゼロである。日本球界において、通算400本塁打以上を放ちながら、2000本安打に到達しなかった日本人選手は田淵と山崎武司の2人だけである(外国人選手を含めるとタフィ・ローズを加えて3人となる)。若い頃は巨体ながら捕手としての動きは俊敏で、大学時代には俊足の高田繁との対決が見せ場であった。プロ入りしてからもボールを受けてから二塁に投げるまでの速さはトップクラスで、加えて強肩でもあり、20代の頃は盗塁阻止率4割以上を記録している。しかし、既述の外木場から受けた死球の影響により聴力の低下や体質変化(肥満)のためにプレーが緩慢になっていったと言われる。よく挙げられるのは、阪神時代に何でもないキャッチャーフライを見失い、落球したというプレーである。また、当時の阪神には辻佳紀・辻恭彦など守備の得意な捕手がいたこともあり、怪我をして以降は一塁や外野でも出場、西武に移籍後は主に指名打者として出場していた。江夏豊によると、田淵が捕手として大成できなかった要因は大雑把な神経にあるという。一般に曲者揃いとされる捕手の中では珍しい、非常に大らかな好人物である。江夏豊もその人間性について「ブチほど純粋で裏表のない人間はいない」と述べている。目が合って一言でも挨拶してしまうと途端に相手が敵とは思えなくなり、まともな勝負ができなくなってしまうため、試合前に対戦相手の選手とできるだけ目を合わせないようにしていた、「当たると痛い」のでインコースギリギリに投げて打者を威嚇するようなサインは絶対に出さなかった(江本孟紀による)、コーチに「サインが盗まれているから隠せ」と言われても「そんなこすっからいことする人いません」と取り合わなかったなど、人の良さを示す逸話は枚挙に暇がない。また、サイン盗みは卑怯なやり方として絶対に使おうとせず、正々堂々と勝負することを常としていた。10対0の大差で勝っている試合で、相手チームの選手に懇願され球種を「ストレートだ」と教え、打たれてしまったことがある。その選手は成績が悪く、代打起用でここ一番目立たねばならず「ミルク代を稼がせてください」と必死に打席で頼んだという。妻と子供を抱えているのを知っていて、つい教えてしまった。しかし「ストレートと知っていて打てるわけじゃないから、本人がそれだけの人だった」とも語っている(2008年1月17日放送のNHKラジオ「わが人生に乾杯」で本人談)。ある年の春季キャンプ中、ブルペンで江夏豊の球を受けていたところ、田淵のミットがほんの数ミリ動いてしまったのを「田淵さん、ミット動いたよ」と江夏に指摘されたという。田淵はその悔しさから鉄アレイで左手を鍛え、江夏の球をミットを全く動かさなくても捕れるようになったのだが、左手を鍛えたことが打撃にも好影響を与え、本塁打王のタイトル獲得につながったと語っている(2014年5月11日放送、TBSラジオ・爆笑問題の日曜サンデー内のコーナー『ここは赤坂応接間』より)。1977年から、入団当時に比べ太ってしまった田淵をモチーフとした漫画『がんばれ!!タブチくん!!』(いしいひさいち作)が連載され、単行本がベストセラーになった。漫画の中ではタブチの良きパートナーとしてヤクルトの安田猛や大矢明彦、また当時ヤクルトの監督で後に西武の監督に就任する広岡達朗もキャラクターとして登場、1979年には映画にもなった。『がんばれ!!タブチくん!!』に出てくる夫人・ミヨコは、前夫人がモデルである。田淵本人は最初知らなかったが、家庭内のネタは前夫人が情報源であったことをテレビ番組内で語っている。自身をネタにされているにもかかわらず田淵自身この漫画の大ファンで、いつも読んでは大笑いしていたという。NHK教育テレビ『YOU』(1984年)に出演した際には「マンガまで書いて応援してくれるなんて嬉しい。作者に会ってお礼が言いたい」とまで語っている。また、タレントのダンカンが江夏から直接聞いた話として、劇場アニメ化された際に江夏と2人で鑑賞に行った際、「自分をモデルにした映画だと言うから観に来てみたら、お客さんが全然入っていな~いじゃないか!」と内容ではなく観客の入りの少なさを怒っていたという。この言葉に江夏は「ま、昼間やから仕方ないやろ。夜やったら満席やでぇ」と慰めたという(DVD-BOX同梱の解説書より)。田淵が現役引退(1984年)した翌年の1985年1月9日、『球界のスーパー・ヒーロー引退に捧ぐ!』という副題で、劇場第1作目が日本テレビ『水曜ロードショー』で記念放送された。現夫人は野球にはまったく興味がなく、この漫画で田淵の存在を初めて知った。