パンアメリカン航空(パンアメリカンこうくう、、通称:パンナム)は、アメリカ合衆国に存在した航空会社である。「パンナム」は日本での呼び方であり、当時の日本でのCMや広告でも「パンナム」を使用していたが、より英語に近い発音は「パナム」[ˌpæˈnæm] である。民間航空が各国で盛んになってきた1927年3月14日に実業家グループによって設立された。最初はアメリカからキューバを結ぶ航空郵便から始め、その後カリブ海路線ならびに南アメリカを結ぶ国際線を運航し、1930年代には路線網をヨーロッパやアジア太平洋地域をはじめとした世界各国へ拡大した。経営者であるファン・トリップ会長の強力なリーダーシップとアメリカ政府の庇護の元、国際航空の黎明期である1930年代から、第二次世界大戦や冷戦期を挟み、海外旅行の大衆化、低価格化が進んだ1980年代にかけて名実ともにアメリカのフラッグ・キャリアとして世界中に広範な路線網を広げていた。国内線をほとんど持たなかったものの、アメリカのみならず世界の航空業界内での影響力も大きく、アメリカ初のジェット旅客機であるボーイング707や、世界最初の超大型ジェット旅客機であるボーイング747といったボーイングを代表する機材の開発を後押しした他、世界一周路線の運航やビジネスクラスの導入、系列ホテルチェーン「インターコンチネンタルホテル」の世界的展開など、後に他の航空会社が後追いして取り入れたビジネスモデルを率先して取り入れた。しかし、1960年代後半頃より世界的に海外旅行が大衆化し価格競争が激化する中、高コストの経営体質を改善できなかったことや、1970年代にジミー・カーター政権下で導入された航空自由化政策「ディレギュレーション」の施行、その後の国内航空会社の買収の悪影響により次第に経営が悪化し、1991年12月4日に会社破産し消滅した。その知名度を生かすべく、ブランドとロゴ使用の権利を引き継いだ別会社が同じ塗装とブランドで近距離国際線と国内線を運航し、形だけは一時的に復活していたものの、結局経営を軌道に乗せることはままならず、2008年2月一杯で運航停止となっており、現在同名の航空会社としての運航は行われていない。1927年3月14日にヘンリー・アーノルドとカール・A・スパッツ、ジョン・H・ジョーエットら3人により、アメリカとキューバの間での航空郵便業務を行うことを目的に、フロリダ州のマイアミを拠点に創設された。当初はアメリカとキューバの間の航空郵便業務をアメリカ政府より受託した。その後W・アヴェレル・ハリマンやコーネリアス・ヴァンダービルト・ホイットニーなどとの関係も深いなど、政界や経済界との関係が深かった実業家で、アビエーション・コーポレーション・オブ・アメリカズの大株主であるファン・トリップの指揮の元、1928年6月23日には同社と合併するなど経営基盤を盤石なものとした。その後は創設の目的であるキューバ路線や、アメリカの植民地であるプエルトリコ路線をはじめとするカリブ海周辺の路線の開設を皮切りに国内線にも参入し、その路線網を着実に拡大して行った。1920年代後半から1930年代にかけては、チャールズ・リンドバーグを顧問に迎え、フロリダ州からのカリブ海路線以外にも当時アメリカがその影響力を増していた中南米路線を積極的に拡大するとともに、アルゼンチンやチリ、ブラジルなどの長距離国際線の路線権を獲得する。さらにそれらの国々の航空会社を次々と買収しその路線網を拡充していく。また、1929年には当時アメリカとカリブ海沿岸諸国、南アメリカ諸国を結ぶ客船ルートを多数運航していたアメリカのグレース・シッピング社と合弁会社のパンアメリカン・グレース・エアウェイズ社(「パナグラ(Panagra)」として知られた)を設立し、客船との接続ルートを運航した。なお当時は短距離から中長距離路線に至るまで飛行艇による運航が中心であり、マイアミ港に設けられた専用空港を中心に路線網を構築していた。1930年には、アラスカ経由で日本や中華民国へと向かう太平洋横断路線の開設をもくろみ、北太平洋航路調査のために顧問のリンドバーグ夫妻にアラスカ経由で日本に向けての調査飛行を行わせる。リンドバーグ夫妻は翌1931年に、ニューヨークからカナダ、アラスカ、日本を経て中華民国までロッキードの水上機シリウス号で飛行した。途中8月23日には国後島、8月24日には根室市、26日に霞ヶ浦、その後大阪と福岡を経て、中華民国の南京と漢口まで飛行した。