攝津 正(せっつ ただし、1982年6月1日 - )は、福岡ソフトバンクホークスに所属するプロ野球選手(投手)。「攝」が旧字のため、報道では新字を使った「摂津」という表記も使用される。秋田経済法科大学附属高校では1年夏からベンチ入りし、3年時の2000年にはセンバツに出場(チームメートには加藤光教がいた)。高校卒業後は父親と同じくJR東日本に入社し、東北硬式野球部に所属。3年目から登板機会を増やし日本選手権東北二次予選では最優秀選手賞を受賞した。2004年からチームのエースとして活躍。都市対抗野球初登板となった1回戦の日本通運戦では8回二死まで投げて2失点と好投し東京ドーム初勝利を挙げている。社会人7年目を迎えた2007年春先から好調を維持し、都市対抗東北二次予選で4試合に登板し防御率0.89を記録した。同年9月には第37回IBAFワールドカップ台湾大会の日本代表候補選手選考合宿が行われJR東北が練習相手を務め攝津が登板し3回無安打無失点と抑える、予選リーグの第1戦の南アフリカ戦に先発し8回まで7者連続を含む17奪三振を記録し勝ち投手に、第4戦のパナマ戦、準々決勝のオーストラリア戦、3位決定戦のオランダ戦にも先発で登板し4戦全勝、28回2/3を投げて自責点1(防御率0.31)、奪三振36という好成績で銅メダル獲得に貢献。同大会優秀投手(右投手部門)に選出。社会人最後のシーズンとなった2008年初優勝した東北大会では3試合完投(うち2試合は完封)してMVPを獲得した。同年7月4日、第79回都市対抗野球の東北第2代表決定試合(TDK戦)に先発。野田正義との投げ合いは延長16回2-2の引き分けで翌日再試合となったが、攝津はその再試合にも中盤からリリーフ登板し、最後まで投げきった。2日間で25回350球を投げた。都市対抗野球大会に7度(補強含む)出場。2008年度プロ野球ドラフト会議において、福岡ソフトバンクホークスから5位で指名され入団。担当スカウトは作山和英。オープン戦の好成績が評価され開幕1軍入り。5月8日の対西武戦で、中継ぎとして1回1/3を無失点に抑えプロ初勝利。ゲーム終盤で攝津、ブライアン・ファルケンボーグ、馬原孝浩の継投で逃げ切る勝ちパターンが確立し、勝利の方程式「SBM」と命名された。オールスターではファン投票中継ぎ部門から新人でただ一人選出され、緊張のあまり整列時のハイタッチを忘れる一幕もあった。第2戦で登板する予定だったが、第1戦で1点リードの8回一死二、三塁の場面で緊急登板し、無失点に抑えた。9月15日、登板63試合で藤岡好明の持つパ新人最多登板記録(62試合)を更新。前日は発熱で試合を欠場していたが、無死満塁のピンチを併殺と三振で切って取った。9月17日には33ホールドを記録し球団記録を更新。10月11日のシーズン最終戦で70試合登板に到達し、1959年の杉浦忠、2000年の吉田修司の69試合を上回って球団新記録を樹立した。林安夫の新人最多登板(71試合)には届かなかったが、70試合は同年のリーグ最多登板で、39ホールドポイントで最優秀中継ぎ投手と新人王のタイトルを獲得した。オフには球団から背番号を篠原貴行の付けていた16に変更するという打診があったが、「50の攝津で覚えられた」と攝津はこれを固辞。年俸は3800万円アップの5000万円で一発更改した。前年の疲労や2年目のジンクスが心配されていたが開幕からSBMの一員として盤石の地位を確立。しかし、チーム事情から前年以上の登板過多に悩まされるようになる。5月中旬に甲藤啓介が方程式に加わりSBM48が確立。中盤から終盤には森福允彦、オリックスから移籍してきた金澤健人も安定した投球をみせ、ホークスの中継ぎ陣の防御率は12球団唯一の2点台(2.84)であった。攝津はその筆頭格として71試合に登板し、稲尾和久以来となる2年連続70試合登板を達成した。