阪急610系電車(はんきゅう610けいでんしゃ)は、かつて京阪神急行電鉄及び阪急電鉄に在籍した小型の通勤形電車である。宝塚線用として、老朽化した木造電車の車体更新の名目で1953年から1956年にかけて36両が製造され、宝塚線の輸送力増強に大きく貢献した。1950年代初頭の宝塚線系統では、車両規格の関係で全長約15m、車体幅約2.4 - 2.5mの小型車しか入線できなかった。そのため、1920年から1923年にかけて製造された51形木造電車36両に、1910年の箕面有馬電気軌道創業当初に製造され、鋼体化改造のうえ付随車化改造を行われた1形19両の木造車及び鋼体化改造車グループの55両と、阪急初の半鋼製車である300形20両が在籍していた。さらに、戦前の宝塚線を代表する320形・380形・500形の3形式合計49両と、1949年及び1951年に製造された運輸省規格形電車の550形16両といった鋼製小型車グループ85両の合計140両の小型車が運行されていた。宝塚線の需要増に対しては小型車ゆえに一列車当たりの単位輸送量が小さいことから増発と増結で対処しており、すでに戦前の1941年から梅田駅-池田駅間で51形を使用して4両編成運行が開始され、戦時下の1944年には5両編成運行に増強された。戦後は、宝塚線沿線に外地からの引揚者や空襲で家を失った大都市居住者が沿線に住まいを定めたことから利用者が急増、他の形式も全線通しでの3,4両編成運行が増えてはいたが、それだけでは増え続ける利用者の前に焼け石に水であり、抜本的な対策が求められるようになった。そこで、1949年12月の京阪分離独立後に、新生阪急として残った神戸・宝塚・京都三線の車体規格や車両性能を統一することとなり、車体規格の面では100形 (P-6) の車体長に800系の車体幅を持った阪急標準車体寸法が制定され、これをもとに1950年から神戸線向けの810系と京都線向けの710系が製造された。宝塚線においてはこれらの車両が入線できるように1951年から規格向上工事が実施され、1952年9月に宝塚線及び箕面線全線の規格向上工事が完成し、神戸線から600形や810系といった幅広な大型車が入線、輸送力の増強に貢献した。次に喫緊の課題となったのは、製造後すでに30年以上を経過し、戦時中から戦後の混乱期に酷使されて小型木造車体の老朽化が著しく進行していた51形の置き換えであった。規格向上工事前の1950年に51と78の鋼体化改造が試験的に行われたが、改造種車の台枠や主要機器を利用するだけの鋼体化改造では、阪急標準車体寸法に適応した車体の大型化もままならないことから、輸送力の増強に貢献しないことが判明した。そこで、51形の置き換えに際しては、単なる鋼体化にとどまらず、幅広の普通鋼製車体に載せ替えを行って、老朽化対策や安全性の向上、床面積の増大、接客設備の向上を図ることが検討された。また、種車の台車や主要機器では新しい車体を支えることが困難であることから、380形・500形も含めて台車及び主要機器の振替を行うことで、新造車体を支える足回りを確保した。加えて搭載機器の関係で320形と380・500形とでは性能が異なっていたために運用も別々であったものを、この振替によって戦前製小型車グループの性能を統一し、運用の合理化を図ることがもくろまれた。こうして、輸送力増強と木造車淘汰の一石二鳥を狙って本形式が登場した。本形式は、1形のうち電動車として残っていた7・8の2両と、51形のうち先に鋼体化改造を実施されていた51・78の2両を除く34両を種車に、片運転台の制御電動車610形13両、阪急初の中間電動車630形10両、片運転台の制御車660形13両で構成されていた。車体幅こそ阪急標準車体寸法と同じ2.75mに拡大されたものの、本形式が履くこととなった380形及び500形の住友金属工業製鋳鋼台車の心皿負担荷重の関係で、車体長は小型車並みの約15mとなった。このため、鉄道雑誌の解説などで、「51形が380・500形に生まれ変わり、380・500形が大型化された」と書かれていることもある。また、本形式は大型車の車体幅と小型車の車体長を併せ持つ車両として、阪急社内では中形車と呼ばれるようになった。車体は、先に登場した810系をベースにナニワ工機で新造した全鋼製車体であり、車体幅は2.75mで車体長は約15mとなったのは前述のとおりである。側面窓配置は先頭車の610形及び660形がd1(1)D6D(1)2(d:乗務員扉、D:客用扉、(1):戸袋窓)、中間車の630形が2(1)D6D(1)2である。