妻のアン・モローの著書『翼よ、北に』にその記録が記された。しかし、アラスカから日本に至る航路の途中でソビエト連邦領であるカムチャツカ半島とその周辺の島嶼へのテクニカルランディングが許可されないと判ると、一転してサンフランシスコからハワイ、ミッドウェイ島、アメリカの植民地のフィリピンなどの、アメリカの領土内もしくは統治下の地域を経由して、同じくアメリカ租界のある上海へ向かう路線の開設を検討する。その後1935年4月には、シコルスキー S-42飛行艇によって同ルートの調査飛行を行い、同年11月には、マーチン M130「チャイナ・クリッパー」飛行艇によるサンフランシスコ-マニラ間を結ぶ太平洋横断路線を開設した。なおこの路線はサンフランシスコ―ホノルル―ミッドウェイ島-ウェーク島-グアム-マニラという、完全にアメリカの領土、もしくは植民地などの統治下を飛行するルートで開設され、その後イギリス領香港まで延長した。また、この路線は香港以遠を、パンアメリカン航空が所有する中國航空公司の中華民国内線へ、マニラ以遠を、オランダ領インド航空によりスラバヤをはじめとするオランダ領東インド域内線へと引き継がれているなど、アジア太平洋地域におけるアメリカやイギリス、オランダをはじめとする帝国主義国家の植民地経営の道具として大いに利用された。なお、19世紀に発達した大型帆船を意味する「クリッパー」の呼称は、その後数多くの機体に愛称として用いられ、パンアメリカン航空自身のコールサインやビジネスクラスの祖といわれる「クリッパー・クラス」にもその名を残すこととなった。また、初のアメリカ発のオセアニアへの直行ルートとして、1937年にはサンフランシスコ=オークランド(ニュージーランド)間を結ぶ路線を開設するなど、南太平洋にもその路線網を拡大した。続いて一時は断念したアラスカとカムチャツカ半島経由で日本への直行ルートを運航することを画策したものの、1939年9月に勃発した第二次世界大戦によって、この時点でアメリカは参戦していないものの多くの機材は軍に徴用され、その拡大の勢いは一時的に止まることになった。なお、太平洋横断路線の開設に続く1937年には、ノルウェーのDNL航空と協力する形で、ニューヨークからアイスランドのレイキャヴィク経由までをパンアメリカン航空が運航し、レイキャヴィクからノルウェーのベルゲンまでをDNL航空がシコルスキーS-43飛行艇で運航する、共同運航という形により初の大西洋横断路線を開設した。続いて同年6月にはイギリスのインペリアル航空と協力する形で、ヴァージニア州ノーフォークからバミューダ諸島、アゾレス諸島経由の大西洋横断路線をシコルスキーS-42飛行艇によって開設する。その後1939年6月には、より高性能で大型なボーイング314飛行艇によって、ニューヨーク港からイギリスのサウザンプトン港へのより短時間で飛行する路線を開設するなど、大西洋においてもその路線網の拡張を続けた。しかし太平洋横断路線と同じく、大西洋横断路線は1939年9月の第二次世界大戦の勃発により同年10月をもってその運航が停止され、就航したばかりのボーイング314飛行艇を含む多くの航空機と運航乗務員はアメリカ軍の管理下に置かれ、大西洋の対岸で行われている戦争に備えることとなる。1939年9月にヨーロッパにおいて第二次世界大戦が勃発したものの、アメリカは参戦せずイギリスへの武器供与を行う程度であった。しかし上記のようにアメリカ国内は準戦時下とも言える状態に置かれ、今や戦禍に覆われたヨーロッパや、日本と中華民国の間で勃発した日中戦争やそれに続く日本軍の仏印進駐により緊張下に置かれたアジア太平洋地域への路線を持つパンアメリカン航空の国際線の多くは、軍の管理下に置かれることとなった。そしてアメリカが1941年12月に日本との間に開戦し、続いてドイツやイタリアなどの枢軸国に対して宣戦布告したことで、前年に就航したばかりの、世界初の与圧キャビンを持つ旅客機であるボーイング307をはじめとするパンアメリカン航空の所有機と、その乗務員のほとんどが軍に徴用されることとなった。パンアメリカン航空は、大戦中を通じて太平洋地域や大西洋地域を含むアメリカ軍の戦闘地域における国際線運航における様々なノウハウを軍に提供し、政府および軍と強力な協力関係を保ち続けた。