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エアロスミス

エアロスミス(")は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンからデビューしたロックバンド。1973年、当時は珍しかったアメリカ東海岸出身のハードロック・バンドとしてデビュー。メンバーの脱退・一時離脱などを経た今も、オリジナルメンバーで活動している。2001年には「ロックの殿堂」入りを果たしており、第2回「MTV アイコン・アワード」にも選ばれている。これまでに「グラミー賞」4回、「ビルボード・ミュージック・アワード」4回、「アメリカン・ミュージック・アワード」6回、「MTV Video Music Awards」10回などを獲得している。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」においては第59位にランクインされている。スティーヴン・タイラーとジョー・ペリーのソングライティング・コンビは“トキシック・ツインズ”("The Toxic Twins")とも呼ばれ、米国作曲家作詞家出版者協会(ASCAP)からポップ・ミュージックを形成し多大な影響を与えたパイオニア的存在に贈られる「ファウンダーズ・アワード」が受賞されており、ナショナル・アカデミー・オブ・ポピュラー・ミュージック(NAPM)設立による「ソングライターの殿堂」入りもしている。日本では、1970年代後半からクイーン、キッスとともに“3大バンド”の1つとして人気を博し1977年に初来日している。1998年には海外アーティスト初となる4大ドームツアーを敢行した。トータルセールスは、全世界で1億5,000万枚以上と言われている。1970年夏、アメリカニューハンプシャー州サナピー湖にあるクラブ「ザ・バーン」で友人関係にあったジョー・ペリーとトム・ハミルトンらによるバンド「ザ・ジャムバンド」の演奏をスティーヴン・タイラーが観ており、彼らに新バンドを組む話を持ちかけた事が「エアロスミス」誕生の発端とされている。スティーブンはすでに別のバンド(「ザ・ストレンジャーズ」や「チェーン・リアクション」)でドラマー兼ボーカルとして活動しており、地域で知名度もあった。この新バンドでスティーブンはフロントマンに徹し、ドラマーにジョーイ・クレイマー、もう1人のギタリストにレイモンド・タバーノが加入し活動がスタート。バンド名はジョーイが高校時代からイメージしていたバンド名にちなんで「エアロスミス」に決まった。バンドロゴはレイモンドの原案が採り入れられた。しかし、翌1971年にレイモンドが脱退。バンドは新たなギタリストとしてバークリー音楽大学を卒業し、複数のバンドでの経験もあるブラッド・ウィットフォードを迎えることになり、オリジナルメンバーが揃うことになる。はじめはカバー曲中心のパーティバンドのような活動をしていたが、ボストンの「フェンウェイ・シアター」支配人からの紹介により地元有力プロモーターに出会い、マネジメント契約を結ぶ。その後、マネジメント会社の交渉により1972年夏にコロムビア・レコードとの契約が成立した。こうしてエアロスミスはデビューする足掛かりを掴んだ。1973年1月、1stアルバム『野獣生誕』("Aerosmith")でデビュー。アルバム収録曲の「ドリーム・オン」("Dream On")がアメリカ東海岸地区のロック系ラジオを中心として注目され、同曲をシングルカット。全米チャート59位(Billboard Hot 100)まで上昇するヒットとなる。1974年3月、2ndアルバム『飛べ!エアロスミス』("Get Your Wings")を発表。1年以上に渡って全米チャート200位圏内(Billboard 200)に入り続ける作品になった。プロデューサーはジャック・ダグラスが担当した。1975年4月、3rdアルバム『闇夜のヘヴィ・ロック』("Toys in the Attic")を発表。「ウォーク・ディス・ウェイ」("Walk This Way")や「スウィート・エモーション」("Sweet Emotion")もシングルヒットし、アルバムも全米チャート11位(Billboard 200)まで上昇。バンド初のプラチナ・ディスクを獲得した。この勢いで前2作のアルバムのセールスも上がり、シングル「ドリーム・オン」は再発売されて全米チャート6位(Billboard Hot 100)まで上昇した。なお、日本では同年5月に『飛べ!エアロスミス』が発売されて日本デビューとなった。1976年4月、全米ツアー開始。ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでのライブも開催。5月には4thアルバム『ロックス』("Rocks")を発表。全米アルバムチャート3位(Billboard 200)を記録し、「ラスト・チャイルド」("Last Child")、「ホーム・トゥナイト」("Home Tonight")、「バック・イン・ザ・サドル」("Back in the Saddle")もシングルヒットする。日本でも彼らの知名度は上がり、「クイーン」("Queen")、「キッス」("Kiss")と並び“3大バンド”の1つとして人気を博した。10月には初のヨーロッパツアーを開始。翌1977年2月には初の日本ツアーも行っている。また前座にはBOW WOWが参加した。人気の拡大とともにバンド活動には2度目のヨーロッパツアーを含む大規模なツアーが組み込まれ、その合間に次作のレコーディングが行われるという過酷なスケジュールになり、以前から使用していたとされるドラッグも使用頻度が増していった(薬物乱用)。そのような中、1977年12月に5thアルバム『ドロー・ザ・ライン』("Draw the Line")を発表。全米チャート11位(Billboard 200)のヒットとなる。1978年3月にはロック・フェスティバル『カリフォルニア・ジャム2』でヘッドライナーを務め、同年7月から公開されたビートルズのアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を取り上げた同名タイトルの映画にも出演。「カム・トゥゲザー」をカバーするなど精力的な活動が続いていた。しかし、バンド内ではスティーヴンとジョーの関係悪化が進み、ステージ上で小突き合いまでしていた。さらに、バンド内に蔓延しているドラッグ癖が次作のアルバム制作にまで影響を及ぼす状況になっていた。そして、1979年7月のロック・フェスティバル『ワールド・シリーズ・オブ・ロック』出演後に些細な出来事からバンド内で大喧嘩が起こり、ジョーがバンドを脱退する事態にまで発展した。同年11月、ジョーは新たに「ジョー・ペリー・プロジェクト」を立ち上げてライブ活動を始め、バンドはジョーに代わるギタリストとしてジミー・クレスポを加入しアルバム制作を続行し、制作途中であった6thアルバム『ナイト・イン・ザ・ラッツ』("Night in the Ruts")を完成させた(プロデューサーはゲイリー・ライオンズ)。1980年3月、ジョー・ペリー・プロジェクトが1stアルバム『熱く語れ!』("Let the Music Do the Talking")を発表。一方、スティーヴンの負傷などにより活動が停滞していたバンドは、10月に初のベスト・アルバム『グレイテスト・ヒッツ』("Aerosmith's Greatest Hits")を発表する。1981年8月、ブラッドがデレク・セント・ホルムズとアルバム『ウィットフォード/セント・ホムルズ』("Whitford/St. Holmes")を発表しバンドから脱退する。また、ジョー・ペリー・プロジェクトは2ndアルバム『忘れじのロックン・ロール』("I've Got the Rock 'n' Rolls Again")を発表する。1982年8月、ブラッドに代わるギタリストにリック・デュファイを迎えて7thアルバム『美獣乱舞』("Rock in a Hard Place")を発表。1983年9月、ジョー・ペリー・プロジェクト3rdアルバム『いつまでも熱く』("Once a Rocker, Always a Rocker")発表。1984年2月、エアロスミスのボストン公演をジョーとブラッドが訪れる。後日、話し合いの場が持たれてオリジナルメンバーでの再活動が決まり、諸条件(ドラッグ、アルコールからの脱却とマネジメントの刷新)を整えてツアーを開始。レコードレーベルはゲフィン・レコードに移籍する。1985年11月、プロデューサーにテッド・テンプルマンを迎えた8thアルバム『ダン・ウィズ・ミラーズ』("Done With Mirrors")を発表。1986年、Run-D.M.C.が「ウォーク・ディス・ウェイ」をカバー。スティーヴンとジョーレコーディングに参加しミュージック・ビデオにも出演した。このシングルは全米チャート4位(Billboard Hot 100)のヒットとなり、エアロスミスが音楽シーンにカム・バックしていくきっかけになった。1987年8月、プロデューサーにブルース・フェアバーンを迎えた9thアルバム『パーマネント・ヴァケイション』("Permanent Vacation")発表。