その結果として彼女と結婚できたので、田淵自身は「この漫画には不満などなく、むしろ感謝している」と、後年テレビ番組内で語っている。阪神、西武時代を通じて背番号22を着けた(主将となった1968年に「10」をつけた以外、法大時代にも着けていた)。田淵は22という数字に縁があり、大学での通算本塁打数、ルーキーイヤーの本塁打数がいずれも22本である。田淵が西武に移った後の1983年、阪神は田淵の移籍以来その功績を讃えて空き番にしていた背番号22を、法大出身の木戸克彦捕手に与えた。その後、関川浩一(21から変更)、中谷仁(その後66に変更)までは捕手が続いたが、喜田剛(外野手だが大学時代は捕手、その後55に変更)、マイク・キンケード(内野手だが米国で捕手経験あり)と捕手を経験した野手が続き、2005年からは藤川球児(~2012年)、呉昇桓(2014年~2015年)と投手が続いている。西武では田淵以後の22は捕手が多く、捕手以外は行沢久隆(内野手・現役最終年の1988年のみ)、清水義之(内野手)、岡本篤志(投手・2012年に59から変更・現役)の3人のみである。外野に専念してレギュラーとして定着する以前の和田一浩(その後5に変更)も捕手との兼任で22を着けていた。なお、西武の前身である西鉄―太平洋クラブ―クラウンライター時代は、捕手は1950年の笠石徳五郎と1951年の後藤宏之の2人だけで、投手が着けていた時期もあり、主力では玉造陽二(外野手、その後17に変更)、東田正義(外野手)や吉岡悟(内野手、田淵に22を譲った後は8)などが着けていた。また、後にプロゴルファーとなった尾崎将司(旧名・正司。投手→内野手)も着けていた。夫人は元女優のジャネット八田(八田有加)である。いわゆるできちゃった結婚であり、田淵は当時バツイチで年齢も35歳であったため話題を呼んだ。二人の間に2男があり、長男はフジテレビアナウンサーの田淵裕章(たぶち ゆうしょう)。親類に元宝塚歌劇団星組・月組娘役トップの初風諄がいる。江本孟紀は法政大学の1学年後輩で、江本の阪神移籍後は学生時代以来のバッテリーを組んだ。古沢憲司を含む3人でよく一緒に行動し、田淵が西武へのトレードを伝えられるために呼び出された日にも3人でゴルフをし、場所を変えて球団の再建策を話し合っていたという。星野仙一、山本浩二とは親友である。もともと大学時代、広島の田舎から出てきた山本に田淵が東京を案内したのがきっかけ。この2人と富田の三羽烏があまりに仲がいいので、星野が嫉妬して割って入ってきた。現役時代、広島遠征時には、敵味方に分かれているにもかかわらず山本と一緒に食事をしたり、山本の家に遊びに行ったりしていたという。田淵自身は公私混同を避けるため、阪神コーチ時代は星野との友達関係を捨てて一線を画した。しかし、星野を取り上げた日本テレビ系『スーパーテレビ』では、3人の会食・裏話も飛び出す談笑が放送されており、この中では完全に友達関係であった。阪神コーチ退任時の会見では「ようやくこれからは前みたいに"仙ちゃん"と呼んで、普通に話ができるよ」と発言した。『がんばれ!!タブチくん!!』がアニメ映画化された際に主人公・タブチの声を演じた西田敏行とは、西田自身が阪神ファンであることもあって親交を深め、その縁で西田が「局長」を務める朝日放送の『探偵!ナイトスクープ』に田淵も番組顧問として不定期に出演している。また、西田が主演の映画『釣りバカ日誌』シリーズへの出演を田淵に依頼したこともあるが、実現しないままシリーズが終了した。以下に記す通り、田淵は、毎年のように大きな怪我や病気に見舞われていた。怪我のせいでタイトルを棒に振ったシーズンも多く、また、腎臓炎治療の際の投薬治療が原因で肥満するようになったと言われる。全試合出場は1975年、1976年の2度しか記録できなかった。王の連続シーズン本塁打王をストップしたのは田淵だが、王は田淵について「瞬間的爆発力という点ではすごかったと思うけど、何しろ怪我が多かったからね。(タイトル争いの上では)怪我らしい怪我をほとんどしない山本浩二や衣笠のほうが不気味だったね」と語っている。この他、TBSラジオからの系列各局向けの裏送り中継も担当。楽天コーチ就任以前は、RCC向けのDeNAまたは巨人主催広島戦(Veryカープ! RCCカープナイター/カープデーゲーム中継)以外への裏送り中継への出演は少なかったが、2013年の復帰後は逆にパ・リーグの試合の裏送りの出演機会が多くなっている。

出典:wikipedia

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