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高松城 (讃岐国)

高松城(たかまつじょう)は、日本の香川県高松市玉藻町にあった日本の城である。別名・玉藻城(たまもじょう)。国の史跡に指定されている。別名「玉藻城」は、万葉集で柿本人麻呂が讃岐国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことに因み、高松城周辺の海域が玉藻の浦と呼ばれていたことに由来するとされている。高松城は、豊臣秀吉の四国制圧の後、1587年(天正15年)讃岐1国の領主となった生駒親正によって、「野原」と呼ばれた港町に築かれた。現在見られる遺構は、江戸初期に徳川光圀の兄で常陸国から12万石で高松に移封された松平頼重によって改修されたものである。近世城郭の海城としては、最初で最大の例で、「讃州さぬきは高松さまの城が見えます波の上」と謡われている。本丸に建てられた天守は、最下重が萩城や熊本城の天守のように天守台より出張り、最上重が小倉城や岩国城の天守のように「唐造り」であった。その様子は、解体される以前に写真におさめられ、また1884年にイギリスの週刊新聞「」でイギリス人のヘンリー・ギルマールの絵によって紹介されている。現在は、三重櫓や門など一部の建物と一部の石垣、堀が現存し、城跡は「玉藻公園」として整備されている。城主については高松藩歴代藩主を参照。城郭の形式は輪郭式平城で、本丸を中心に二の丸、三の丸、北の丸、東の丸、桜の馬場、西の丸が時計回りに配置され、3重に堀が廻らされていた。かつては城壁が瀬戸内海に直接面し、外濠・中濠・内濠のすべてに海水が引き込まれ、城内に直接軍船が出入りできるようになっており、水軍の運用も視野に入れ設計されていた日本初の本格的な海城である。縄張りは黒田孝高(よしたか)が手掛けたといわれ、細川忠興、小早川隆景、藤堂高虎などによるとも言われている。高松城をはじめとする海城は海上封鎖が難しく、水攻めや水断ちといった攻城手段が使えないため戦争時の篭城や物資の搬入、脱出ができ、近世の縄張りとしては有利であった。しかし、版籍奉還以後廃城になった高松城は明治以降の都市化の波に呑まれ、現在では海側に新しい道路(水城通り)が通り、ほとんどの建物が取り壊され、内堀と中堀の一部を除いて埋め立てられている。最盛期には66万m²(約20万坪)あった城の総面積も、現在では約1/8の7万9587m²(約2万4千坪)にまで減少した。しかし現在でも外堀と内堀には海水が引き込まれており、往時の名残を残している。そのため、堀には牡蠣などの貝が生息し、養殖の鯛も放流されている。本丸は城のほぼ中央に位置し、周りを内堀に囲まれ他の曲輪とは完全に独立している。外部とは、長さ16間(約30メートル)の木造の鞘橋一本だけで繋がっており、この橋を落とせば内部にいる人間は逃げ場を失う造りである。本丸の面積は狭いため御殿などの居住施設はなく、多聞櫓で囲まれた天守があるのみである。その天守台は本丸の東端に突き出し、三の丸の方から見ると天守が海上に浮いているように見えたという。本丸と二の丸をつなぐ橋で、1971年に架けられた現存する橋にも銅板葺の屋根がある。天守は独立式層塔型3重4階、地下1階、初層平面が東西13間2尺(約26.2メートル)×南北12間2尺(約24.2メートル)、高さ13間半(約24.5メートル)にもおよんだといい、現存している3重5階の高知城天守(高さ約18.6メートル)や松山城(高さ約20メートル)の天守を凌ぎ四国最大の規模であった。また、4階平面が3階平面より大きい、いわゆる唐造で、1重めも天守台から外には張り出させて石落としを開いていたと考えられている。ほかに、1重目と2重目の比翼入母屋破風と唐破風、4階の火灯窓などの特徴があった。創建時の天守は下見板張りの黒い外観であったが、1671年(寛文11年)の松平氏による大改修の際に、白漆喰総塗籠の天守に改築されたと見られている。天守は老朽化により1884年(明治17年)に解体され、1920年に松平家初代藩主松平頼重を祀った玉藻廟が建立された。2006年より始まった天守台石垣の解体修復工事に伴い、玉藻廟はすべて解体された。本丸南西にあった二重櫓。石垣跡を発掘調査し整備された。本丸虎口にあった櫓。三の丸には松平藩時代に披雲閣と呼ばれる現在の2倍の規模の書院風建物があったが、1872年(明治5年)に老朽化によって取り壊された。現存する披雲閣は、松平家高松別邸として、当時の金額で15万円と3年の歳月をかけて1917年(大正6年)に竣工した。昭和天皇が宿泊したり、アメリカ軍に接収されたりしたが、高松市が譲り受け、貸会場として市民に利用されている。また披雲閣の再建に合わせて内苑御庭という枯山水の庭が作造された。城の遺構としては、三の丸入り口には桜御門があったが、1945年(昭和20年)の高松空襲で焼失した。披雲閣は2012年(平成24年)7月9日に近代和風建築として国の重要文化財に指定された。北の丸(北新曲輪)は1671年(寛文11年)の松平氏による大改修で、御殿である旧披雲閣が三の丸に移されたため、防衛上東の丸とともに増設された。通路状の曲輪には、1676年(延宝4年)に隅櫓として月見櫓(着見櫓)が建てられ、その後海城に特有の水手御門(みずのてごもん)、渡櫓、鹿櫓が建てられた。正式な出入り口としての性格を持つ。城主はこの門から小舟に乗り、沖に止まった大船に向かった。城主の船が着くのを見る「着き見」が由来という月見櫓がある。