全米チャート11位(Billboard 200)を記録し、「エンジェル」("Angel")、「ラグ・ドール」("Rag Doll")のシングルもヒットした。翌1988年6月には11年ぶりとなる日本ツアーを行った。1989年9月、10thアルバム『パンプ』("Pump")を発表。全米チャート5位(Billboard 200)を記録し、「エレヴェイター・ラブ」("Love in an Elevator")、「ジェイニーズ・ガット・ア・ガン」("Janie's Got a Gun")、「アザー・サイド」("The Other Side")、「ホワット・イット・テイクス」("What It Takes")のシングルもヒットした。また、12年ぶりとなるヨーロッパツアーや初のオーストラリアツアーも行われた。1990年、グラミー賞で「ジェイニーズ・ガット・ア・ガン」が「ベスト・ロック・パフォーマンス」を受賞。MTV Video Music Awardsでも「ヴューワーズ・チョイス」などを受賞。同年9月には日本ツアーを開催。1991年、MTV Video Music Awardsで「アザー・サイド」が「ベスト・メタル/ハードロック・ビデオ」を受賞。初のボックス・セット『パンドラの箱』("Pandora's Box")を発表する。1993年、1度レコーディングしていた曲を聴き込み、それらの曲を収録せずさらに追加で制作した曲をレコーディングするなど熟考を重ねた11thアルバム『ゲット・ア・グリップ』("Get a Grip")を発表。バンド初の全米チャート1位(Billboard 200)を獲得し、「リヴィング・オン・ジ・エッジ」("Livin' on the Edge")、「クライン」("Cryin")、「クレイジー」("Crazy")のシングルもヒットした。MTV Video Music Awardsでは「リヴィング・オン・ジ・エッジ」が「ヴューワーズ・チョイス」を受賞。翌1994年の第36回グラミー賞でも「ベスト・ロック・パフォーマンス」を受賞し、「クライン」がMTV Video Music Awardsの最優秀賞に当たる「ビデオ・オブ・ザ・イヤー」などを受賞した(「クライン」は第37回グラミー賞で「ベスト・ロック・パフォーマンス」も受賞している)。また、同年に開催された日本ツア-では日本武道館7日間公演などを行い、初の南米ツアーも行われた。11月にはゲフィン・レコード期から選曲したベスト・アルバム『ビッグ・ワンズ』("Big Ones")を発表する。1997年3月、レコードレーベルがデビュー当時に所属していたコロムビア・レコードに変わり、プロデューサーにケヴィン・シャーリーを迎えた12thアルバム『ナイン・ライヴズ』("Nine Lives")を発表。前作に続き全米チャート1位(Billboard 200)を獲得した。なお、当初のディスクジャケットはヒンドゥー教徒からの反感を買いかねないということで、デザインが変更されている。翌1998年の日本ツアーでは“海外アーティスト初”となる4大ドームツアーを開催した(名古屋・大阪・福岡・東京のドーム球場に加え、横浜アリーナ公演も行った)。また、同年に公開された映画『アルマゲドン』のテーマ曲に起用された「ミス・ア・シング」("I Don't Want to Miss a Thing")が、バンド史上初となる全米シングルチャート1位(Billboard Hot 100)を獲得。MTV Video Music Awardsの「ベスト・ビデオ・フロム・ア・フィルム」を受賞した。同年10月にはライブ・アルバム『ア・リトル・サウス・オブ・サニティ』("A Little South of Sanity")を発表した。1999年、第41回グラミー賞で「ピンク」("Pink")が「ベスト・ロック・パフォーマンス」を受賞。7月にはアメリカフロリダ州のウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート内の「ディズニー・ハリウッド・スタジオ」にエアロスミスをフィーチャーしたアトラクション「ロックンローラー・コースター」がオープンする。年末には再び来日し、大阪ドームでのカウントダウン・ライブを含む年を跨いでの4大ドームツアーを開催した。2001年1月、アメリカン・ミュージック・アワードから「アワード・オブ・アチーブメント」(功労賞)を受賞し、授賞式で新曲「ジェイディッド」("Jaded")を披露。『第35回スーパーボウル』のハーフタイムショーにも出演した。3月には13thアルバム『ジャスト・プッシュ・プレイ』("Just Push Play")を発表。全米チャート2位(Billboard 200)を記録した。また同年、バンドは「ロックの殿堂」入りを果たした。