


倉澤 清忠(くらさわ きよただ、1917年 - 2003年10月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。東京都出身。第一東京市立中学校(のちの東京都立九段高等学校)卒業。士官候補生第50期。在学中に航空兵科へ転科し、陸軍航空士官学校の最初の卒業者の一人となった。卒業後、浜松飛行学校で軽爆撃機の操縦を習得した。陸軍大学校在学中、首相兼陸軍大臣の東條英機が訪問した際、「パイロットがこんなところで勉強しているのはもったいない。いまは戦隊長が足りないときだ。早期に卒業して第一線に行くように」と述べ、1944年5月に倉澤を含む16名の航空所属者は他の同期生より2ヶ月早く卒業した。鉾田の陸軍飛行学校研究部に赴任。この時期取り組みの始まった「体当たりによる敵艦船攻撃」の研究を命じられる。同年9月、徳之島に向かう途中知覧基地を離陸した際、プロペラが停止して墜落。意識不明の重体となり3ヶ月入院する。回復はしたが、左眼の視力が極端に落ち、パイロットとしての活動は不可能になる。同期の航空士官は大半が戦死していたことから予備役とはならず、鉾田に復帰した。鉾田に復帰した後は研究編成が開始されたばかりの特攻隊の訓練に当たった。同年12月、27歳で参謀となり、特攻隊を含む航空部隊の管理を担当した。第6航空軍が、何らかの理由で出撃または突入できずに帰還した特攻隊員を収容する振武寮を福岡市に設営すると、倉澤はそこで帰還した将兵を指導する任務に就く。体験者の証言では、倉澤は軍人勅諭を毎日筆写させたり、忠誠心が欠落していると罵倒したりし、反抗的な者には竹刀で殴打したとされる。後年の倉澤の証言によると、帰還者はみな「怪しい」とみて「ちょっと臭いやつに対しては強く出た」という。学徒出身の特別操縦見習士官に対しては、知識があるために特攻作戦に消極的だとみて厳しく接した。一方、少年飛行兵は若くして軍隊に入っているので扱いやすいとも述べている。終戦後、一橋大学に入学して経済学を学んだのちに印刷会社に勤務、最後は社長となった。倉澤は晩年の証言で自分が特攻出撃の現場責任者だったので恨みに思われるのは仕方がないと語り、80歳になるまで護身用に拳銃と軍刀を隠し持っていた。一方、かつての特攻隊員が、自機が故障のため代替機を受領に出向いた際に「なんで帰ってきた!卑怯者のお前たちに与える飛行機なんかない!」と倉澤に罵倒されたことを「そのように言われる筋合いは一つもない」と批判したと取材で伝えられたときには、「今になって批判しているが、そんなに命が惜しかったら最初から(飛行兵に)志願しなけりゃいいんだ。日本の軍隊は天皇のために命を惜しまず死ぬ覚悟があったはずで、今さら自分が悪いというのは筋違いも甚だしい」と発言している。また、戦後、航空奉賛会や航空同人会の活動には積極的に関わったが、周囲に特攻について話すことは極力控え、その理由として、特攻隊の元隊員や遺族らが恨みに思っているに違いないことを挙げており、彼らからの自衛の為、常に実弾入りのピストルを手放さず持ち歩いていたと取材時のテープに証言している。2003年に作家の林えいだいから4度にわたって取材を受け、特攻隊の参謀当時の証言を残した。林による最後の取材から数日後の同年10月、リンパ癌で死去。
出典:wikipedia
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