オフの契約更改では年俸1億円を提示されるも、「3年やって一人前の世界」として9500万円で契約した。3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震で自身が8年間在籍していたJR東日本東北硬式野球部が被災した際には、義援金を送り、後日見舞いにも行った。シーズンでは前述の2年連続70試合登板の勤続疲労が心配され、本人の意向や右の先発の柱が不在のチーム事情もあり先発に転向。オープン戦や練習試合など、対外試合31イニングで1失点という形で開幕を迎えた。プロ初先発となった4月16日の対西武戦では打ち込まれたものの、2回目の先発となった24日熊本の藤崎台県営野球場での対ロッテ戦で8回、103球を投げ3失点で初勝利を挙げた。その後は交流戦で初完投・初完封を達成するなど中継ぎ時代からの安定感は健在で、14勝を挙げ優勝に貢献した。CS第二ステージでは第二戦に先発し勝利した。このとき第六戦までもつれればリリーフ待機する予定であったが、結果的に三戦で決着がつき中継ぎ登板は無かった。日本シリーズでは3戦目に先発し7回1失点で勝ち投手になり、5戦目、7戦目は中継ぎで登板し1回1/3を無失点で抑え日本一に貢献した。年俸は1億9000万円と倍増した。春季キャンプ開始直後に秋山監督から開幕投手に指名されキャンプ・オープン戦でも好調を維持した。開幕10日前に背中の張りを訴え一時は登板回避も考えられたが、無事に回復して開幕戦に先発し勝利投手となった。その後はソフトバンクの新エースとして躍動。地元秋田こまちスタジアムで行われた8月1日の楽天戦では完封勝利。8月1日の楽天戦から9月30日の日本ハム戦まで8連勝。両リーグ最多となる17勝を挙げ、最多勝・最高勝率・沢村栄治賞のタイトルを手中に収めた。沢村賞歴代受賞者としては過去最少の完投数である。また、プロ野球史上初となる最優秀中継ぎ投手と沢村賞を持つタイトルホルダーとなった。オフの12月4日に、第3回WBC日本代表候補選手34人が発表され候補入りした。また契約更改では、プロ入り5年目では最多年俸となる1億円増の2億9000万円でサインした。2月20日に、第3回WBC日本代表選手28人が発表され代表入りした。シーズンでは、2年連続で開幕投手を務め、6回1失点で勝利投手となる。交流戦に入ってからはやや調子を落とすものの、それ以降は安定したピッチングを続け、7月27日には日本ハムを相手に完封勝利。この時点で3年連続となる二桁勝利を達成した。夏場以降も、先発投手陣が軒並みノックアウトする中でただ1人力投を続け、9月6日のオリックス戦では2年連続となる15勝目をマーク。しかしそれ以降は疲労の影響で打ち込まれる試合が目立ち、勝ち星を伸ばすことは出来なかった。最終的に防御率は自己ワーストの3.05、投球回数も先発転向後最少となる162回1/3にとどまったが、勝利数ではリーグ2位タイの好成績を収めた。契約更改では、球界最速の6年目で年俸4億円に到達した。オフに一般女性と結婚。この年も開幕投手を務め、7回途中4失点自責点3で、球団史上初の3年連続開幕戦勝利投手となるも、1年を通して不安定な投球が続き、5月には右肩の筋疲労で登録抹消。最終的に4年連続となる二桁勝利こそ達成したものの、防御率、与四球、奪三振のいずれも自己ワーストとなり、規定投球回にも未達となった。特にシーズン終盤は大量失点が続き、CSでもファイナルステージ第3戦に先発したが、陽岱鋼の2打席連続を含む3本塁打を浴びるなど2回7失点。一方、日本シリーズでは最終戦となった第5戦に先発し、6回無失点と好投した。オフには現状維持の年俸4億円で契約更改。4年連続の開幕投手となり、8回2失点自責点0と好投したが、味方打線の援護に恵まれず敗戦投手となった。その後の前半戦は、前年同様に安定せず、開幕から12試合で4失点以上を7度も記録。