10月、テクモがゲームソフト『DEAD OR ALIVE 3』においてエアロスミスとの楽曲仕様契約を締結したことを発表。エアロスミスは「ナイン・ライヴス」("Nine Lives")、「ホーム・トゥナイト」("Home Tonight")、「アメイジング」("Amazing")を提供した。2002年1月、日本ツアー開催(3度目となる4大ドームツアー)。5月に公開された映画『スパイダーマン』サウンドトラックで「スパイダーマンのテーマ」("Theme from Spiderman")をカバーした。6月に再び来日し、『2002 FIFAワールドカップ』のオフィシャルコンサートに出演。アンコールでB'zと共演し「トレイン・ケプト・ア・ローリン」("Train Kept a Rollin")を披露した。7月にはレーベルの垣根を越えたベスト・アルバム『アルティメイト・エアロスミス・ヒッツ』("O, Yeah! The Ultimate Aerosmith Hits")を発表。2003年、全米でキッスとのジョイントツアーを開催した。2004年3月、彼らのルーツとなるブルース作品のカバー・アルバム『ホンキン・オン・ボーボゥ』("Honkin' on Bobo")を発表。共同プロデューサーとしてジャック・ダグラスが『ドロー・ザ・ライン』以来となるアルバム制作に関与した。7月には日本ツアーを開催(広島公演はスティーヴンの怪我により中止された)。ロック・フェスティバル『POCARI SWEAT BLUE WAVE THE ROCK ODYSSEY 2004』にヘッドライナーとしても出演した。ツアー終了後は長期休暇をとる予定であることが伝えられた。新作の発表はしばらくなかったがライブ活動は不定期的に行われており、ライブ・アルバム『ロッキン・ザ・ジョイント』("Rockin' the Joint")発表後は北米ツアーを行い、2007年には南米・中東・ヨーロッパを含むツアーを行った。しかし、各メンバーに病気や怪我によるツアーの途中キャンセルや一時離脱が続いた。ソロ活動としては、2005年にジョーが初のソロ名義となるアルバム『ジョー・ペリー』("Joe Perry")を発表。2009年には『ハヴ・ギター、ウィル・トラヴェル』("Have Guitar, Will Travel")を発表。ジョー・ペリー・プロジェクト名義で北米ツアーも行った。この頃、バンド活動を休みたいスティーヴンとバンド活動に長期間の空白を作りたくないメンバー間に軋轢が生じていた。 2010年5月から9月までツアーを開催するものの、スティーヴンはアメリカのオーディション番組『アメリカン・アイドル (シーズン10)』の審査員を務め(引き続き『アメリカン・アイドル (シーズン11)』の審査員も務めた)、シングル「LOVE LIVES」(映画『SPACE BATTLESHIP ヤマト』主題歌)を発表するなどのソロ活動を行い、一時期は“スティーヴン脱退説”や“エアロスミスが新たなシンガー模索中”などのニュースが流れることになった。2011年に南米からツアーがスタートし、11月には7年ぶりとなる日本公演も行った。2012年11月、発売延期を経て『ジャスト・プッシュ・プレイ』以来、実に11年振りとなるスタジオ・アルバム『ミュージック・フロム・アナザー・ディメンション!』("Music from Another Dimension!")を発表。2013年7月にリリースされたバディ・ガイのアルバム『リズム&ブルース』には、スティーヴン、ジョー、ブラッドの3人がゲスト参加した曲「イーヴィル・ツイン」が収録されている。同年8月に日本公演を開催。QVCマリンフィールドでの公演は“AEROSONIC”と題してB'zと対バン形式のライブを開催。「ママ・キン」("Mama Kin")をともに披露した。また、シンガポール公演と大阪公演最終日では日本のヒューマンビートボクサーHIKAKINと「ウォーク・ディス・ウェイ」で共演した。また大阪公演の際に、梅田にてストリートライブを行っていたバンド・イーゼル芸術工房とセッションし、翌日のジャパンツアーファイナルに招待したことが話題となった。2016年6月、スティーヴンがラジオ番組「ハワード・スターン・ショウ」に出演し、翌2017年にライブツアー(フェアウェル・ツアー)を行った後に解散すると発言した。しかし、ジョーが「ローリング・ストーン」誌の取材に対し、「フェアウェル・ツアーをやることを想像したことなど一度もない」と否定している。

出典:wikipedia

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