趙 倜(ちょう てき)は清末民初の軍人。北京政府に属した。原名は金生。字は周人。農民の家庭に生まれ、初めは学問を志した。しかし、貧困のため1890年(光緒16年)から武官の道を進む決意をする。済南に駐屯していた毅軍の馬玉昆に、初めは文書担当官として仕えた。しかし、騎馬・銃の訓練にも励んで成果をあげ、1894年(光緒20年)、騎兵管帯に昇進した。同年の日清戦争では、馬は平壌へ向かい、趙倜もこれに随従して日本軍と戦った。1898年(光緒24年)、毅軍が武衛左軍に改組され、山海関に駐屯すると、趙倜もこれに従う。1900年(光緒26年)、統領に昇進する。1908年(光緒34年)、武衛左軍総統官にあった馬玉昆が死去すると、姜桂題がその後任となった。趙は馬に引き続き、姜も良く補佐し、その信任を得た。これにより、武衛左軍全軍翼長に昇進した。辛亥革命の際には、山西省の閻錫山、陝西省の張鳳翽ら革命派と交戦している。民国成立後は袁世凱の配下となった。1914年(民国3年)1月、趙倜は豫南剿匪督弁として、陝西省・河南省で活動していた白朗を討伐する。同年8月に、白朗を戦死させ、この功績により宏威将軍に任命されている。9月には、徳武将軍兼督理河南軍務(いわゆる河南将軍)に任じられた。以後、8年に渡り、趙は河南を支配することになる。1915年(民国4年)12月、袁世凱が皇帝に即位すると、趙倜はこれを支持し、一等侯に封じられた。護国戦争(第三革命)を経て、1916年(民国5年)に袁が死去すると、趙は河南督軍に異動する。さらに、河南省長田文烈が北京政府の農商総長に任命されたため、省長も兼任した。安徽派の段祺瑞は、河南を自己の勢力圏に加えようと趙の罷免を狙ったため、趙は直隷派と結んでこれに抵抗した。1920年(民国9年)7月の安直戦争では、趙は直隷派に与して、これを安徽派を破った。ところが、直隷派の呉佩孚も、河南を掌握しようと動き始める。1921年(民国10年)から配下の馮玉祥に命じて、趙倜に圧迫をかけるようになる。趙は奉天派の張作霖らの支援を仰ぎ、一時は凌いだ。1922年(民国11年)4月に第1次奉直戦争が勃発すると、趙は奉天派に与して直隷派と戦った。しかし奉天派は敗北し、趙もまた馮に敗北した。5月10日に、河南督軍を罷免された。その後は、張作霖や張学良の下で高等顧問などとして遇される。趙倜は河南への復帰を何度も目論んだが、成功することは無かった。1933年(民国22年)、北平(北京)で死去。享年63。
出典:wikipedia
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