1945年8月に終結した第二次世界大戦後における航空業界の復興時に、トリップはアメリカ発の国際線を独占しようとたくらみ、「パンナム選出議員」と言われたオーエン・ブリュスター上院議員が提出した、パンアメリカン航空の国際線独占を後押しする法案である「コミュニティー・エアライン法案」の成立に奔走したものの、トランス・ワールド航空やアメリカン航空の系列会社のアメリカン・オーバーシーズ航空などの強硬な反対によりその目論見が成功することはなかった。その結果、ブラニフ航空が南アメリカ路線を、ノースウェスト航空が太平洋路線を、トランス・ワールド航空とアメリカン・オーバーシーズ航空がヨーロッパ路線を運航することになったが、全世界をカバーする権利を持つアメリカの航空会社はパンアメリカン航空だけとなった。実際にその前後の1947年6月には世界初の自社運航による世界一周路線を開設(ニューヨーク=ロンドン=イスタンブール=カルカッタ=バンコク=マニラ=上海=東京=ウェーク島=ホノルル=サンフランシスコ=ニューヨーク)したほか、ダグラスDC-6型機やロッキード コンステレーション、ボーイング377「ストラトクルーザー」型機などの最新鋭機を次々に導入、他社に先駆けて大西洋無着陸横断路線を開設するなど、航空機の技術革新を背景に再び世界中にその路線を拡大していった。なお、第二次世界大戦時に戦場となった世界各地に次々と飛行場が建設されたことや、第二次世界大戦時に製造された地上機が大量に払い下げられたことなどから、パンアメリカン航空においても第二次世界大戦後はこれまでの飛行艇に代わり、地上機が運航機材の中心となった。その後1950年にアメリカン・オーバーシーズ航空を買収した上に、ベネズエラのアベンサ航空やコロンビアのアビアンカ航空など、「アメリカの裏庭」と称されたカリブ海や南アメリカの複数の航空会社の設立、運行および経営を支援した傍ら、これらの航空会社のみならずその国の航空に多大な影響力を及ぼした。なおこのような関係は、パンアメリカン航空の経営が傾き始めた1980年代後半に至るまで続いた。また、以遠権がある上に、第二次世界大戦終結後の高度経済成長下で外国からのビジネス訪問客が増加していた日本の東京をハブ空港にして、大阪国際空港などの日本国内やフィリピン、インドネシアなどのアジア域内、グアム路線などのアジア太平洋地域への乗り継ぎ便を運航した。ヨーロッパにおいては、ロンドンやフランクフルトをハブ空港に、イタリアやスイス、トルコなどのヨーロッパ域内の乗り継ぎ便を運航した。さらに、第二次世界大戦終結後に西ドイツと東ドイツに分断されたドイツにおいて、西ドイツの東ドイツ内の飛び地となった西ベルリンと西ドイツ各都市の間の便を運航するなど(同路線は西ドイツの航空会社は運航できなかった)、以遠権や戦勝国の1国としての権益をフルに使った域内国際線の運航も活発に行った。1950年代初頭には世界最初のジェット旅客機であるデ・ハビランド DH.106 コメットIを、英国海外航空や日本航空やエールフランスなどの他の国のフラッグ・キャリア同様に発注したものの、その後同機が設計上の欠陥で運航を停止したことを受け、ボーイングがアメリカ空軍の輸送機として開発していたボーイング367-80を民間旅客機用に転用したアメリカ初のジェット旅客機のボーイング707型機20機を1955年に発注した。また同時に、同機の開発、運航がDH.106 コメットIのように失敗に終わった場合の「保険」として、ボーイングのライバルのダグラスが開発していたDC-8も25機発注した。なおボーイング707の開発過程では、かねてから顧問を務めていたチャールズ・リンドバーグとともに、豊富な国際線運航経験をもとにした数々の要求や注文をボーイングに投げかけ、同機の開発に大きく貢献した。その後1958年秋にボーイング707の初号機の引き渡しを受け、大西洋横断路線における最大のライバルである英国海外航空による、DH.106 コメットの最新型であるコメットIVの就航に遅れることわずか1カ月程度の同年10月26日にニューヨーク-パリに就航させたことを皮切りに、世界一周路線を含む世界各地への路線へ就航させた。またその翌年にはダグラスDC-8型機も就航させ、同じく国内幹線や世界各地の路線へ就航させた。なお、これまでの機材の倍以上の乗客数を持つボーイング707型機とダグラスDC-8型機の就航に合わせて、1960年に本拠地のニューヨークのアイドルワイルド空港に、巨大な専用ターミナルビル「」を竣工し同年5月24日から供用を開始した。