ドライゼ銃(ドライゼじゅう、)は、1841年にプロイセン軍に採用された軍用小銃であり、世界初の実用的ボルトアクション小銃である。この銃はプロイセンの銃工であったによって発明された。開発は1824年に始まり、数多くの試作を経て1836年に完成した。この功績により、ドライゼは1864年に爵位を与えられている。先進的すぎる存在だったため開発当初はほとんど注目されなかったが、1860年代のプロイセンが国土拡張に転じたことによって、幾多の戦場でプロイセン軍を勝利に導く原動力となり、その名声を全世界に轟かせた。ドライゼ銃は、長い撃針が紙製薬莢を貫いて弾底の雷管を撃発させる撃発機構、および弾薬から「ドライゼのニードルガン」とも呼ばれ、日本では火針銃または針打式、撃針銃、旧日本軍の公文書にはドイツ語の Zündnadelgewehr の発音「ツュントナーデルゲヴェーア」から“普式ツンナール銃”と記されている。前装銃が主流であった当時、ドライゼ銃の先進性は他のどんな銃器と比べても飛び抜けた存在であり、これを装備して躍進したプロイセン軍は、先進的な軍事技術を有した軍が優位に立つ典型的な例のひとつだったと言える。この銃は射手が地面に伏せた姿勢で敵の弾丸を避けながら、一体化した薬莢で簡単に再装填を行って、射撃姿勢を維持しながら前装銃とは桁違いの速度で持続射撃を続ける事を可能とし、その普及は太古から一貫して“立って歩き、立って射撃する”存在だった歩兵の運用を、戦場で“匍匐前進”する存在へと変化させてしまった。この新兵器は1848年からプロイセン軍で徐々に配備が始まり、1849年にドレスデンで発生した5月暴動の市街戦において、初めてプロイセン軍によって実戦使用されたが、1848年のベルリン暴動で武器庫から多数が盗まれてしまったため、その機密が維持されていた時期は短かった。プロイセンの台頭と共に、プロイセンと同盟した他のドイツ各州にも普及していったが、保守的だった多くの欧州諸国の陸軍は、ドライゼ銃の紙製薬莢にも後装式の優位性にほとんど理解を示さず、1860年代にプロイセンが対外膨張へ転じるまでの長い期間、ドライゼ銃は過小評価され続けていた。プロイセン以外では唯一、後装式小銃への換装を進めていた英国以外の欧州諸国は、1864年の第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争によって、ドライゼ銃の存在によりプロイセンの連合軍が驚異的な戦力に変化していることを知った。続く1866年の普墺戦争において、ドライゼ銃は最大の活躍を見せた。先込め式銃を使っていたオーストリア兵が、射程では優っていたが、一発を撃つために立ったままの姿勢で次弾を再装填するまでの間に、プロイセン兵は5発(もしくはそれ以上)を地面に伏せたままで発射し、敵をなぎ払ったのである。この様を現地で見ていた外国軍の観戦武官は「ニードルガンは王者だ」と評し、その様子がフランスへ伝わると、敵兵の死体の山を前にしたニードルガン発明者が喜色の笑みを浮かべている風刺画が描かれた。準同盟関係にあったオーストリアがプロイセンに惨敗し、ドライゼ銃の性能を知って愕然としたフランス陸軍は、ドライゼ銃を研究・改良したシャスポー銃を1866年に急遽採用した。双方が紙製薬莢を使用する小銃で戦った戦争となった1870年の普仏戦争では、ドライゼ銃に対して倍の射程を誇るシャスポー銃や、ミトラィユーズなど各種の新兵器を装備していたフランス軍が圧倒的な優位に立っているかに見えていたが、フランスより巧みに新技術(鉄道・電信)と組織(参謀本部・諜報部)を活用して周到に戦争準備を進めていたプロイセン軍の前に、自信過剰だったフランス軍はあっけない大敗を喫した。フランスに勝利したプロイセンはドイツ帝国へ発展し、1871年にドライゼ銃のボルトアクションを継承・発展させ、現代式銃器と同じ金属薬莢を使用するモーゼル1871ライフルを最初の陸軍制式小銃とすると、プロイセンの勃興を支えたドライゼ銃と紙製薬莢は30年に及んだその役割を終えた。