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ジョー・バイデン

ジョセフ・ロビネット “ジョー” バイデン・ジュニア(Joseph Robinette "Joe" Biden, Jr., 1942年11月20日 - 、発音/'dʒoʊsəf rɒbɪ'nɛt 'baɪdən/)は、アメリカの政治家。アメリカ合衆国第47代副大統領(2009年 -)。デラウェア大学、シラキューズ大学ロースクール卒業。連邦上院議員(デラウェア州選出、1973年 - 2009年1月15日)。所属政党は民主党。アイルランド系移民の子孫であり、ローマ・カトリック信徒。妻はジル・バイデン、長男はデラウェア州司法長官を2期務め2015年5月30日に死去したボー・バイデン。民主党中道派を代表する大物政治家として知られ、上院議員としては当選回数7回・議員生活36年を誇ったベテランである。上院議員時代には、司法委員長(1987年 - 1995年)や外交委員長(2001年 - 2003年,2007年 - 2009年1月3日,2009年1月3日 - 1月20日)を歴任するなど、まさしく上院民主党の“重鎮”として重きをなした。2008年アメリカ合衆国大統領選挙では、民主党バラク・オバマ候補の副大統領候補に指名され、同年11月4日(現地時間)の投開票においてオバマ候補が当選したことに伴って第47代副大統領に決定、2009年1月20日(現地時間)に正式に就任した。この就任に伴い、アメリカ建国以来初のローマ・カトリック教徒の副大統領になると共に、初のデラウェア州出身の副大統領ともなった。1942年11月20日、ペンシルベニア州スクラントンで、父ジョセフ・バイデン・シニアと母キャスリーンの間に、4人兄弟の長男として生まれた。父親のジョセフ・バイデン・シニアは、20代の頃はヨットや狩猟、自動車などの趣味に熱中するなど、非常に裕福な生活を送っていた。しかし、長男であるジョーが生まれた頃には、彼は数件の事業に失敗し、そのためにジョーの母方の祖父母にあたるフィネガン夫妻と数年にわたって同居しなければならなくなるなど、バイデン一家は苦しい生活を送っていた。その後、1950年代の経済低迷の中で、父ジョセフ・シニアも生計を立てていくだけの十分な仕事が得られなくなってしまったことから、10歳の頃にデラウェア州クレイモントに引っ越し、その後さらに父親が勤めていた冷暖房用ボイラー清掃会社のあるデラウェア州ニューキャッスル郡のウィルミントンへ引っ越し、以後高校卒業までこの地で過ごす。ウィルミントンは、後にバイデンが弁護士として初めて開業した地であり、現在に至るまで自宅を構えている地でもある。ちなみにこの前後、フルートを愛好していたことから、"fleet flutin joe"というあだ名が付いていたという。その後ジョセフ・シニアは中古車のセールスマンの職を得て、バイデン一家は中産階級家庭として安定した生活を送ることになる。バイデンはクレイモントにあるカトリック系の私立学校、アーキメア・アカデミーへ入学し、1961年の卒業までこの学校で過ごした。在学中はフットボールと野球に熱中し、特にフットボールにおいては、高校のフットボールチームに所属し、ハーフバック(ランニングバックの一種。)やワイドレシーバーのポジションで活躍、長年にわたって敗北続きだったチームを最終学年時にはシーズン無敗を達成するまでの強豪チームに成長させた一翼を担った。また、政治活動についても、ウィルミントンの劇場で行われた人種差別に反対する座り込み活動に参加するなど、積極的に取り組んだ。学業に関しては平凡で目立たない生徒であったものの、バイデンはリーダーシップを発揮する生徒であったという。1961年にアーキメア・アカデミーを卒業した後、ニューアークにあるデラウェア大学に進学し、歴史学と政治学を専攻した。当初はアーキメア・アカデミー時代と同様にフットボールに熱中、デラウェア大のチームであるデラウェア・ファイティンブルー・ヘンズに所属し、最初は新入生チームにおいてハーフバックとしてプレーしていた。しかし大学3年の時に、デラウェア州外に住む恋人と過ごす時間を確保するために、大学代表チームでディフェンシブバックとしてプレーする計画を諦めざるを得なくなった。このように、スポーツや友人・恋人との交際に熱中していたためか、学業の成績はあまり優れず、専攻していた歴史学と政治学において学士号を取得し、1965年に卒業したものの、688人中506番目というあまり良くない成績で卒業することになった。しかし友人たちは、むしろバイデンの詰め込み勉強の才能に驚かされたという。その後、シラキューズ大学のロースクールに進学。在学中は、1年目に法律評論誌の記事(全15ページ)から5ページにわたって論文を盗用したとして、学校から処分を受けたことがある。この事件についてバイデンは、「引用についての正確なルールを知らなかったことによる不注意で起こしてしまったものだ」として、悪意があったことを否定している。1968年に法務博士号を取得、卒業した後、翌1969年にはデラウェア州弁護士会へ加入し、ウィルミントンで弁護士として開業した。ロースクール在学中の1966年、彼は最初の妻であるネイリア・ハンターと出会い、結婚する。ネイリアとの間には2男1女(ジョセフ3世(愛称:ボー)、ロバート、ナオミ)をもうけた。ベトナム戦争の最中、バイデンは大学在学中の1963年からロースクール在学中の1968年までの間、少年時代の喘息の病歴を理由に5回の徴兵猶予を受けていた。