雀神社(すずめじんじゃ)とは、茨城県古河市宮前町(厩町)にある神社。社名の「雀」は「鎮め」(しずめ)が変化したものとされる。旧古河町の総鎮守である。かつては茨城県西部の猿島郡で唯一の郷社であった。主神は大己貴命、他に、少彦名命と事代主命が配祀されている。社伝によれば、崇神天皇の御代に豊城入彦命が東国鎮護のために勧請した「鎮社(しずめのやしろ)」に始まるとされる。一方、清和天皇の貞観年間(859年~877年)に出雲国出雲大社の分霊を祀ったことに始まるとする伝承もある。室町時代・戦国時代には、足利成氏ら歴代古河公方家の崇敬を受けた。長禄元年(1457年)に成氏が参拝し、「天下泰平国土安穏」を祈願したと伝えられている。弘治2年(1556年)、第3代足利晴氏室の芳春院と思われる「御台様」が鰐口を寄進している。(『古河志』) 天正19年(1591年)には、第5代足利義氏の娘であり、古河足利家を継承していた氏姫が、市内駒崎の田地を寄進している。(『喜連川文書』) 江戸時代も引き続き歴代古河城主に崇敬されており、現在の社殿は慶長10年(1605年)に松平康長が造営したものである。その前は古河城桜町曲輪の茂平河岸のほとりにあり(『古河志』)、かつての別当寺だった神宮寺と並び建っていたと考えられている が、康長による城の拡張に伴い現在地に移転した。 慶安元年(1648年)には、幕府から15石の朱印地が寄進されている。明治 5年(1872年)、猿島郡・西葛飾郡の郷社に指定された。1912年(明治45年)、渡良瀬川の改修工事のため、古河の北西端にある悪戸新田 が河川敷に変わることになり、この地域の氏神だった第六天神社が合祀された。 1953年(昭和28年)の河川改修工事では、境内地が縮小され、社殿も約50m東に移転している。1月1日に元旦祭、2月に節分祭、4月8日に春祭り、8月1日に例大祭(夏祭り)、11月8日に秋祭りが行われる。春祭りには無病息災・五穀豊穣・家内安全・国家安泰を祈願し、神楽殿にて磐戸神楽が演じられる。夏祭りには悪疫退散のため、悪戸新田に伝わる獅子舞(ササラ)が奉納されている。。本神社は旧古河町の総鎮守であり、下記区域を氏子とする。石町、紺屋町、二丁目、鍛冶町、北新町、八幡町、七軒町、一丁目、南新町、田町、大工町、台町、横山町、江戸町、船戸町、白壁町、仲ノ町、観音寺町、東片町、西片町、鳥見町、東杉並町、西杉並町、東代官町、西代官町、四丁町、天神町、厩町、桜町、三神町、長谷町、東鷹匠町、西鷹匠町、表新町、裏新町、雷電一丁目、雷二、末広町、雷前、原町、松原町、下山一丁目、下山二丁目、下三、昭和町、中横、三丁目、四丁目、五丁目、旭町、三杉町、静町、住吉町、常盤台、平和台 流造銅板葺の本殿等、慶長10年(1605年)造営の社殿は市の指定文化財になっている。(後述)境内社には、三峰神社、第六天宮、香取神社、松尾神社、楯縫神社がある。このうち第六天宮は悪戸新田から遷座し、楯縫神社に合祀されたものである。 松尾神社は町内の酒造業者、楯縫神社は手工業者により信仰されてきた。渡良瀬遊水地に隣接しており、境内からの階段を登って渡良瀬川の堤防に立つと目前に広がっている。手前に見えるゴルフ場(古河ゴルフリンクス)は悪戸新田の跡地であり、ゴルフ場の向こうには、同様に廃村となった谷中村跡地の谷中湖が垣間見える。好天時には遠景として、男体山・女峰山をはじめとする日光連山、その左側には赤城山・榛名山が見える。空気が澄んでいるときには、さらに遠くの富士山が見えることもある。堤防上には、古河(許我)の名前が織り込まれた万葉歌碑が立てられている。また同じ堤防上には、隣接するゴルフ場クラブハウス前に「田中正造遺徳の碑」も立てられている。所在地交通
出典:wikipedia
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