カール・ハプスブルク=ロートリンゲン(Karl Habsburg-Lothringen, 1961年1月11日 - )は、元オーストリア皇太子オットー・フォン・ハプスブルクの長男。ハプスブルク=ロートリンゲン家の現家長。母はザクセン=マイニンゲン公家の公女レギーナ。全名はKarl Thomas Robert Maria Franziskus Georg Bahnam von Habsburg-Lothringen。ただし現在のオーストリアでは、ハプスブルク家を含めて貴族の称号を「フォン」の名乗りに至るまで一切認めていないため、「カール・ハプスブルク」または「カール・ハプスブルク=ロートリンゲン」が法律上の名前となる。1981年からザルツブルクに在住している。父オットーはドイツ選出の欧州議会議員であったが(1999年まで)、カールは1996年にオーストリアで欧州議会議員に選ばれた(オーストリア国民党所属。任期は1999年まで)。旧オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子オットー・フォン・ハプスブルクの長男として1961年1月11日に誕生した。同年7月、父オットーはオーストリア入国のために帝位請求権を放棄すると宣言した。生後間もないカールは、この際にハプスブルク家の領地に対する個人的請求権をオットーから移譲されている。1993年2月、フランツェスカ・ティッセン=ボルネミッサとマリアツェルの教会で結婚式を挙げた。花嫁の父ハンス・ハインリヒ・ティッセン=ボルネミッサ男爵は世界で最も裕福な者のひとりに挙げられる人物であり、ハンガリーの貴族さながらの華やかな恰好だった。これに対してハプスブルク家の人々はみな質素な恰好であった。結婚式の後、カールは長いインタビューの中で、ハプスブルク家には金がなく、生活のために働かねばならなかったことを明らかにした。皇室財産を没収された祖父カール1世は貧困に苦しみ、医者の診察もろくに受けられぬまま没した。財産は一時期オットーに返還されたものの、ナチス・ドイツに接収されてから今日まで戻ってきていない。このような状況下で、ハプスブルク家の人々は質素な恰好で参列せざるを得なかったのである。父オットーは高齢を理由として2007年に家長の座をカールに譲っている。オットーが2011年に死んだことにより、カールがオーストリア皇帝、ハンガリー国王などの君主位の請求者となっている。父オットーと同様に、汎ヨーロッパ主義の政治家として活動している。2014年4月にはヨーロッパ連合加盟を支援するためにセルビアを訪れ、大統領や首相、アレクサンダル王太子などと会見した。「第一次世界大戦の開戦責任をセルビアに負わせることはできません。特定の国や個人の責任ではなく、サラエボ事件が起こらなくても、ヨーロッパのどこか別の場所で事件が起こり世界大戦となったでしょう。」と持論を述べ、またセルビア抜きではEUは未完成だと語っている。君主制復活への希望をなお抱いているか、と質問されたカールは、慎重に言葉を選びながらこう答えている。また、2013年にスロバキアのメディアからのインタビューに応じた際には、ドナウ川の流域諸国で君主制が復活すると思うか、と尋ねられ、「100年前、この地域は一つの君主でまとまっていて、誰も数年でバラバラになるとは思っていなかった。だから、未来がどうなるかはわからない。」と答えている。帝位継承権を放棄することによってオーストリア政府から入国を認められている立場であるため、明確に帝位を要求することはしていない(要求すればオーストリアに入国できなくなる恐れがあるため)ものの、将来的には変化がありうることを示唆する発言をたびたび行っている。妻フランツェスカ・ティッセン=ボルネミッサとの間に1男2女をもうけているが、結婚生活が破綻したため双方合意の上、2003年から別居生活を送っている。フランツェスカは王家や旧王家、あるいはそれに準じる古い大貴族の出身ではなく新興の男爵家の娘であり、かつてのハプスブルク家家法の基準では貴賤結婚に相当する結婚であった。しかし、父オットーが一族の中で同意を得て1980年代に基準を緩和していたことから、1993年にカールとフランツェスカが結婚した際にも、フランツェスカや子供たちの権利が制限されることはなかった。そのため、長男はハプスブルク=ロートリンゲン家家長の法定推定相続人である。
出典:wikipedia
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