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高岡熊雄

高岡 熊雄(たかおか くまお、1871年9月29日(明治4年8月15日) - 1961年(昭和36年)12月29日)は日本の農学者・農政学者・農業経済学者。第3代北海道帝国大学総長。島根県生まれ。津和野藩士高岡道敬の次男に生まれ、旧制山口中学校に進学、ここで出会った国木田哲夫(独歩)とは終生の親交を結んだ。その後中途退学して札幌農学校予科に進学。農学校では新渡戸稲造に師事。札幌農学校卒業後、同校助教授となり新渡戸の後任として農政学植民学を担当した高岡は、農政学・農業経済学研究のためドイツに留学し、帰国後教授に昇任した。同校の大学昇格、すなわち東北帝国大学農科大学⇒北海道帝国大学農科大学(のち農学部)への改編にともなって各大学の教授となり、また法学博士・農学博士の学位を受けた。1933年には北大の第3代総長に就任、同大「北方文化研究室」(学内措置で1937年設置)・「低温科学研究所」(1941年官制公布)の新設などに尽力した。1923年、兄の直吉が初代の札幌市長に選ばれ5年にわたる任期中、同市の本格的な都市開発に着手すると、学者として札幌商業会議所と密接な関係を結び、市参与・市会議員として札幌市政のさまざまな分野に関与した。第二次世界大戦後には北海道総合開発委員会の委員長を務め「札幌名誉市民」の称号を受けている。札幌農学校出身者で新渡戸稲造・佐藤昌介に師事、さらに留学先のドイツでゴルツ・シュモラー・ワグナーら歴史学派・社会政策学派に学ぶことによりドイツ農政学・統計学の学統を継承した(当時の札幌農学校は開校初期に主流を占めていた英米的な大農・畑作中心の農学から、ドイツ農学を導入し中小農・米作中心主義への学風の転換期にあたっていた)。また社会政策学会(1897年発足)および農業経済学会(1925年発足)会長、帝国農会特別議員をそれぞれ務め、日本農政の政策決定過程にも関与した。日本の農業経済分析に統計学的手法を導入、農事統計調査を通じて土地所有の「中農標準化」傾向を指摘した。これを根拠として経営規模の適正化を中心とする小農保護論を展開、さらにそれを促進する具体的方策として国内外における移植民送出と国内地主制の変革を提唱した。また小農の共同・組合組織による大量販売の有利性を主張し、産業組合(現在の農協)による農業界の革新を論じた。北大における植民学は、「本国に対する政治的従属関係」を重視する東大・京大の植民政策学と異なり、農業移民をいかに定着させるかという「拓殖学」の性格を色濃く有していたとされるが、このような北大植民学の路線を確立したのが高岡であった。高岡から植民学講座を引き継ぎ担当教授となった上原轍三郎によれば、高岡の立場は「もし農地を(規模適正化により)沢山農民に与えるとすれば、どうしても農民が余る。余った農民は日本の国では入れないんだからどうしても海外に行かなければならない。このためには移民と植民・移植民をやらなければならない」というものであった(この点、マルサス流人口論に依拠して人口圧力による民族進出を肯定、満蒙開拓移民の旗振り役となった那須皓の立場とも若干異なる)。高岡のもとで学び、特に彼の植民学・北海道農業史研究を継承する人物としては、主著『アイヌ政策史』で知られる高倉新一郎や、北海道経済史の研究者の南鉄蔵、農業経済学や農政学の研究者では池田善長、川村琢、湯沢誠、上原轍三郎、野口祥昌らがいる。

出典:wikipedia

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