前面は阪急標準の3枚窓で、中央頭部に前照灯を、左右幕板部には尾灯を取り付けて、左右の車体裾部にはアンチクライマーを装備している。最初に登場した610・660の2両のみ非貫通車であったが、後に製造された車両は全て貫通車であり、貫通車グループの前面窓の支持には阪急では珍しくHゴムを多用していた。室内灯は白熱灯であったが、1956年3月に登場した最終増備車の621-671・622-672の2本については蛍光灯に変更されている。台車及び電装品であるが、前述のとおり380形及び500形に種車の51形から流用のブリル27MCB-2台車やボールドウィンBW-78-25AA台車、主電動機はゼネラル・エレクトリック社製GE-263、制御器はPC-5を回し、本形式には玉突きで380形・500形が従来装備していた住友金属工業製鋳鋼台車を履き、主電動機は芝浦製作所製SE-121E及びGE製GE-240A等を610形には4基、630形には2基搭載し、制御器は電空カム軸式の芝浦83-PC-1及びGE製PC-12を装備したことから、実際には書類上の種車の主要機器を直接利用していない。駆動方式は吊り掛け式であるが、最初に登場した610-620-630-660の4両編成のうち630はWN平行カルダン駆動方式、620は直角カルダン駆動方式の試験車となった。このうち、620が履いていた東芝製TT-5台車とモーターについては1956年3月に登場した最終増備車の621に、630のモーター及び電装品は622に換装されている。本形式は、車体長は約15mと短かったが、車体断面は阪急標準車体寸法と同一であったことから、810系を小型化した均整の取れた形態に仕上がっていた。610系と種車の新旧車番対照は下表のとおりで、種車については表中の地色をオレンジ色にしている。なお、620号については脚注のとおり。本形式は、1953年8月に登場した610-620-630-660の第一編成を皮切りに順次就役、宝塚線及び箕面線において急行から普通までの全列車種別に充当された。本形式は改造車ゆえに車両数に変化はなく、車体長は小型車並みの15mでも、車体幅は阪急標準車体寸法を採用して2.75mの幅広車体となったことから、定員は610形及び660形で110人、630形では115人と、種車の51形の90 - 99人、300形から550形までの92人を上回った。また編成当たりの定員についても、4両貫通編成で450人、2両編成×2本の4両編成で440人と、本形式の4両編成で小型車5両編成並みの輸送力を確保するとともに、老朽木造車の追放によって安全性の向上も実現、輸送力の増強と体質改善に大きく寄与した。こうして、本形式は宝塚線の主力車として大型車の810・600、小型車の300・320・380・500・550の各形式とともに増加する乗客の輸送に従事した。1956年2月に発生した庄内事件の直後の3月に本形式は全編成就役、宝塚線から51形木造車が姿を消した。その後も宝塚線の輸送力増強は推進され、小型車に続いて本形式の5両編成運行も開始された。このときは4両貫通編成から630形を1両抜いて2両編成の中間に組み込み、3両+2両で5両編成を組成している。また、4両貫通編成の中間電動車を2両とも抜いた2連が箕面線を走ることもあった。1957年から登場した1200系への機種流用に際しては、660形のうち、663,664,670の3両を除く10両のH-5-イ台車を300形から捻出されたブリル27MCB2に履き替え、H-5-イ台車を550形Mc車及び920系の制御車である950形の一部の車両に転用した。1960年代に入り宝塚線の6両編成化が進行すると再び3両化されていた4両貫通編成をもとの4連に戻し、4+2の6両編成で運用されるようになった。このとき、非貫通の610及び660が常時先頭に出るように編成の組み換えが行われている。また、この時期になると1100系や2100・2021系の増備や神戸線からの920系の転属に伴って本形式が急行運用に投入される機会は減っていたが、箕面線直通の準急運用や普通運用ではまだまだ主力として運用されており、1963年12月のダイヤ改正で小型車の宝塚線本線運用が消滅した後も、本形式は大型車に混じってこれらの運用に充当された。本形式は、1960年代後半に予定された神宝線の架線電圧1500Vへの昇圧に際しては、大型車並みの車体幅とはいえ、15m車6両編成では長編成化が進む宝塚線で運用することが困難になってきたことから、昇圧時に従来から今津線や伊丹線といった神戸線の支線運用に充当されていた、90・96・320・380・500の各形式の代替及び輸送力増強用としてこれらの線区の運用に転用することとなり、1964年から西宮車庫への転属が開始され、1966年度中に全車宝塚線を去った。