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品川宿

品川宿(しながわしゅく、しながわじゅく)は、東海道五十三次の宿場の一つ。東海道の第一宿であり、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿と並んで江戸四宿と呼ばれた。慶長6年(1601年)に、中世以来の港町として栄えていた品川湊の近くに設置され、北宿、南宿、新宿にわかれていた。場所は、現在の東京都品川区内で、北は京急本線の北品川駅から南は青物横丁駅周辺までの旧東海道沿い一帯に広がっていた。目黒川を境に、それより北が北品川宿、南が南品川宿、北品川の北にあった宿を歩行新宿(かちしんしゅく)といった(現在の北品川本通り商店街から品川区北品川2-2-14の法善寺辺りまで)。歩行新宿は、品川宿と高輪の間に存在していた茶屋町が享保7年(1722年)に宿場としてみとめられたもので、宿場が本来負担する伝馬と歩行人足(かちにんそく)のうち、歩行人足だけを負担したために「歩行人足だけを負担する新しい宿場」という意味で名付けられた。品川宿は五街道の中でも重要視された東海道の初宿であり、西国へ通じる陸海両路の江戸の玄関口として賑わい、旅籠屋数や参勤交代の大名通過数において他の江戸四宿と比べ数多いという。1872年(明治5年)の宿駅制の廃止と鉄道の開通によって宿場町としての機能は失われたが、北品川では多くの遊郭が営業を続けたことから関連の商業施設が建ち並び、目黒川流域の低地には、地価の安さや水運・用水の便から大規模工場が立地、その周辺の南品川では下請の小規模工場やその関連住宅が増え、商店も旧東海道沿いに建ち並んだ。旧品川宿地域は第二次世界大戦の戦災をほとんど受けなかったため、戦後も北品川の遊郭は営業を続けたが、売春禁止法より工場の従業員寮や民間アパートなどに変化し、商店街が形成された。一方、南品川では1970 年代の日本列島改造によって目黒川周辺の大規模工場の移転流出が続き、その従業員らを相手にしていた商店街が衰退した。その後、近隣の埋立地が再開発されていく中、旧品川宿地域は取り残される形となったが、反面、宿場町特有の歴史的資源が維持され、1988年に「旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会」が組織され、歴史的景観を生かした町の活性化が計られている。古典落語の廓噺(居残り佐平次、品川心中等)の舞台となっており、他の宿場がそうであったように岡場所(色町、遊廓、飯盛旅籠)としても賑わっていたことが覗われる。1772年、幕府は品川宿の飯盛女の数を500人と定めたが実効性がないまま増加。1843年ころの記録では、食売旅籠屋92軒、水茶屋64軒を数え、「北の吉原、南の品川」と称されるほど一大遊興地として繁栄した。1844年1月に道中奉行が摘発を行なった際には、1,348人の飯盛女を検挙している。西沢一鳳の江戸見聞録『皇都午睡』(1850)では、幕末当時の賑わいを「高縄より茶屋有て(案内茶屋也)品川宿の中央に小橋有り、それより上は女郎銭店、橋より下は大店也。女郎屋は何れも大きく、浜側の方は椽先より品川沖を見晴らし、はるか向ふに、上総・房州の遠山見えて、夜は白魚を取る篝火ちらつき、漁船に網有り、釣あり、夏は納涼によく、絶景也。 (中略) 女郎屋頗る多し。中にも土蔵相摸・大湊屋など名高し。岡側の家は後に御殿山をひかえ、浜側は裏に海をひかえ、往来は奥州・出羽より江戸を過ぎて京・西国へ赴く旅人、下る人は九州・西国・中国・畿内の国々より行く旅人ども、参宮・金ぴら・大山詣り・富士詣、鎌倉・大磯の遊歴やら箱根の湯治、参勤交代の大小名、貴賎を論ぜず通行すれば、賑わしきこと此上なし。表の間は板敷にて玄関構へ、中店は勘定場にて泊り衆の大名・旗本衆の名札を張り、中庭・泉水、廊下を架し、琴・三味線の音など聞へ、道中女郎屋の冠たるべし。」と書いている。その後も遊廓としての賑わいは、昭和33年(1958年)の売春防止法施行まで続いた。戦後も北品川の遊郭は営業を続けたが、売春禁止法より工場の従業員寮や民間アパートなどに変化し、商店街が形成された。江戸(日本橋) - 品川宿 - 川崎宿

出典:wikipedia

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