同ターミナルビルは、ベツレヘム・スチールなどの全面的な協力を受けて建設され、乗客及び貨物の処理能力を既存のターミナルビルに比べて格段に拡大させ、またボーイング707サイズの機種を6機同時駐機した上で、雨天でも乗客が濡れることなく乗降できるにつけることができるほか、複数のレストランやバー、ラウンジを備えた大規模なものであり「New Jet Age Terminal」と称された。このように、当時世界の航空業界をリードしていたパンアメリカン航空が、ボーイング707やダグラスDC-8などの、既存のプロペラ機の倍以上の旅客を倍近い速度で運ぶ大型ジェット機を大量就航させたことにより、世界各国における旅客機のジェット化を推進させただけでなく、1960年代初めまで大西洋横断路線における最大のシェアを持っていた定期客船の時代に終止符を打つ役目を果たすこととなった。「パンナム・ワールドポート」の供用開始に次いで、1963年3月7日にはマンハッタンのランドマークの一つとなる、世界一高い商業オフィスビルであった巨大な本社ビル「パンナムビル」の竣工した。さらにパンナムビルの屋上のヘリポートからアイドルワイルド空港までのヘリコプターの運航、世界初のビジネスクラスである「クリッパー・クラス」の導入、超音速旅客機であるアエロスパシアル・コンコルドやボーイング2707型機の発注(その後両機に対する発注はキャンセルされた)など話題に事欠かなかった。また、1960年代当時に世界的な人気を誇っていたイギリスのロックバンド「ビートルズ」の初訪米や、ジャクリーン・ケネディやマリア・カラス、アーガー・ハーン3世などの世界各国のセレブリティーの移動の際に多く使用され、その度にテレビや雑誌の誌面を飾ったことから、海外旅行のアイコン的な扱いを受けることとなった。なお、1964年2月のビートルズ初訪米の際に使用されたボーイング707は「Jet Clipper Beatles」と特に命名された。なお、このように派手に話題を振りまいたことや、「パンアメリカン」(=「汎アメリカ主義」と訳すことができる、ただしそれは必ずしも命名者の意図したところではない)という社名、そして冷戦下におけるアメリカ政府との密接な関係(特に1960年代から1970年代にかけて行われアメリカも参戦したベトナム戦争中は、アメリカ軍との契約の元にアメリカ軍の兵士の戦時休暇のための特別便を、南ベトナムのサイゴンやダナンからホノルルや香港、アメリカ占領下の沖縄などへ向けて運航した他、同じく契約を元に、平時の軍事輸送にも長年あたっていた)から、いわゆる「アメリカ帝国主義」の体現者と見なされることも多かった。そうした「アメリカを代表する航空会社」という地位と高い知名度、広範囲に張りめぐらされた路線網が仇となり、1960年代以降は、PFLPやアブ・ニダル、リビアの情報機関をはじめとする反帝国主義や反米組織が行ったハイジャックやテロの標的になることも多かった。1960年代後半には、ボーイング社がアメリカ空軍の超大型輸送機として開発を進めていたが、ロッキード社の開発したC-5との発注競争に敗れたために民間型へ転用し開発をしようとしていた超大型旅客機であるボーイング747型機をトリップ会長の指導のもと大量発注し、ローンチカスタマーとなった。同機は2階にファーストクラス乗客用のラウンジを備えた他、旅客機として世界初の2列通路を持ち、ボーイング707の2倍強の350席以上のキャパシティを持つなど、これまでの旅客機の概念を一新する内容を持ち、その後同機はパンアメリカン航空のライバルであるトランスワールド航空やノースウェスト航空、日本航空や英国海外航空なども相次いで発注し、その後の世界的な海外旅行の大衆化を後押しすることになる。同機は昨年に就任したナジーブ・E・ハーラビー・ジュニアCEO同乗の元で1970年1月にニューヨーク-ロンドン線に就航し、その後サンフランシスコ-ホノルル-東京線など矢継ぎ早に高収益路線に就航した。その後同機を国内外の主力路線に導入し、間もなく同社の花形路線である世界一周路線にも就航した。なお1971年には、既に手狭となっていた「ワールドポート」が拡張され、ボーイング747に対応したスポットが増設された上に貨物処理能力も向上し、さらに社名を追加し「パンナム・ワールドポート」と改称された。