特に被本塁打は、6月12日時点で自己ワーストの12本を記録するなど大幅に増えた。同日の広島戦で、6回5失点で敗戦投手となったことで二軍降格。成績不振による登録抹消はプロ入り初となった。約1か月二軍で調整(この間、打撃投手も経験した)した後、オールスター明けの7月21日のロッテ戦で一軍復帰。以降は安定感を取り戻し、順調に白星を重ね、9月10日の日本ハム戦で10勝目を上げたことで、5年連続二桁勝利を達成。これ以降は勝ち星を伸ばすことは出来なかったが、最終的に防御率などは前年より改善された。シーズン中に国内FA権を取得したが、行使せずに複数年契約を締結したことをオフに発表した。オープン戦の成績は他のローテーション投手より劣っていたものの、過去の開幕戦の相性の良さを買われ5年連続の開幕投手を務める。しかし、3回6失点(自責5)と打ち込まれた。4月1日の日本ハム戦では初回に中田翔に3ランを浴びたが7回を3失点とゲームを作った。しかし3回目の登板となった4月7日のロッテ戦で5回途中7失点の大炎上、試合は合計17失点となり、2002年ダイエー時代以来の不名誉記録となった。この試合終了時点で防御率9.42、WHIP1.98となり、試合終了後二軍落ちとなった。フォームはオーソドックスなオーバースローだったが現在はテークバックの小さなコンパクトなフォーム。平均球速約139km/h、最速148km/hのストレートと緩急2種類のシンカー、スライダー、カーブを投げ分ける。意表をついて内角を狙うストレートをカウントアップ自己ベスト886点というダーツの腕前を生かした制球力で投げ分け、打者を打ち取っていく。シンカーは三振を奪う際やカウントを取る際など状況に応じて変化を変えており、2009年は投球の76パーセントが低めに集まっていた。リリーフとして起用された2009年から2010年にかけては、平均球速142km/hを記録したストレートで4球に1回近い割合で空振りを取り、リリーフでの奪三振率は10.61を記録した。先発として起用されるようになった2011年からの通算与四球率2.06の制球力を誇る。コーナーをつく投球のためリリーフとして起用された2010年までは与四球率3.11と四球が少なくなかったが、逆球率は5パーセント弱と低かった。選手からも制球力の評価が高く、今江敏晃は「攝津さんってコントロールムチャクチャいいんですよ。テンポもいいしテークバックが極端に小さいからタイミングが取りづらい。」と話し、ブライアン・ファルケンボーグやD.J.ホールトンからも高く評価され、2011年のすぽるとで放送された、プロ野球選手100人が選んだ「この選手がすごい!コントロール部門」では3位に選ばれた。その制球力を理由にソフトバンク球団会長の王貞治をして「メジャーでも即通用する投手」として名を挙げられた。山田大樹は攝津のシンカーの握りをまねし、落ちる球をマスターしている。登板した際は、投球練習を終えた後、センター方向の旗を見て小さく数回ジャンプするという行動を行っている。本人曰く「気持ちをリセットして、さあやるぞっていう自分への合図みたいなもの」だという。社会人時代4年目に無駄な動きを極力なくした投球フォームに改造し、これが現在のテークバックの小さいフォームの基礎になっている。愛称は「セッツ様」、「せっつん」など。基本的に無口であり、勝利のヒーローインタビューでもアナウンサーから問われたこと以外を自分から話し出すことはほとんどない。「平常心」が座右の銘であり、ピンチにも動じない投球を見せる。趣味は魚釣り。幼い頃より現在も続けており、その知識・腕前は相当なもの。サッカーJ2モンテディオ山形の摂津颯登とは血縁関係がある((颯登から見て)「父方の祖父のいとこの孫」)。
出典:wikipedia
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