また、ドライゼ銃の紙製薬莢は金属薬莢が主流となるまでの間、最も実用的な一体型薬莢として世界的に普及し、これを使用する回転式拳銃やレバー式の閉鎖機構を付けた娯楽用途の銃などが、模倣品や改造品を含めて多数製造された。ドライゼは前装式銃の撃発機構がフリントロック式から雷管式へ移行して行った時期に、最初の針打ち式銃を試作した。精密射撃を可能にするライフル銃身は16世紀に実用化されていたものの、燧石式の撃発機構は着火時に大きな衝撃を銃に与えてしまうため、精密射撃は熟練した射手にしか行えない曲芸だった。燧石式よりもはるかに小さい衝撃と短いタイムラグで着火させられる雷管式は、ライフル銃身と組み合わせる事で、誰にでも精密射撃を可能にさせる新技術として、また雨や湿気に強い雷汞の利点や、発射時に燧石の閃光を発しない等の利点から急速に普及した。燧石式が射撃の精度に与えていた悪影響が取り除かれると、残された問題として伝統的なサイドハンマー式撃発機構の弊害が認識され始めた。当時の前装式銃の撃発機構は、多くの雷管式銃が燧石式を改造して製造されていたために、燧石式の撃発機構であるサイドハンマー式がそのまま継承されていたが、銃身の中心軸に対して大角度で打撃を加えるサイドハンマー式は、軸線の安定に干渉していると認識されはじめていた。また、ニップルと呼ばれる銃身につながった枝状の小さなパイプに、さらに小さな雷管を被せる作業の困難さ(手袋をした手ではほぼ不可能である)と、撃発時にしばしば雷管が破裂して射手の目を傷付けてしまう事故は、サイドハンマー式で利用されていた雷管式が新たにもたらした深刻な問題であり、新しい撃発機構への模索が始まっていた。ドライゼはこれらの問題点を解決する方策として、最初の前装式ニードルガンを試作した。この銃は、銃身の中心軸線上で前後に動作する長い針を、コイルスプリングによって前進させ、弾丸底部の中央に取り付けられた雷管を突いて着火させる構造で、銃身中心軸線への振動は最小限に抑えられ、雷管は弾丸と一緒に装填できる上に、撃発のプロセスは密閉された銃身内で完結するため、射手への危険は減少した。このアイデアを成功させたドライゼは、さらに弾丸・雷管・黒色火薬を一体型させた紙製薬莢を試作し、これを銃口からではなく銃尾から装填し、嵌合式のボルトで閉鎖するアイデアと、長い針による撃発機構をボルトに内蔵させるアイデアを追加した事で、後にボルトアクションと呼ばれ広く普及した閉鎖・撃発機構の実用化に成功した。ドライゼ銃に使用された弾薬は、弾丸・雷管・黒色火薬を紙製の薬莢で一体化させたもので、実用薬莢としては最初期のタイプである。直径15.4mmの弾丸は、周囲を紙製のと呼ばれる緩衝用パーツで覆われている。サボは発射時に弾丸と銃身内のライフル溝の間に挟まる事で弾丸に回転を与えるとともに、隙間を塞いで前方へのガス漏れを防いで威力を保ち、同時に弾丸の鉛が銃身内部のライフル溝に付着・堆積して命中精度を落としてしまう事を防いでいる。また、サボの底面には雷管(図中・紫色の部分)が装着されており、その後ろには4.8gの黒色火薬が充填され、薬莢の先端は巻かれて糊付けされ弾丸が脱落するのを防いでいた。発射する際には、長い撃針(ドライゼ針)が紙製薬莢の後端を突き破り、火薬を貫きながら前進して雷管を打って着火させる。また空包も存在し、弾丸を持たないため実包より短く軽いが、その構成と薬量は実包と同等であった。既に完成されたボルトアクション銃を見慣れた現代人の視点からは、ドライゼ銃の右上方に直立したボルトハンドルや、AK-47を思わせる長いレシーバは奇異に見える。しかし、その基本構造は全てのボルトアクション銃と共通した存在であり、19世紀前半にこれだけのコンセプトを実現したの独創性は比類ないものと言える。ドライゼ銃が確立したボルトアクションは、ボルト操作だけで射撃に必要な操作が全て完結する画期的な機構であり、単純な操作で連続した射撃が可能だった。ドライゼ銃の銃身およびレシーバ部は一体化しており、ボルトから突起したハンドル部の根元が、レシーバ上部の突起と勘合する事で薬室は閉鎖されている。