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ジャン=ポール・サルトル

ジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトル(、1905年6月21日 - 1980年4月15日)は、フランスの哲学者、小説家、劇作家。内縁の妻はシモーヌ・ド・ボーヴォワール。強度の斜視があり、1973年には右目を失明した。サルトルは1905年、パリ16区に生まれる。生後15ヶ月で、海軍将校であった父が熱病に倒れ死亡したため、サルトルの母方の祖父であるシャルル・シュヴァイツァー(1844 - 1935)の家に引き取られる。シャルルはドイツ語の教授であり深い教養を持ち、サルトルの学問的探究心を刺激した。パリのブルジョワ知識人階級の中で育ったサルトルは、1915年にパリの名門リセであるで学び、このときにのちに作家となるポール・ニザン (1905 - 1940)と知り合う。母の再婚にともない、1917年にはラ・ロシェルの高等中学校に転校することになるが、サルトルは転校先のラ・ロシェルにうまく溶け込むことができず、後に挫折の年月と述懐している。この時期のエピソードとしては、母の金を盗んだことで祖父から見離されたことや、美少女を口説こうとして失敗し、自身の醜さを自覚したことなどが知られる。こうしたラ・ロシェルでの「悪い影響」を案じた家族により、1920年には再びアンリ4世校に転校してニザンと再会した。1922年にはアンリ4世校から、やはり同じく名門リセであるリセ・ルイ=ル=グランの高等師範学校準備学級に移った。1923年、高等師範学校に入学する為、準備学級に在学中に刊行した同人雑誌「無名誌」(Revue sans titre)に短編小説『病める者の天使』を発表した。1924年に高等師範学校(École Normale Supérieure)に入学して、モーリス・メルロー=ポンティと知り合う。1927年には、ニザンと共にヤスパースの『精神病理学総論』仏訳の校正を行っている。1928年にアグレガシオン(1級教員資格)(哲学)試験に落第。サルトルを知るものはみな驚くが、翌年首席で合格した。ニザンも同じ1929年に合格した(哲学)。このころ、同試験の第2位(哲学)で生涯の伴侶となるシモーヌ・ド・ボーヴォワールと知り合い、1929年には2年間の契約結婚を結んでいる。この結婚は結婚関係を維持しつつお互いの自由恋愛を保障するなど前衛的なものであったが、結果的には幾度かの波乱はあったもののサルトルの死までの50年間にわたってこの関係は維持された。1931年にはルアーブルの高等中学校の哲学科で教師となる。真理の伝説を執筆、この本は20ページ程の本であった。出版しようとしたが、知識のみで描かれた本で説得力に乏しい本であったために出版は拒否された。1933年から1934年にかけて、ベルリンに留学して現象学を学ぶ。1935年に想像力についての実験のため、友人の医師・ラガッシュによってメスカリン注射を受ける。サルトルはこの際に全身をカニやタコが這いまわる幻覚に襲われ、以降も幻覚を伴う鬱症状に半年以上悩まされることになる。甲殻類に対する恐怖は生涯続いた。レイモン・アロンとの会話によりエドムント・フッサールの現象学に興味を持ち、エマニュエル・レヴィナスの博士論文『フッサール現象学の直観理論』("La théorie de l'intuition dans la phénoménologie de Husserl")を読み、ベルリンに留学した際にはフッサールに学ぶ。その後、1936年から1939年にかけてル・アーヴルやパリで教鞭を執る傍ら、哲学・文学両面にわたる執筆活動を行い、1938年には小説『嘔吐』を出版して名声を博した。第二次世界大戦のために兵役召集されるが、1940年に捕虜となったのち、1941年に偽の身体障害証明書によって収容所を釈放された。1943年、主著『存在と無』を出版。