多摩川スピードウェイ(たまがわスピードウェイ)は、神奈川県川崎市中原区の多摩川河川敷に存在した日本初の常設サーキット。「オリンピアスピードウェイ」とも呼ばれた。1936年5月9日に開業。東急東横線の多摩川橋梁北側付近に相当する。1910年代から日本国内でも富裕層や外国人により自動車によるレースが行われていたが、パーマネント(常設)サーキットが無いために目黒競馬場や代々木練兵場、立川飛行場で開催するなど開催場所の確保に苦労していた。このような状況を打開するため、アメリカでモータースポーツ活動を行っていた藤本軍次がパーマネントサーキットの開場を企画し、報知新聞社とともに「日本スピードウェイ協会」を設立しサーキット用地の確保に奔走した。その後東京横浜電鉄がオリンピア球場跡地(異論もあり)を提供するとともに、同社が総工費10万円のうち7万円を出資した。さらに三菱グループの株主の飯田正美が3万円を寄付し、日本及びアジア初のパーマネントサーキットとして、1936年5月9日に開業した。一周1,200m、幅20mのオーバルダートトラックの左回りのコースに、多摩川の堤防土手を利用したメインスタンドを持つ構造となっていた。メインスタンドの収容人数は数千人程度で、サーキット敷地内の最大収容人数は3万人とされている。運営は東京横浜電鉄が行った。1937年4月発行の『東横・目蒲・玉川電車 沿線案内』には「面積四萬坪、コース一哩、三萬人を収容する大スタンド等施設完備せる東洋一の自動車大競走場」と記載されている。1920年までは多摩川の自然堤防があった場所であり、自然堤防上には青木根集落として30軒ほどの家があった。多摩川の築堤建設のため、青木根集落の住民は中原区上丸子天神町に移った。1936年6月7日には、日本自動車競走倶楽部をオーガナイザーとして、日本初の本格的な自動車レースとなった第1回全国自動車競走大会が開催された。開会式には大日本帝国陸軍の将官が列席し、多摩川沿いという、当時においては都心から遠く離れた地での開催にもかかわらず1万人以上の観客を集めるなど大きな注目を集めた。当時横浜市にある工場で生産されていたフォードや、ブガッティやベントレー、インヴェィクタやハップモビルなどの様々な外国車のみならず、カーチスの航空機エンジンを搭載した改造車、日産自動車などの日本の大手自動車会社もワークス体制を組んで参戦した。このレースには、後に本田技研工業を創設する本田宗一郎も自製の「浜松号」で参戦したが、レース中の事故によりリタイアし、本田も骨折や視力低下を招くなどの重傷を負っている。国産自動車部門で優勝したのは当時三井物産の傘下にあったオオタ自動車工業が手作業で組み上げたレース専用マシンの「オオタ号」であった。なお、当日、スタンドからレースを観戦していた日産自動車の鮎川義介社長は敗北に激怒、社員に号令をかけ3ヶ月後の第2回大会に雪辱を期した。第2回大会が同年10月に開催され、10カテゴリーに分けられるなどより細かいレギュレーションが採用された。今回も日産自動車やオオタのワークスチームのほか、メルセデス・ベンツやMG、ボクスホールやダッジなど様々な外国車も参戦した。さらにドイツの自動車部品大手のボッシュ社による賞典も設けられ、観客数も増え続けるなど開催が軌道に乗った。なおこのレースにおいては、前回優勝できなかった日産自動車が雪辱を果たし優勝した。1937年5月16日に第3回大会が開催された。この回も多くの日本車と外国車が参戦したが、前回優勝した日産自動車のワークスチームは参加を見送り、オオタのワークスチームが優勝を飾った。1938年4月17日には第4回大会が開催され、同時に全日本オートバイ選手権も開催された。しかし、前年の7月7日に盧溝橋事件をきっかけに勃発した日中戦争の激化を受けて施行された物資動員計画に伴うガソリンの配給制移行などに伴い、第4回大会を最後に自動車レースは行われなくなった。自動車によるレースは休止を余儀なくされたものの、1939年9月にヨーロッパで第二次世界大戦が開戦した後もオートバイの草レースが開催されていた。しかしオートバイによるレースも、1941年12月の大東亜戦争の勃発を受けてやがては終了を余儀なくされた。戦争中は全くレースが開催されなかったが、1945年8月に第二次世界大戦が終結しまもなく余剰ガソリンが市中に出回るようになると、ほどなく愛好家たちによりオートバイの草レースが行われるようになった。またこの頃、この場所を公営競技場として使用する計画が持ち上がり、1949年にはオートレースの創設を目指して結成された日本小型自動車競走会(後の日本小型自動車振興会、現在のJKA)の主催により、戦後初の『全日本モーター・サイクル選手権』が開催されている。しかし当時既に競輪競技が創設されていた上に、翌年の1950年10月に千葉県に船橋オートレース場がオープンしたため、代わりに競輪場を建設する方向で神奈川県などの自治体が動きを見せていたが、河川敷における水害の心配や、地理的に近隣にある川崎競輪場などとの競合が懸念されたことから、結局この話が実現することはなかった。さらにこの頃、連合国の1国として関東地域の占領業務にあたっていたアメリカ軍の将校などが横田基地のエプロンや滑走路でジムカーナなどを開催し始めると、日本における自動車レースの活動の中心がそれらに移ることとなる。このような形で利用者も減り、さらに戦後周辺地域に住人が増えてきたこともあり騒音問題が取りだたされるようになり、また公営競技場としての建設計画もなくなったこともあり間もなく廃止されることとなった。サーキットとして廃止された正確な時期は不明である。なおその後1962年に、第1回全国自動車競走大会にも出走した本田宗一郎が三重県鈴鹿市に鈴鹿サーキットをオープンしたが、それまでの間は日本国内に自動車が使用できるサーキットは存在しなくなってしまう。なお鈴鹿サーキットのオープン後には、静岡県に富士スピードウェイがオープンしている。跡地の中央には日本ハム球団多摩川グランドが造成されたが、メインスタンドは多摩川の土手にコンクリートで直接造られたこともあり、現在も護岸のような形で座席の跡や階段が現存する。トラックは最後まで舗装されずダートであったため、現在もコーナーの様子などが野球グランドの敷地の隙間などで線形を伺うことができる。2016年5月、開設80周年を記念するプレートが現地の観客席跡地に設置された。
出典:wikipedia
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