この状態からボルトを左に回せば閉鎖が解かれ、更に後方に引くことで薬室が開き、新たな弾薬を装填する事が可能となる。再装填後に、上記の操作を逆に行う事で閉鎖状態に戻す事ができる。ボルトを戻す際には、雷管に打撃を与える撃針にスプリングのテンションが蓄えられて次弾の撃発準備が整う(コックオン・クロージング方式)。ドライゼ銃は金属薬莢が存在しない時期の後装式銃であるため、銃身後端(薬室)の閉鎖はボルトを押し付けて密着させる事で行われていた。銃身(薬室)後端はすぼまった形状のテーパーが付けられており、これと嵌合させるために、ボルトの先端内側は漏斗のように傾斜している。また、ボルトの根元が嵌合するレシーバ上部のロック部突起(ロッキング・ラグ)には傾斜が付けられ、ボルトハンドルを右に回して閉鎖位置に戻す過程で、ボルトの先端は傾斜に沿って銃身に強く押し付けられ、銃身後端とボルト先端の傾斜は互いに密着する。この密着は金属同士の摺り合わせであるため徐々に磨耗したが、ボルトを更に右に回転させる事で継続して密着を維持できた。長期の使用によって傾斜面に発射ガスによる腐食が生じて間隙が生じると、徐々にガスが漏れ出すようになったが、銃身後端とボルトの密着面が傾斜しているため、ガスは銃口側へ向かって吹き出すよう誘導され、嵌合部も射手の顔面から離れた場所に設けられており、直接ガスに曝される事がないよう配慮されていた。ドライゼ銃のボルトアクションは、プロイセンのライバルだったフランスがシャスポー銃およびグラース銃として模倣・改良し、日本の村田銃はこれを更に模倣・改良している。その後、ドライゼ銃に触発された各国でボルトアクションの改良が続けられ、閉鎖・撃発・安全装置のタイプによって各種のバリエーションが生まれ、ドイツのモーゼル式・イギリスのリー・エンフィールド式・ロシアのモシン・ナガン式・日本の有坂式などが開発され、概ね19世紀末までに完成され、現代に引き継がれ軍用・民生用として幅広く利用されている。ドライゼ銃は実戦で使用された後装式軍用小銃として最初期のものだったが、多くの利点と同時に数々の欠点を有していた。銃身後端の閉鎖が前装銃ほど堅牢ではないドライゼ銃は、あまり高い腔圧には耐えられないため、使用できる黒色火薬の量は当時の前装銃より少なく設定されていた。このためドライゼ銃の射程距離は当時の前装銃より短く、プロイセン最大の脅威だったフランス兵が使用した後装式シャスポー銃の半分しかなかった。また、連射を続けると黒色火薬のススがボルト先端に付着して、ボルトを完全に閉じることが難しくなり、大量のガスが漏れ出して威力の低下を招いたため、ドライゼ銃は概ね60〜80発ごとに銃身やボルトにこびりついたススを掃除する必要があった。もっとも、兵一人が携行する弾薬はこれより少なかったため、これは実際的にはさほど大きな問題ではなかった。ドライゼ銃の紙製薬莢に使用されていた黒色火薬と雷汞の燃焼ガスは共に腐食性が高く、発射後の手入れを怠れば銃身とボルトの嵌合部はすぐに腐食してしまい、時として酷いガス漏れが発生して射手の手や顔に火傷を負わせた。雷管が弾丸の後ろに置かれていたことは、推進薬である黒色火薬への二次着火を確実にしていたが、細くて長い撃針が薬室の中に入ったまま、燃焼する黒色火薬の中で高温高圧に直接曝されてしまうため、200発も撃つと撃針は脆くなり折れ易くなってしまった。撃針が折れてしまった場合には、ボルトを分解して撃針を交換するまで銃は使えなくなるため、兵士には予備の撃針が2本支給されていた。また、ドライゼ銃のボルト先端内部には大きな容積の空間があり、ここに流入したガスとススがこびりついて、撃針の動作を阻害するというデザイン上の問題点もあった。プロイセンの勢力拡大とともに、威力を増して装填スピードを高めた改良モデルである1862年型ドライゼ銃も採用されたが、1860年代になると普仏間の軍拡競争とは無関係に、完成形の薬莢であると、前装銃を改造して再利用するコンセプトのスナイドル銃がイギリス軍に採用され、普仏戦争の終結で欧州が一応の安定期に入った1870年代以降、紙製薬莢は過去のものとなり、急速に金属薬莢に置換されていった。