さらにその後1976年4月には、ボーイング社に特注した超長距離型のボーイング747-SP(SP-スペシャル・パフォーマンス)型機により世界初のニューヨーク-東京間の無着陸直行便を就航させた。当時世界最長の無着陸定期路線であったニューヨーク-東京間の直行便は、アンカレジやシアトルなどを経由する路線しか運航していなかったライバルの日本航空やノースウェスト航空の同路線から次々と乗客を奪うほどの脅威となった。また、同型機はサンフランシスコ-香港間ノンストップ便をはじめとする超長距離路線にも投入された。これがSPが誕生したきっかけとなった機材としても知られる。なお、第二次世界大戦後の民間航空の復興期である1940年代中頃から、航空自由化政策(ディレギュレーション)が施行され、運賃競争が始まる直前の1970年代後半頃にかけてがパンアメリカン航空にとっての黄金期であった。この頃パンアメリカン航空は「世界で最も高い経験値を持つ航空会社(World's Most Experienced Airline)」(日本でのテレビコマーシャルなどでは「経験の香り」と言うコピーでこの言葉を表していた)を標榜し、高い知名度もありまさに世界を代表する航空会社として振舞っていた。しかし1970年代半ばには、自らがローンチ・カスタマーとなったボーイング747の大量導入による供給過多と価格競争による収益性の悪化が重くのしかかってきた上に、1973年にアメリカ軍がベトナム戦争から撤収したことで高収益が見込めた軍や政府のチャーター便が大幅に減ったこと、また1970年代初頭に起きたオイルショックによる燃料の高騰で体力が弱ってきたにも拘らず、パイロットやスチュワーデスの高給をカットできず、高コスト体質のまま太平洋線、大西洋線などの高収益が見込めた国際線の競争が次第に激化していったことで慢性的な赤字経営に陥っていった。その上、1970年代後半にジミー・カーター政権による(,ディレギュレーション)が施行され、他社による国際線への進出が進んだことにより価格競争がさらに激化したことから、新たな収益源を模索することとなった。ディレギュレーションの施行を受けて他社の国際線への進出が可能になったことと引き換えに、パンアメリカン航空にも幹線以外の国内線への進出が可能になったことを受けて、これまでは規制のために脆弱であった国内線網の充実を図り、1980年に、アメリカ東海岸を中心とした国内路線と国際路線網を持っていた中堅航空会社であるナショナル航空を買収した。しかし、東海岸地域の路線を主に運航する中堅航空会社だったナショナル航空の国内線路線網は、ユナイテッド航空やイースタン航空、アメリカン航空などの大手に比べ脆弱であったことや、両社の運航機材の多くが別々のものであったこと(たとえば、パンアメリカン航空はボーイング747に次ぐワイドボディ機としてロッキード L-1011 トライスターを運航していたものの、ナショナル航空は同規模の大きさを持つマクドネル・ダグラスDC-10を運航していた)などから、整備や運航支援システムのみならず、乗務員の訓練への投資が必要となった。またナショナル航空が乗り入れていた空港カウンターの改修や機材の再塗装、乗務員の制服の統一、予約システムの統合などにも多額の投資を必要とした。さらにアメリカの中規模の国内航空会社と同程度であったナショナル航空の従業員の賃金形態や福利厚生を、「業界随一」とまで言われた高賃金であったパンアメリカン航空に合わせる等、結果的にナショナル航空の吸収合併による収益の拡大も期待したほど得られないばかりか、経営合理化による収支の改善効果はほとんど得ることもなく、結果的にパンアメリカン航空の経営状況を決定的に悪化させる結果となった。その上、組合の反対により賃金形態の健全化による赤字体質の改善は全く進まず、その上に度重なる事故などにより経営が急速に悪化し、1971年のCOO兼社長就任以降、ボーイング747SPによる超長距離路線の開拓や、ナショナル航空の買収をはじめとする積極的な事業拡大を先導したウィリアム・T・シーウェルCEOが1981年8月に責任を取り辞任した。同年9月には、ブラニフ航空やエア・フロリダCEOを歴任した経験を買われ、新たにCEOに就任したC・エドワード・アッカーの元で、ニューヨークの本社ビル「パンナムビル」を4億ドルでメトロポリタン・ライフ生命保険に売却したほか、同年にはインターコンチネンタルホテルチェーンをグランド・メトロポリタングループに売却し、この資金を元手に本業に集中することで経営状況の回復を狙った。