『存在と無』は副題に「現象学的存在論の試み」と打たれているとおりにフッサール現象学、精神分析学、そしてマルティン・ハイデッガーの存在論に色濃く影響されている。戦争体験を通じて次第に政治的関心を強めていったサルトルは、1945年にはボーヴォワールやメルロー=ポンティらと雑誌『レ・タン・モデルヌ』を発行。以後、著作活動の多くはこの雑誌を中心に発表されることになる。評論や小説、劇作を通じて、戦後、サルトルの実存主義は世界中を席巻することになり、特にフランスにおいては絶大な影響力を持った。徐々にサルトルはマルクス主義に傾き、ソ連を擁護する姿勢を打ち出す。これがアルベール・カミュやメルロー=ポンティとの決別の原因のひとつとなった。1952年8月、カミュが『反抗的人間』に対するジャンソンの批判に抗議したのに対して、「アルベール・カミュに答える」を書く(いわゆる「カミュ=サルトル論争 」)。この論争によって二人は完全に決裂した。構造主義が台頭しはじめると、次第にサルトルの実存主義は「主体偏重の思想である」として批判の対象になる。とりわけクロード・レヴィ=ストロースが、1962年の『野生の思考』の最終章「歴史と弁証法」において行ったサルトル批判は痛烈なものであった。しかしながら、当時の「構造主義ブーム」の中でレヴィ=ストロースによるサルトル批判の妥当性が充分に検証されたとは言いがたい。後に竹内芳郎は『マルクス主義の運命』(解題)の中で「レヴィ=ストロースは『弁証法的理性批判』について何一つ理解しておらず、サルトルへの批判は的外れだった」という趣旨の見解を述べている(ここでレヴィ=ストロースが批判の対象としたサルトルの著作は『弁証法的理性批判』であったが、その内容については「思想」(後述)を参照されたい)。その後、サルトルはアンガジェ / アンガージュマン(政治参加もしくは社会参加)の知識人として、自らの政治的立場をより鮮明に打ち出し、アルジェリア戦争の際にはフランスからの独立を目指す民族解放戦線(FLN)を支持する。アルジェリア独立後もサルトルはキューバ革命後のキューバの革命政権を支持するなど脱植民地化時代における第三世界の民族解放運動への支持は一貫していたが、ソ連の立場を概ね支持しながらも、ソ連派の共産党には加入せず、ソ連による1956年のハンガリー侵攻、1968年のプラハの春に対する軍事介入には批判の声をあげた。やがてソ連への擁護姿勢を改め、反スターリン主義の毛沢東主義者主導の学生運動を支持するなど独自の政治路線を展開していく。しかし、左派陣営内であったことはかわりがない。1964年にはノーベル文学賞に選ばれたが、「いかなる人間でも生きながら神格化されるには値しない」と言って、これを辞退。このときは候補に挙がっていたことを知ってあらかじめ辞退の書簡をノーベル賞委員会に送付していたが、書簡の到着が遅れたためノーベル賞受賞決定後に辞退することとなった。なお、サルトルは公的な賞をすべて辞退しており、この数年前にはレジオンドヌール勲章も辞退している。1966年9月には、ボーヴォワールとともに来日した。1973年2月3日には、ベニ・レヴィ、セルジュ・ジュリとともに左派日刊紙「リベラシオン」を創刊する。このリベラシオン紙はフランスの主要日刊紙の一つとなった。1973年に激しい発作に襲われ、さまざまな活動を制限することになる。また、斜視であった右目からの出血により、この時期に失明する。失明によりギュスターヴ・フローベールの評伝(『家の馬鹿息子』)の完成の不可能を悟る。ボーヴォワールとの対話の録音を開始する(のち、『別れの儀式』に収録)。晩年、自力による執筆が不可能となったサルトルは「共同作業」によっていくつかの著作を完成させようとするが、いずれの試みも失敗に終わっている。特にユダヤ人哲学者・ベニ・レヴィと取り組んだ、ユダヤ教思想に影響を受けた倫理学についての著作には意気込みを示し、「いま、希望とは( L'espoir maintenant)」と題されたレヴィとの対話記録を新聞に発表していた。「いま、希望とは」ではかつての主体を重視した実存主義思想から大きな転換がはかられていた。