アルサブ(, 1939年 - 1963年)とは、アメリカ合衆国で生産・調教された競走馬、および種牡馬である。プリークネスステークスなどの競走に優勝し、マッチレースでアメリカクラシック三冠馬ワーラウェイを破るなど活躍した。コリンから3代先の子孫にあたり、同馬も種牡馬としてヒムヤー系の存続に貢献した。1976年にアメリカ競馬殿堂入りを果たしている。父グッドグッズはステークス競走で4勝するも、大競走ではベルモントステークス3着が関の山であった一流半の種牡馬で、アルサブはその初年度産駒であった。母ウィンズチャントは生産者のトム・ピアットが90ドルで手に入れた牝馬で、8戦して2着が1回だけと大した戦績を残さなかった馬である。父母ともにピアットのもとに繋養されており、アルサブは1939年4月28日にその牧場で生まれた。アルサブは1歳のときにサラトガのイヤリングセールに出品された。これに調教師のオーガスト・シェンクが注目し、シカゴ在住の弁護士アルバート・サバスに購入させた。父母の低評価もあってか、アルサブはそのセールの平均取引額1763ドルを大きく下回る700ドルという破格の安値で購入されている。アルバートは自身の姓名それぞれの頭音節(Albert Sabath)を取って、この馬にアルサブと名付けた。アルサブはシェンクの調教のもとで競走馬となり、1941年2月にハイアリアパーク競馬場でデビューして14着、3戦目で初勝利を挙げた。2歳ながら22戦もの競走に出走し、ワシントンパークフューチュリティなどのステークス競走を含む15勝の活躍により、同年のアメリカ最優秀2歳牡馬に選出された。同年のフリーハンデキャップにおいては、同世代を大きく突き放す130ポンド(約59キログラム)が与えられている。また、この2歳時に後のライバルの1頭となるリクエステッドと出会っている。2歳でのトップホースであったこの両頭の陣営に、マッチレースの企画が持ち込まれ、これが9月23日のベルモントパーク競馬場6.5ハロン(約1107メートル)で実現した。10000ドルの賞金が懸けられたこの競走は22381人の観衆が詰めかけるなかで行われ、両者ともに122ポンド(約55.3キログラム)を積んで競走が始まった。スタートからリクエステッドが先行しての競走となったが、鞍上のボビー・ヴェッダーが合図を入れるとアルサブはエンジンをかけ、すぐさまリクエステッドを追い抜き、1分09秒80のトラックレコードをつけての完勝劇を演じた。リクエステッドは遅れること3馬身半差でのゴールであった。アメリカのスポーツ記者ジョン・ハーヴェイは、この競走を自著中で「当年のスポーツイベントにおける最高のものである」と評している。3歳になったアルサブは三冠路線に向けて年初から始動するが、年明け初戦を6着に落とすなど、出だしは好調ではなかった。年明け3戦目のフラミンゴステークスではリクエステッドと再戦し、3着に敗れている。その後もチェサピークステークス2着、ダービートライアルステークス3着と惜敗ばかりで、結局ケンタッキーダービーまでに7戦を費やしたが、まだ勝利を挙げることができずにいた。戦時下のチャーチルダウンズ競馬場で開催されたケンタッキーダービーには15頭の競走馬が集まり、アルサブはその実績から単勝5.1倍の2番人気支持された。しかしレース中は大きく外を回らされたこともあり、最後の直線で1番人気のシャットアウトを捉えきれず、2馬身1/4差の2着に敗れてしまった。翌週、アルサブはピムリコ競馬場で開催されたプリークネスステークスに出走、前走2着ながらも10頭立ての1番人気に支持された。スタートすると後方待機策をとり、後ろから2頭目につけて道中を進んだ。最後の直線に向き合うまでその位置を保っていたが、鞍上のバジル・ジェームズの鞭が入ると弾けるように加速し、見る見るうちに前を行く馬を追い抜いていった。シャットアウトやデヴィルダイヴァーらを着外に突き放し、リクエステッドとサンアゲインの2頭を2着(同着)に抑えて1馬身差で優勝、クラシックホースの称号を獲得した。アルサブはこの勝利に際して、ニューヨークの競馬ファンから「もう一頭のシービスケットだ」と称えられたとされる。ウィザーズステークスを挟んで出走したベルモントステークスでは再びシャットアウトとの対戦となった。しかし、ここでは前を行くシャットアウトを捉えきれず、またしても2馬身差の2着に破れた。この競走中に怪我を負ったため、アルサブとしては珍しい2ヶ月ほどの休養期間が充てられた。休養からの復帰後は再び過密なスケジュールを組んで、ローレンスリアライゼーションステークス、アメリカンダービー、など多数の競走に出走した。そのうちの1戦に、ナラガンセットパーク競馬場の良馬場9.5ハロンで行われた、前年のアメリカ三冠馬であるワーラウェイとのマッチレースがある。アルサブはこれをハナ差で制し、三冠馬を破る快挙を成し遂げた。なお、翌月のジョッキークラブゴールドカップステークスでも両者は対戦しており、ここではワーラウェイが優勝している。この戦績が評価され、同年のアメリカ最優秀3歳牡馬に選出された。しかし、4歳シーズンに入る直前から故障してしまい、その影響によりアルサブの競走能力は大きく失われた。8月までを休養に充ててからの復帰を果たしたが、以降のアルサブの勝鞍は一般戦の1勝があるのみであった。5歳時も競走を続ける試みがなされたが、1944年5月の一般戦で4着になったのを最後に引退した。サバスの死後、アルサブはフロリダ州のボニーヒースファームに売却され、ここで種牡馬として活動した。100頭以上の産駒を出している。あまり成功したとは言えないが、その中からメイトロンステークスなどに勝って最優秀2歳牝馬に選ばれたマートルチャーム、シャンペンステークスなどに勝って4歳まで活躍したアルマゲドン、メキシコダービーに優勝したドンリベルデなどの活躍馬も出ている。特にアルマゲドンは種牡馬入り後にバトルジョインドを出し、後にアックアックにまで繋がるドミノ系のか細いサイヤーラインを遺すことに成功した。1963年3月26日、アルサブは深刻な体調不良に陥ったため、安楽死の処置が取られた。後の1976年、アメリカ競馬名誉の殿堂博物館はアルサブの競走成績を評価して、同馬の殿堂入りを発表した。
出典:wikipedia
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