1671年(寛文11年)の松平氏による大改修で、北の丸と共に増設され、主に米蔵や艮櫓、巽櫓などが建てられた。現在、艮櫓は桜の馬場の太鼓櫓跡に移築されており、艮櫓の櫓台やそれに続く石垣以外は埋め立てられて、県民ホール(アルファあなぶきホール)や香川県立ミュージアム、松平公益会などが建っている。東の丸の敷地の一部にあたる高松市立城内中学校が2009年3月31日に閉校し、同年6月30日校庭南東部でプールの解体作業中、東の丸と中堀の間の石垣が出土した。かつてはL字型であったが、その後半分が現在の中央通りの敷地になるため埋め立てられた。その名のとおり桜が植えられ、馬場があった地であり、現在は春になると桜の花見の名所になっている。寛文11年(1671年)の大改修までは桜の馬場の南中(現在の南西隅)に大手門があったが、御殿であった旧披雲閣が三の丸に移されたためこれを廃し、新たに桜の馬場東端に旭橋と旭門を設けた。桜の馬場内には虎櫓、鳥櫓、太鼓櫓などがあったが現在ではそのいずれも残っておらず、現在ある艮櫓は1965年(昭和40年)に高松市が東の丸から太鼓櫓跡に移築したものである。1985年まではさぬき高松まつりのイベント会場としても使われていた。現在はその役目を中央公園に譲っている。現在は埋め立てられ、JR高松駅や西の丸町に当たる。サンポート高松整備事業に伴う西の丸の発掘調査では多くの遺構が発見されたが、その後一般に公開されることもなく埋め戻され、周りと同様に市街地化した。現在、高松市立玉藻公園として有料で開放されている。天守は現存せず、重要文化財には月見櫓、艮櫓(丑寅櫓、うしとらやぐら)、水手御門(みずのてごもん)、渡櫓が指定されており、毎週日曜日、月見櫓と渡櫓の中が一般公開されている。また、城内にある桜の馬場は桜の名所として知られ、春になると多くの花見客が訪れる。高松市街中心部北辺に位置し、北側にフェリー乗り場など港湾施設、西側にJR高松駅、東側に香川県民ホール・香川県歴史博物館、南側には高松高等裁判所・西日本放送などがある。北の丸月見櫓、北の丸水手御門、北の丸渡櫓、旧東の丸艮櫓(丑寅櫓)が現存し、1947年(昭和22年)2月26日、ともに国の「国宝」(旧国宝、今の重要文化財)に指定された。このうち、艮櫓は元は東の丸跡(香川県民ホール一帯)にあったが、1965年(昭和40年)に旧所有者の日本国有鉄道から高松市に移管され、1967年(昭和42年)に現在地の桜の馬場に移築されたものである。このほかに旭門が現存している。また近年、玉藻公園に隣接する玉藻緑地に報時鐘(ほうじしょう)が再移築された。披雲閣は、2012年(平成24年)、「披雲閣(旧松平家高松別邸)3棟」の名称で国の重要文化財に指定された。松平家の高松別邸として、1917年(大正6年)に竣工した近代和風住宅建築である。本館、本館付倉庫、倉庫の3棟が指定対象で、他に袖塀、東門、裏門、井戸屋形、四阿(2棟)が重要文化財の附(つけたり)指定となっている。本館は建築面積1,916平方メートルの大規模な和風木造建築で、一部を2階建とするほか平屋建。表玄関、蘇鉄の間、大書院、槇の間、松の間、桐の間、杉の間などの諸室を渡廊下で結び、大小の中庭を設けた複雑な平面構成になる。大正期の大規模かつ本格的な木造住宅建築として貴重である。三の丸の桜御門は、1945年(昭和20年)の高松空襲で焼失し、その後再建されることなく現在に至っている。これについては2008年5月21日に開催された「史跡高松城跡整備検討委員会」の会合において復元に乗り出す方針であることが高松市から報告された。市は文献資料の収集分析や実見した市民への聞き取り、石垣の空襲による損傷等の調査を実施する予定とされた。2011年、市は復元に向けた基礎部分の発掘調査をおこなった。2013年2月28日、高松市は桜御門の復元に向けた基本整備計画を公表し、復元設計図を作製した。同年6月には、焼失前の1943年に文化庁が撮影した、従来よりも鮮明な写真の存在が公表されている。2003年夏、この地区が国の構造改革特区に申請されたことで、それまで「資料が写真一枚しかない」ことを理由に復元の拒否をしてきたとみられた文化庁が復元に対する考えを軟化させたため、その後、高松市は整備検討委員会を設置し、2010年の着工を目指して準備を進めている。高松城天守に関する資料は明治17年(1884年)までに撮影された1枚の写真のみとされていたが、2005年秋頃、より鮮明な2枚目の高松城天守の古写真(1882年撮影)がイギリス・ケンブリッジ大学で発見された(上記写真参照)。このことが更なる資料発見の可能性や復元運動につながることが期待されている。一方、天守台の石垣が老朽化してきたため、その対策として2006年より石垣の解体修理工事が実施され玉藻廟も解体された。この修理作業は将来の天守復元も視野に入れ、石垣の内部構造の確認と石垣の積み直し工事が実施された。2009年3月、生駒家の家紋(波引車)を模した瓦が堀底から初出土した。天守に使用されていた可能性が高い。これまでは松平家のものしか出土しておらず、生駒氏が築城した高松城、丸亀城、引田城の跡で家紋が入った瓦が出土するのは初めてである。内部構造復元に向けての資料に懸賞金導入が検討されている。1954年以来この高松城は高松市が所有し、維持管理を高松市都市開発部公園緑地課玉藻公園管理事務所が管轄している。大人200円、子供100円。なお1月1日〜3日は無料開放。なお12月29日〜31日は休園。

出典:wikipedia

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