その転換に戸惑ったボーヴォワールはこの対話を、レヴィが加齢により判断力を失ったサルトルをかどわかし書かせたものだとし、取り消しを迫ったが、サルトルはこれは歴とした自身の思想であるとして退けた。また、この時期に作家フランソワーズ・サガンとの交流があったことが、サガンの「私自身のための優しい回想」に記されている。1980年、肺水腫により74年の生涯を閉じたときにはおよそ5万人がその死を弔った(その群集の中にはベルナール=アンリ・レヴィやミシェル・フーコーもいた)。遺体はパリのモンパルナス墓地に埋葬されている。サルトルの死後、主にボーヴォワールおよび養女である アルレット・エル・カイム(Arlette Elkaïm。34歳年下で1956年以降愛人、1965年に養女、遺言執行人)らの編集により多数の著作が出版された。サルトルの思想は実存主義によるもので、今まさに生きている自分自身の存在である実存を中心とするものである。特にサルトルの実存主義は無神論的実存主義と呼ばれ、自身の講演「実存主義はヒューマニズムであるか」において、「実存は本質に先立つ」と主張し、「人間は自由という刑に処せられている」と言い切っている。もし、すべてが無であり、その無から一切の万物を創造した神が存在する(有神論の立場)ならば、神は神自身が創造するものが何であるかを、あらかじめわきまえている筈である。ならば、あらゆるものは現実に存在する前に、神によって先だって本質を決定されているということになる。この場合は、創造主である神が存在することが前提になっているので、「本質が存在に先だつ」ことになる。しかし、サルトルはそのような一切を創造する神がいないのだ(無神論の立場)としたらどうなるのか、と問う。創造の神が存在しないというならば、あらゆるものはその本質を(神に)決定されることがないまま、現実に存在してしまうことになる。この場合は、「実存が本質に先だつ」ことになり、これが人間の置かれている根本的な状況なのだとサルトルは主張するのである。そこでまず、サルトルは即自と対自という対概念を導入する。これは物事のあり方と人間のあり方に分けて対比させたもので、即自である物事とは、「それがあるところのものであり、あらぬところのものであらぬもの」であるとした。これは物事が、常にそれ自身に対して自己同一的なあり方をしていることを意味し、このようなあり方を即自存在<être-en-soi>という。それに対して、対自である人間とは、「それがあるところのものであらず、それがあらぬところのものであるもの」とした。人間は、何をやっているときでも常に自分を意識することができるので、物事のように自己同一的なあり方をしていない。AはAであるといわれるのは即自存在においてのみであって、対自においてはAはAであったとしか言われえない。対自は仮に存在といわれたとしてもそれ自身は無である。これは人間があらかじめ本質を持っていないということを意味する。このことについてサルトルは「人間とは、彼が自ら創りあげるものに他ならない」と主張し、人間は自分の本質を自ら創りあげることが義務づけられているとした。人間は自分の本質を自ら創りあげることができるということは、例えば、自分がどのようにありたいのか、またどのようにあるべきかを思い描き、目標や未来像を描いて実現に向けて行動する「自由」を持っていることになる。ここでのサルトルのいう自由とは、自らが思い至って行った行動のすべてにおいて、人類全体をも巻き込むものであり、自分自身に全責任が跳ね返ってくることを覚悟しなければならないものである。このようなあり方における実存が自由であり、対自として「人間は自由という刑に処せられている」というのである(人間は自由であるように呪われている。)。とはいえ、人間は自分で選択したわけでもないのに、気づいたときにはすでに、常に状況に拘束されている。他人から何ものかとして見られることは、わたしを一つの存在として凝固させ、他者のまなざしは、わたしを対自から即自存在に変じさせる。地獄とは他人である。