しかしその後も経営状況のさらなる悪化が進み、1983年には、高度成長期以降急成長を続ける日本のフラッグ・キャリアである日本航空に、国際航空運送協会(IATA)の統計による旅客・貨物輸送実績世界一の座を開け渡した。1984年にはさらなる経費削減を目的に、燃費効率のよい2人乗務機であるエアバスA300やエアバスA310、エアバスA320の導入と、経年化したボーイング747やロッキード L-1011 トライスター、ボーイング747と同SPの早期退役による置き換えを発表した。さらに1985年には、日本路線を含むアジア太平洋地域の路線を、ハブ空港である新東京国際空港(現成田国際空港)の発着権やアジア諸国や日本国内の以遠権、社員や支店網、保有機材の一部、さらに「インカンバント・キャリア(日米間路線における先入航空会社としての既存権利を所有する航空会社)」の権利ごとユナイテッド航空に売却した。なお、第二次世界大戦前からの長い歴史を持つアジア太平洋路線は、上記の日本航空やノースウェスト航空などとのし烈な競争のみならず、大韓航空やフィリピン航空、シンガポール航空などの政府からの支援を受けた発展途上国や新興国の航空会社の急成長による価格競争の激化によって、以前に比べて収益が低下傾向にあったものの、インカンバントキャリアとしての地位や以遠権などの既存利益を保持しており、依然としてパンアメリカン航空にとっては高収益が見込める路線であり、経営陣や株主からは売却することへの反対意見が続出した。しかし、これによりパンアメリカン航空は多額の運転資金を得ることとなり、以降は「ビルボード・タイトル」と呼ばれた新塗装を導入しアメリカ国内線やヨーロッパ路線、カリブ海方面やメキシコなどラテンアメリカの路線運航に集中する傍ら、アジア太平洋路線の売却に伴いボーイング747SPやロッキード L-1011 トライスターなどの燃費効率の悪い長距離専用機材の放出を加速するととも、これらの資金を経営効率を上げるために有効に活用することで経営状況の改善を図る方策へと出た。なお、アジア太平洋地域路線はハワイまでの国内路線のみを残し、日本をハブとして運航していたグアムやサイパン路線、さらに第二次世界大戦前から就航していたマニラや香港、上海路線も併せて売却することとなった。なお1988年にこれらの経営縮小を先導したアッカーCEOは辞任し、トーマス・G・プラスケットが新たにCEOに就任した。その後ホノルルからの日本路線復帰の計画が持ち上がったが、同年12月に起きたいわゆる「パンナム機爆破事件」の影響で白紙になった。アジア太平洋路線の売却で一時的な運転資金ができ、アメリカ国内線やカリブ海、南アメリカ路線の増強を行った上に、日本路線復活を検討するなど経営状況に余裕ができてきたにもかかわらず、この爆破テロ事件で乗客の激減と多額の補償金という致命的なダメージを受けてしまう。運転のためのつなぎ資金を得るために、事件の翌年の1989年には西ドイツ国内とベルリン間の路線をルフトハンザ航空に売却し、1990年10月には、日本路線と並ぶ高収益路線であったロンドンのヒースロー国際空港への路線を、イタリアやスイスなどへの以遠権を含む路線の権利やヒースロー国際空港のターミナル、機材とともにユナイテッド航空に売却した。高収益路線の相次ぐ売却を行い運転資金をひねり出したものの、労働組合の反対により給与削減を柱にした経営効率化計画がとん挫するなど経営状況はほとんど改善せず、ついに1991年1月には破産と会社更生法の適用を宣言し、プラスケットCEOは責任を取って辞任した。同時に運転のためのつなぎ資金を得るために、マイアミ発を除くすべてのヨーロッパ路線とフランクフルト国際空港のハブとヨーロッパ路線、ケネディ国際空港のパンアメリカン航空専用ターミナル「ワールドポート」、ラガーディアからボストンとワシントンD.C.へのシャトル便のデルタ航空へ売却することになった。さらにマイアミ国際空港発着を除く中南米路線のユナイテッド航空への売却と、1986年に設立したコミューター便を運航する「パンナム・エクスプレス」のトランス・ワールド航空への売却を行うこととなった。