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ティレル・020

ティレル・020 (Tyrrell 020) は、ティレルがF1世界選手権参戦用に開発したフォーミュラ1カー。020は1991年の開幕戦から最終戦まで、020Bは1992年の開幕戦から最終戦まで、020Cは1993年の開幕戦から第9戦まで実戦投入された。1990年シーズンに実戦投入した019に引き続いてアンヘドラルウイングを採用。フロントダンパーは018以来継続するモノショック方式。エンジンはカスタマー仕様のフォードDFR (V8) に代わり、ホンダのワークスV10エンジンを獲得。前年のチャンピオンエンジンを搭載して、さらなる速さを追及した。しかし、この年に行われたレギュレーションの変更が大きな影響を与えた。フロントウイングの幅が1990年よりも100mm縮小されたためにフロントのダウンフォースが不足気味となった。さらにホンダエンジンはDFRよりも重量が大きいため、リヤヘビーなマシンとなり、マシン特性が強烈なアンダーステアを抱えることとなった。これに対処するためにチームはギヤボックスケーシングの軽量化を行い少しでも重量配分を改善しようとしたが、それが020のアキレス腱となった。重量配分は若干改善され、それなりの速さを見せるようになっていたが、速さを増したためにギヤボックスに掛かるストレスが増し、再びトラブルに見舞われるというイタチゴッコだった。また、ピレリタイヤのグリップ不足も常に問題となった。結局このシーズンは入賞は両ドライバー合わせて4回にとどまった。1991年限りで引退となった中嶋悟用に、日本GPには鈴鹿スペシャルのRA101E/SN(Satoru Nakajima)が搭載された。1990年夏にホンダエンジンの獲得が決定したとき、当時のテクニカルディレクターであったハーベイ・ポスルスウェイトが、「ケン(・ティレル)には、020に搭載するエンジンはフォードHBエンジンを選んでほしかった」と語っていた。1991年シーズンにHBエンジンを搭載したジョーダン・191が快走を見せたことから、ポスルスウェイトの指摘は間違いではなかった。1991年にタイトルスポンサーであったブラウンやエンジンサプライヤーであったホンダが撤退した影響で一転してチームは資金難に陥った。そこでマールボロから持ちこみ資金が豊富なアンドレア・デ・チェザリスと、オリビエ・グルイヤールの布陣で臨んだ。この年のマシン、020Bは020にイルモアV10エンジンを積んだだけという状態だったが、ホンダエンジンよりも軽量で駆動系への負担も減ったことや、タイヤが全チーム共通のグッドイヤーに変更されたこともあってか1年落ちのシャーシでもそれなりの好走をみせ、チェザリスが4度の入賞をもたらした。新たに片山右京が加入したことで日本のタバコブランドであるキャビンからのスポンサーを得られた。シーズン前には、僚友であるチェザリスはマールボロの資金を持ち込んでいたため銘柄のバッティングからチームを離脱するのでは?と言われた。結局マールボロではなくキャビンロゴをマシンに掲載することで話はまとまったが、マールボロからの資金もチームにはもたらされていた。エンジンはジョーダンと決別したヤマハとワークス契約を結び、新開発のV10エンジンを搭載した。フロントウイングはフラップが大型化されるなどの改良が施された。しかし、資金難のため1991年に中嶋が使用したモノコックを改良したものもあり、2年落ちのシャーシでは戦闘力は乏しく経年劣化による剛性の低下も激しい為に、ストレートを真っ直ぐ走る事さえままならない状態であった。また著しいハイテク化の流れにも乗り遅れてノーポイントに終わった。シーズン中盤の第9戦にチェザリスが、第10戦に右京が021にスイッチした。() (太字はポールポジション、"斜体"はファステストラップ)タミヤから1/20のプラモデルとしてと、タミヤミニF-1(モーター動力)のバージョンで020が発売されている。ミニF-1のほうは絶版になっているがプラモデルは継続生産されている。WAVEからは、020Bが1/24プラモデルで発売されていた。1993年のカルビー製ポテトチップスには、裏面にティレルF1の設計場面が描かれたものが発売されていた。

出典:wikipedia

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