ドライゼ銃の名声が欧州全体に広まり、多くの追従者が生まれたのは、プロイセン軍が幾多の戦役で勝利を収めた1860年代に入ってからの事である。ドライゼ銃の配備を自国と同盟国に限定し、その構造を軍事機密として秘匿しようとのプロイセン軍の試みは、配備が始まって間もない1848年の3月革命で、軍の兵器庫から多数のドライゼ銃が盗まれた事から早々に潰えてしまった。最も早く1850年にドライゼ銃の模倣を試みたのは英国だったが、その特異な構造を理解するのに必要な盗品のサンプルは既に多数流通しており、多くの軍事技術者にとってドライゼ銃の構造は特別な知識ではなく、ほぼ同時期の日本でも洋学者達はテキストから同じ水準の知識を得ていた。民間企業の経営者だったドライゼ自身も、民生市場向けに多数の紙製薬莢使用の火器を販売しており、遠く離れた米国ですらドライゼの紙製薬莢用に合わせて改造された回転式拳銃が市販されるほどの成功を収めており、一時は最も普及した一体型薬莢の代名詞ともなったドライゼ銃はその欠点とともに広く知られた存在となっていた。後装式ドライゼ銃と紙製薬莢の登場から、これに欧州各国の軍が興味を抱くまで25年近くもかかった理由は、ひとえに前装銃と比較してドライゼ銃の射程・威力が劣っていた点にあった。こうした欠点を差し引いても、後装式であるドライゼ銃に多大な軍事的メリットがある事が理解されるのは、プロイセン軍が幾多の戦役で勝利を収めてからようやくの事であり、ドイツにおける武器生産の中心地だったズール市やイタリア(トリノ造兵廠・による設計)・ロシア(ツーラ造兵廠)で独自の改良を加えられた模倣品が製造されたが、最も完成度の高い改良型はプロイセン最大の脅威だったフランスで製造されたシャスポー銃だった。ドライゼ銃の工場で徒弟として働いていたヨーゼフ・ドルシュが独立して、1857年にズールで自らの工房を開き、ドライゼ銃の閉鎖機構を独自に改良した紙製薬莢を使用するボルトアクション式小銃の試作品を製作した。ドルシュはスポンサーとしてプロイセンの軍人貴族だったクラーマー・フォン・バウムガルテンをパートナーとしたため、その試作品は後にDoersch & von Baumgarten銃(バウムガルテン銃)と呼ばれた。同銃のボルトによる閉鎖の構造はドライゼ銃よりもシャスポー銃に近く、ボルトは銃身(薬室)後端内部に挿入される構造となっていたが、同銃のボルトにはシャスポー銃のようなガス漏れ防止のための仕組みは無く、紙製薬莢の基部(後端)にグリスを塗したフェルトが置かれ、発射時の圧力でボルトに押し付けられたフェルトがガス漏れ防止パッキンの役割を果たすようになっていた。また、ドライゼ銃や他の多くの後装式銃と異なり、同銃のレシーバは銃身の後部を切り開いて製造されていたため、加工が難しくなり歩留まりが悪くなるためドライゼ銃より高価だった。同銃は1862年にシャウムブルク=リッペ侯国軍によって採用・配備されたが、使用された弾薬は同銃専用のガス漏れ防止のフェルトパッキンの無いドライゼ銃と共用の弾薬だったため、ボルト先端と銃身後端が密着するドライゼ銃よりガス漏れが酷い状態となった。このためドルシュは薬莢の後端に円盤型の薄いゴムを貼り付けてガス漏れを防ぐ工夫を提案したが、これは高価なゴムを使い捨てにするため現実的な方法ではなく、後発のシャスポー銃がボルトにゴムリングを装着して完全なガス漏れ防止を実現したのと対照的に、それ以上の発達を遂げる事無く消滅し、世界的に現存数は極めて少ないが日本国内には歩兵型(シャウムブルク=リッペでは歩兵型は使用されておらず日本向けに作られた物と思われる)が霊山歴史館と個人蔵の2挺、騎兵型が1挺確認されている。ズールの銃工であるカール・アウグスト・ルックが1865年に製造した銃で、英国のスナイドル銃と同様に前装銃を後装式に改造するための案として試作された。