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粒子と波動の二重性

粒子と波動の二重性(りゅうしとはどうのにじゅうせい、Wave–particle duality)とは、量子論・量子力学における「量子」が、古典的な見方からすると、粒子的な性質と波動的な性質の両方を持つという性質のことである。光のような物理現象が示す、このような性質への着目は、クリスティアーン・ホイヘンスとアイザック・ニュートンにより光の「本質」についての対立した理論(光の粒子説と光の波動説)が提出された1600年代に遡る。その後19世紀後半以降、アルベルト・アインシュタインやルイ・ド・ブロイらをはじめとする多くの研究によって、光や電子をはじめ、そういった現象を見せる全てのものは、古典的粒子のような性質も古典的波動のような性質も持つ、という「二重性」のある「量子」であると結論付けられた。この現象は、素粒子だけではなく、原子や分子といった複合粒子でも見られる。実際にはマクロサイズの粒子も波動性を持つが、干渉のような波動性に基づく現象を観測するのは、相当する波長の短さのために困難である。19世紀の終わりまでには、物質は原子と呼ばれるような基本的な粒子でできているとする原子論が確立していた。電流は初めは流体だと考えられていたが、陰極線を用いたジョゼフ・ジョン・トムソンの研究によって、電子と呼ばれる粒子の流れであることがわかった。これらの事実によって、自然界の大部分は粒子からできていると考えられるようになっていた。波動については同じ頃までに、回折や干渉の現象を通じて、十分に理解が得られていた。ヤングの実験やフラウンホーファー回折の現象から、光は波動だと考えられていた。しかし20世紀になると新たな問題が持ち上がった。1905年のアインシュタインによる光電効果の実験などよって、光が粒子のような性質も持つことが示され、1923年のコンプトン散乱の発見によって確かなものになった。一方で、粒子だと考えられていた電子について、電子回折が予言された後、実験により確かめられ、電子が波動のような性質も持つことも示された。粒子と波として、それぞれ互いに相容れないように見えるが、20世紀前半の量子力学の確立によってこの難問は解消された。量子論により、粒子と波動の二重性は、その両方の性質を示す量子というものとして明確化され、20世紀の終わりには二重性の正確な定量もなされた。古典的な粒子説、波動説の欠点を補い、微小系の振る舞いを完全に記述できる。量子論にはパラドックスは無いが、この二重性などに関してはしばしば直感的でないなどとしてその「解釈」と称する様々な哲学等による解説などが見られる。最初期の光に関する総合的な理論は、まずホイヘンス、次いでニュートンにより、それぞれ対立するようなモデルが「本質」であるとして提唱された。ホイヘンスによる光の波動説は光の干渉等をよく説明したが、他の現象について説明できない点があった。続いてニュートンによって光の粒子説が唱えられた。粒子説では光の反射が容易に説明され、レンズによる屈折や、プリズムや虹などで見られる分光現象も説明できた。。1800年代初頭、ヤングとオーギュスタン・ジャン・フレネルによる二重スリット実験によってホイヘンスの波動説の証拠が得られた。二重スリット実験によって、格子を通った光は、水の流れが作るものと良く似た干渉縞を作る。光の波長もこの干渉縞のパターンから計算できた。光の波動説はすぐに粒子説に置き換わることはなかったが、粒子説では説明がつかない偏光等の性質も説明できることが分かり、1800年代中頃には光に対する主流な考え方になってきた。1800年代終わり、ジェームズ・クラーク・マクスウェルは、マクスウェルの方程式により光は電磁波の伝播であることを示した。この方程式は多くの実験によって検証され、ホイヘンスの考えは広く受け入れられていった。1901年、マックス・プランクは、黒体放射の光のスペクトルを再生することに成功したと発表した。この問題のために、プランクは放射線を発生する原子のエネルギーは量子化されているという数学的な仮定を置いた。後に、量子化されているのは原子ではなく電磁放射線自身だと提案したのはアインシュタインだった。1905年、アインシュタインはそれまで問題となっていた光電効果に対して説明を与えた。彼はこの説明のために、光のエネルギーの量子である光子の存在を仮定した。光電効果では、金属に光を照射することにより、回路に電流が生じる。これは、光が金属から電子を弾き出し、電流が流れたものだと推定された。しかし、暗い青色の光でも電流を発生させるのに対し、強い赤色の光では電流を全く発生させないことが分かった。波動説によると、光の波動の振幅は光の強さに比例するとされ、強い光は必ず大きな電流を発生させるはずである。しかし、奇妙なことに観測の結果はそうならなかった。アインシュタインは、この難問に対し、電子は離散的な電磁場(光子と呼ばれる量子)からエネルギーを受け取ると説明した。エネルギー量"E"は光の周波数"f"と、次の関係式で結び付けられる。ここで"h"は6.626 × 10ジュール秒の値を持つプランク定数であり、十分高い周波数の光子のみが電子を弾き出せることが分かる。例えば、青色光の光子は金属から電子を解放するのに十分なエネルギーを持っているのに対し、赤色光の光子は十分なエネルギーを持たない。より高い周波数の光子は、より多くの電子を弾き出せるが、周波数が基準以下だと、いくら強い光でも電子は弾き出せないことが分かる。光電効果は、アインシュタインの1921年度のノーベル物理学賞受賞の受賞理由とされた。1924年、ド・ブロイはド・ブロイ波の仮説を発表した。この仮説は光子だけではなく全ての物質が波動性を持つとするもので、波長"λ"と運動量"p"が次の式で関係付けられた。これは、光子の運動量"p"をp= formula_3、光子の波長"λ"をλ= formula_4(cは真空中の光速度)とした、アインシュタインの式の一般化である。ド・ブロイの式は3年後に電子について電子回折の観察をする2つの別々の実験によって検証された。アバディーン大学のジョージ・パジェット・トムソンは薄い金属フィルムに電子ビームを通し、予想された干渉パターンを得た。ベル研究所のクリントン・デイヴィソンとレスター・ジャマーは結晶格子に電子ビームを通して同じ結果を得た。ド・ブロイはド・ブロイ波の考案によって、1929年にノーベル物理学賞を受賞した。トムソンとディヴィソンも1937年のノーベル物理学賞を分け合った。ヴェルナー・ハイゼンベルクは、量子力学の公式化を進める中で、次のように表される不確定性原理を仮定した。ここで、ハイゼンベルクは、初めのうちは自身の発見を、測定のプロセス上生じる現象だと説明していた。粒子の位置を正確に測定しようとすると運動量が乱され、逆に粒子の運動量を正確に測定しようとすると位置が乱される。しかしこれは現在では不確定性の一部にすぎず、不確定性は観測のプロセスではなく粒子そのものに存在することが理解されている。実際に、現在の不確定性原理の説明は、ニールス・ボーアとハイゼンベルクによって考案されたコペンハーゲン解釈に拡張され、粒子の波動性に明確に依存している。ここでは波動の正確な位置を論じることは意味をなさず、粒子の完全に正確な位置も決まらない。さらに位置が比較的よく定まると、波動はパルス状になり、波長は定まらなくなる。ド・ブロイ自身は粒子と波動の二重性を説明するためにパイロット波を提案していた。この考え方では、それぞれの粒子の位置と運動量は精度良く定まるが、シュレディンガーの式に由来する波の性質も示す。パイロット波理論は、複数の粒子に適用すると局在性を示さなくなることから、初めは否定された。しかしすぐに、非局在性は量子理論の積分により得られることが分かった。また、デヴィッド・ボームによってド・ブロイのモデルが拡張された。

出典:wikipedia

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