そのうえ、死においては、すでに賭けはなされたのであって、もはや切り札は残されていない。わたしを対自から永久に即自存在へと変じさせる死は、私の実存の永遠の他有化であり、回復不能の疎外であるといわれる。しかしながら、これを常に状況によって自分が外から拘束されているとみなすべきではない。自由な対自としてのかぎりでの人間は、現にあるところの確実なものを抵当に入れて、いまだあらぬところの不確実なものに自己を賭けることができる。つまり、自己が主体的に状況内の存在に関わり、内側から引き受けなおすことができる。このようにして現にある状況から自己を開放し、あらたな状況のうちに自己を拘束することはアンガージュマンといわれる。サルトルは自らのアンガージュマン(社会参加)の実践を通してしだいに社会的歴史的状況に対する認識を深め、マルクス主義を評価するようになっていく。『存在と無』に続く哲学的主著『弁証法的理性批判』は、実存主義(あるいは現象学的存在論)をマルクス主義の内部に包摂することによって、史的唯物論の再構成を目指したものだった。なぜ、そのような作業が必要だとサルトルは考えたのか。『弁証法的理性批判』序説の『方法の問題』によれば、ソ連をはじめとする共産党の指導者たちが、マルクス主義理論を教条化することによって、それにあわない現実を切り捨てていったからである。「彼らは教条を経験の力の及ばぬところに置いた。理論と実践の分離はその結果として、実践を無原則な経験主義に変え、理論を純粋で凝結した“知”に変えてしまうことになった」(『方法の問題』人文書院 30頁)『批判』においてサルトルが行おうとしたことは、実践弁証法によって史的唯物論を再構成し、「発見学」としての本来のマルクス主義を基礎づけなおすことだったのである。『弁証法的理性批判』は、の3つの段階を進んでいく。その内容を大まかに見ると次のようになる。人間の主体的実践が疎外され客体化・固定化することによって実践的惰性態「=生産物、生産様式、諸制度、政治機構など、人間によってつくられた“存在”」が形成される。それは、人間によって形成されたものであるが、「すでに形成されたもの」として諸個人を規定・支配する社会的・歴史的現実である。それらの分野に埋没し、受動的に支配される人間は、真の活動性を持たない集合態にすぎないが、共通の目標を目指す集団を形成し「共同の実践」をつくりだすことによって、実践的惰性態をのりこえ、真の活動性をとりもどす。実践的惰性態(=生産物、生産様式、政治制度等)は、いわば歴史の「受動的原動力」であり、社会・歴史の客観的構造や運動法則というのはこの分野において成立する。それに対して集団的実践(特に階級闘争)は歴史をつくる人間の主体的活動であり、歴史の「能動的原動力」というべきものである。このような『弁証法的理性批判』における理論形成の意図をサルトルは『方法の問題』の中で繰り返し述べている。例えば『方法の問題』の第2章、「媒体と補助諸科学の問題」でサルトルは「生産関係及び社会的政治的構造の水準では、個々の人間はその人間関係によって条件づけられている(76頁)」として、生産関係(経済的土台)と個人との間に家族、居住集団、生産集団など現実に数多くの「媒体」が存在すること、「発見学」としてのマルクス主義はそれをも含めて解明していくことが必要であると主張した。そして、個人の意識の縦の方向に関わるものとして精神分析学の成果を、また、社会的な横の総合に関わるものとしてアメリカ社会学の成果を、マルクス主義の中に「方法」として取り入れることを主張したのである。以上のように、実践的惰性態、集合態、集団等の概念を駆使して史的唯物論の再構成を目指した『弁証法的理性批判』の意図は、マルクス主義の中に精神分析学やアメリカ社会学の成果を包摂し、20世紀の知の集大成を行うことで「構造的、歴史的人間学」を基礎づけることであった。(「嘔吐」、「シチュアシオン」の細目を除く)

出典:wikipedia

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