スナイドル銃と異なるのは、弾薬がドライゼ式の紙製薬莢である点と、撃発機構に前装銃のサイドハンマー式を流用せず、ドライゼ銃を更に改良したボルトアクション式を採用している点で、サイドハンマー式の撃発機構を収納していたサイドプレート部分は埋め木で塞がれていた。銃身後端とネジ結合されたレシーバ部分は前装銃の銃身後方と同程度の太さでまとめられており、全体的に後世のボルトアクション小銃のように細身の形状となっていた。ボルト本体はドライゼ銃のそれより細く、側面に2箇所のロッキング・ラグが突出しており、更にボルトハンドルは携行中に邪魔にならないよう折りたためる工夫が施されていた。また、ボルトによる閉鎖の構造は更にシャスポー銃に近く、ボルト先端にはシャスポー銃に先駆けて密閉用のゴムリングが装着されており、ほぼ同じ構造を実現していた。フランス軍が1866年に採用したシャスポー銃は、紙製薬莢を使用する点とボルトアクション式である点はドライゼ銃と共通だったが、ボルトによる閉鎖・撃発機構と、ボルトが銃身(薬室)後端内部に挿入される形状へ変更されている点は、上述のドルシュやルックによる先行改良型に酷似しており、がこれらの構造を参考としていた事が伺える。シャスポー銃最大の特徴は、ルックの発想したボルト先端のガス漏れ防止用ゴムリングをボルト外周まで大型化し、薬室内の火薬の燃焼に直接曝される部分には大型のボルトヘッドが取り付けられ、発射時のガス漏れを完全に防ぐ事に成功していた点である。ガス漏れを封じたシャスポー銃は火薬量を増やしつつ小口径化する事で、射程・威力・弾道特性ともに前装銃やドライゼ銃を凌ぐ水準を実現していた。また、紙製薬莢内部の雷管を薬莢後端に移し、撃針が火薬の燃焼に曝される部分を短くして焼損を防ぐ改良を施していたが、この事が不発を多発させる原因となってしまい、撃針先端はドライゼ銃同様に焼損で脆くなる現象を防げず、結果としてアイデア倒れに終わり、シャスポー銃は採用から8年足らずで金属薬莢を使用するグラース銃に改造されてしまっている。18世紀後半〜1840年代にかけて、英国の、米国の、ノルウェーのなど代表的後装銃、いくつかの後装銃が存在した。これらの後装銃は銃身とは独立した薬室を持つ後装銃であり、ドライゼ銃と比較してもあまり意味が無い存在である。幕末期には様々な洋式銃が日本に流入したが、ドライゼ銃も例外ではない。ドライゼ銃(日本では普式ツンナール銃と呼ばれた)は開国以前から兵学のテキストに最新式の後装銃として記載されていたため、その存在は多くの洋学者に知られていたが、開国後のオイレンブルク使節団で実物を観察することができた。また文久遣欧使節は現地で性能調査を行い、横浜鎖港談判使節団では特別任務としてベルリンでの購入が計画されていたが、実際に日本へ輸入されるようになったのは、上海から日本にやって来たプロイセン人のスネル兄弟が活動を開始した1860年以降の事である。その後、明治維新後になって徳川御三家のひとつである紀州藩(和歌山)が、津田出(つだいづる)・陸奥宗光等の指導下で独自の徴兵制(農兵)とプロイセン軍制を導入し、カール・ケッペンを軍事顧問に招聘すると共にドライゼ銃はその主装備として大阪のレーマン・ハルトマン商会から購入されたと伝えられており、廃藩置県が断行され新生日本陸軍が誕生した後、紀州藩から政府が弁済購入した兵器類の中にドライゼ銃が多数含まれていた事を示す記録や、同藩が独自に工廠を設置していた事を示す記録などが確認されている。ドライゼ銃は、日本陸軍の主装備とされたスナイドル銃や幕府から継承されたシャスポー銃とともに、台湾出兵や西南戦争などの戦役で使用された後、村田銃の採用以降は、射撃訓練用・電信・砲兵等の後方部隊に使用され、最終的には教練銃として払い下げられたり、銃剣術の訓練用に改造されて使用されたほか、千島列島・占守島への入植者の申請を受けて護身用に販売されていた事なども記録されており、最終的に廃棄処分となったのは明治30年代になってからの事だった。
出典:wikipedia
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