これらの相次ぐ売却により、創業当時の本拠地であったフロリダ州のマイアミ国際空港を本拠地とし、わずかに残ったマイアミ発のロンドン(ガトウィック空港)、パリ線の他は、カリブ海周辺および南アメリカ路線、東部を中心とした国内線の運航を行う中規模航空会社として、デルタ航空の支援のもとでラッセル・L・レイ・ジュニアが新たなCEOに就任し、経営再生を行うこととなった。しかし、同年に勃発した湾岸戦争による国際線乗客激減と同時に起きた燃料高騰、そして最後の頼みの綱であったデルタ航空による支援策が、同社の大株主の反対を受け白紙撤回したことがとどめを刺す結果となり、ついに1991年12月4日に破産し運航停止し、かつて世界中にその路線網を広げた名門航空会社は終焉を迎えた。なお、最後の運航はバルバドスのブリッジタウンからマイアミへ向かう436便(ボーイング727-221ADV、機体記号N368PA、愛称:"Clipper Goodwill" 機長はMark Pyle) 出典1 出典2だった。パンアメリカン航空は、アメリカを代表する航空会社としてのみならず、まさに20世紀におけるアメリカの繁栄とその先進性を象徴する企業と見なされ、スタンリー・キューブリック監督の映画「2001年宇宙の旅」においてスペースシャトルの運行主体として想定されていたほどで(実際に1960年代後半に、世界最初の民間宇宙飛行の運行会社になることを想定し、アメリカや日本で乗客の予約を受け付け始めたことさえあった)、その終焉はアメリカ国民のみならず、全世界を驚嘆させる出来事となった。破産後の1992年に「パンアメリカン航空」の商標権は管財人により競売にかけられ、同年にはマイアミ国際空港のターミナルをアメリカン航空とユナイテッド航空へ譲渡した。パンナムの商標を買い取った元アイルランド大使のチャールズ・コブが1996年に元パンアメリカン航空のエアバスA300やボーイング727などを使い「新生パンアメリカン航空」の運航を開始。名称はもちろん機材の塗装やロゴまで当時のまま使用し再生が期待されたものの1998年に破綻した。その後、アメリカ中西部を基点とする運送会社が経営する小規模な航空会社が、パンアメリカン航空の商標を引き継ぎボーイング727を使い再び運航を開始したものの、2004年11月に運航停止となった。その後、同じくアメリカ東海岸を基点とする航空会社であるボストン・メイン・エアウェイズに機材を移管して運航を再開し、ボストン-トレントン(ニュージャージー州)線やオーランド-サンフアン(プエルトリコ)線などを運航していた。しかし、2008年2月29日を以って運航停止となっている。なお、その後もパンナムの商標は、同じグループのが引き続き使用している。なお、パンナムが発注したボーイング社製航空機の顧客番号(カスタマーコード)は21で、航空機の形式名は747-121, 747SP-21, 747-221などとなっていた。技術が発達していなかった黎明期より多数の便を運航していたこともあり、数十件の航空事故を起こしている。また、アメリカを代表する航空会社であったことから、テロやハイジャックの標的になることも多かった。1950年代(日本においては1970年代)以前の飛行機での旅行がまだ高嶺の花だったころ、パンアメリカン航空は、時代の最先端を行く象徴の1つとして捉えられていたことから、現在においても当時の広告や制服、機内サービス備品などのグッズなどがコレクターズアイテムとして取引されている他、日本においてもスパイダースやピチカート・ファイヴ、砂原良徳など様々なアーティストが好んで使用している。機内誌は「Clipper Magazine」がある。海外へロケや公演に向かうアメリカの映画スターや歌手に頻繁に利用され、その姿がニュース映画などで取り上げられることも多かったうえに、パンアメリカン航空の黄金期であった1930年代から1970年代に撮影された映画や、その頃を時代背景とする映画やテレビドラマの多くにパンアメリカン航空の機材やパンナムビルが登場している。海外へ渡航する際にパンアメリカン航空を利用する設定とし、自社機の離着陸シーンや機内のシーンを組み込むことを条件に、出演者や撮影スタッフの航空券を提供するなどの形で数々の作品でスポンサーを務めた。会社消滅後も、さまざまな映画やテレビドラマで扱われている。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。