昇圧に際しては、モーターを含む電気機器を新製して換装することとなり、モーターは東芝SE-197、制御器は東芝MM-26-Aをそれぞれ搭載するとともに、従来モーター2基搭載であった630形のうち630 - 635についてはモーターを4基搭載することとしたが、636 - 639については電装を解除した。併せて、669・670・672の3両は運転台を撤去され、付随車化された。その後、宝塚線昇圧に伴って廃車された550形のH-5-イ台車を再び672を除く8両のブリル27MCB-2台車と換装したほか、時期は不明であるが620のTT-5台車と670のH-5-イ台車の振替を実施した。また、ATS・列車無線の導入時には、列車無線取り付け対象から外された600形を中間に組み込むこととなり、性能は同一ながらも製造年月も全長も扉数も違う、重厚な車体の600形と軽快な本形式とのアンバランスな編成が見られるようになった。600形全廃後の1975年頃から、5100系や6000系の増備に伴い、920系や800系などの大型旧型車が今津線や伊丹線などへ転出を開始した。そのため、小型車で収容能力の劣る本形式は休車になる車両が発生し始め、1977年の伊丹線運用を最後に全車休車となった。ちょうどその頃、能勢電気軌道では、先に阪急から転入した320・380・500の各形式で1975年から5両編成による運行を開始していた。さらに、1978年の日生線開業後の乗客増に対応するため、まだ車齢が若く、一部の改造のみで導入可能な本形式の導入を検討し、能勢電軌側の施設改造工事が一段落した1977年から同社への譲渡が開始され、同年4月に4両編成×3本が入線したのを皮切りに、 1982年までに4両編成×8本の32両が入線した。譲渡の際には、能勢電鉄線内には勾配区間が多く存在することから、昇圧時に付随車化されていた636 - 639の4両を600形が使用していた電気機器を使用して電動車に復帰させ、制御車の664も電装されて640に改番、中間に組み込まれた610形については番号はそのままで運転台機器が撤去されて中間電動車化された。編成については右表のとおり。この時点では阪急側に669・670・672の3両が残っていたが、この3両も1983年4月に譲渡され、最終的には1977年8月に廃車解体された663号車を除く35両が譲渡された。この3両は能勢電鉄で初の付随車として譲渡され、新形式の650形650 - 652に改番されたうえ、一部の編成に組み込まれて5両編成運用に充当された。このうち、652 (旧672) についてはブリル27MCB2台車を663のH-5-イ台車に換装されている。また、1982年にはATS取付工事が実施され、能勢電鉄転入時に撤去されたATSを再度装備するようになった。本形式は能勢電気軌道から社名が変更された能勢電鉄の主力車両として、先に転入していた320・380・500の小型車3形式とともに1950年代後半の宝塚線や1960年代中期の今津線を彷彿とさせる光景を、沿線開発は進んだものの、まだ緑の多い能勢電鉄沿線で再現した。1983年以降に入線した、1500系6編成と1000系第1編成が増備された直後の1987年2月に、大型車4両編成と輸送力を揃えるため、621-613-633-671の4両が電装解除・付随車化の上653 - 656に改番され、他の4両編成に挿入して全編成が5両編成化された。編成については右表のとおり。非冷房車の610系は、5両編成に増強されることで輸送力こそ大型車と大差はなくなった。しかし、能勢電鉄初の冷房車である1500系の増備が進むにつれて、廃車が進んだ320・500形に代わってラッシュ時中心の運用に移行してゆき、1988年の1000系第2編成就役後は、昼間時の運用は大型車でまかなえることから、本線ではほぼラッシュ時のみの運用となった。さらに1700系の登場により1990年から廃車が開始され、最後まで残った610-650-630-631-661の5両編成で1992年4月19日にさよなら運転を実施、同編成が5月18日付で廃車されたことで、本形式は宝塚線と神戸線の支線区に続く三度目の車両大型化への中継ぎ役を果たして全車姿を消した。本形式の全廃に伴って、能勢電鉄の車両大型化及び100%冷房化が達成された。
出典:wikipedia
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