このためベトナム戦争には従軍していなかった。幼少期から吃音に苦しみ、その克服に20代前半まで要した。鏡の前で詩の朗読を続けていた。また、近親者がアルコール中毒で苦しんでいたことから禁酒家となった。1969年の弁護士活動開始後まもなく、バイデンはニューキャッスル郡の郡議会議員に選ばれ、1970年から1972年まで同職を務めた。その後、1972年の上院議員選挙に民主党から出馬する。この時現職だった共和党のJ. カレブ・ボッグス議員は、著名な議員の1人であったが、ボッグス議員は政界引退を考えていた。しかしながら、共和党内でボッグスの後継をめぐって、デラウェア州選出の下院議員だったピエール・S・デュポン4世(のちデラウェア州知事)と、ウィルミントン市長であったハリー・G・ハスケル・ジュニアが対立し、共和党陣営内での分裂が生じた。この打開策として、リチャード・ニクソン大統領は、ボッグスにもう1期出馬するよう要請、共和党が全面的に支援することを約束したため、ボッグスもこれを受諾した。しかしながら、最終的にはバイデンがボッグスを破って勝利を収めた。連邦上院議員では建国以来5番目の若さでの当選となった。しかし上院議員に当選直後、1972年12月18日、妻のネイリアはクリスマスの買い物をするために、3人の子供たちを連れてデラウェア州ホケッシンに車で出かけていたのだが、ネイリアの運転するステーションワゴンが、交差点でトレーラーに追突され、ネイリアとまだ幼かったナオミが死亡、ボーとロバートは生き残ったものの、瀕死の重傷を負う。この事故に関しては、追突した側のトレーラーの運転手には過失がないことが解っている。バイデンは、一度は息子たちの看病・世話を理由に議員職を辞退しようとしたが、当時民主党の上院院内総務であったマイケル・マンスフィールドから辞退を思い留まるよう説得を受け、議員に就任することを決意、1973年1月から他の議員と同様に通常どおり登院し、議員活動を開始した。この時、バイデンは30歳で、30歳での上院議員は、アメリカ史上5番目の若さだった。通常、議員になるとワシントンD.C.に居住する議員が多い中で、彼は息子たちのために、毎日片道1時間半かけてウィルミントン郊外の自宅とワシントンD.C.を電車通勤した。1974年、バイデンはタイム誌の「200 Faces for the Future」の1人に選ばれるなど、議会の内外で活躍の場を広げ、知名度を高めていった。また、私生活においても、1977年に2人目の妻ジル・トレイシー・ジェイコブスと結婚し、1女(アシュリー)を儲けた。以後バイデンは、順調に政治活動を展開していく。1978年の選挙では、ジェームズ・H・バクスター・ジュニアを破り再選を、1984年の選挙ではジョン・M・バリスを破り3選を果たすなど、ベテラン議員への仲間入りを果たしていく。その後も1987年には初めて常任委員会の委員長に就任(司法委員長、1995年まで務めた)をしたり、大統領候補に名乗りをあげるなど、精力的に活動を行っていく。しかし、この時は英労働党党首の演説内容を盗用した疑いが持ち上がり撤退に追い込まれた。しかし、1988年2月、45歳の時、バイデンは首の痛みに悩まされた末にウォルター・リード陸軍病院に入院し、手術を受けた。脳動脈瘤が破裂したのが原因であり、この時バイデンは一時危篤状態に陥るなど、生死の境をさまよった。さらに、同年5月には2度目の脳動脈瘤の手術を受けるなど、バイデンはもはや議員活動の継続も危ぶまれた。しかし、バイデンは懸命のリハビリを続け、入院からわずか7ヶ月で復帰した。病気から復帰後、バイデンは再び上院議員として活躍、2008年時点では6回連続当選・在職36年目を誇る、押しも押されもせぬ上院民主党の重鎮となっている。ちなみに彼は、故郷デラウェア州の歴史上、最も長く在職した上院議員となっている。しかし、これほど多くの連続当選と長い在職期間を誇りながら、彼がデラウェア州の先任上院議員(アメリカではSenior Senatorと呼ばれている。各州2名の上院議員のうち、それまで連続して当選しており、より任期の長い議員が先任上院議員となる。)となったのは2000年のことであり、かなり遅いと言える。これは、バイデンの2年先輩にあたる共和党のウィリアム・ヴィクター・ロス・ジュニア上院議員 (William Victor Roth Jr.) が、1971年の初登院以来、2000年の選挙で民主党のトーマス・リチャード・カーパー州知事(Thomas Richard Carper)に敗れて引退するまで、約30年にわたって議席を維持したためである。2001年から外交委員会の委員長を務めた際には、2002年10月のイラクに対する武力行使容認決議案など、後にアメリカ外交を左右することになる重要な局面に立ち会った。その後、2002年の中間選挙で民主党が少数党に転落したため、新しい連邦議会が招集された2003年1月3日付で外交委員長職を離れ、今度は民主党の幹事として党運営・議会運営に携わった。また、2004年の大統領選挙への出馬にも意欲を見せたが、最終的に断念した。その後、2006年11月の中間選挙で民主党が多数党に返り咲いてからは、2007年1月4日より2度目の外交委員長職を務めている。また同時に、司法委員会に連なる犯罪および麻薬に関する小委員会の委員長を務めている。特に外交委員会では、同委員会のリーダーとして、また外交通として、積極的な発言を行った。また、上院本会議においても、行き詰まりを見せていたイラク政策に関連して、2007年9月26日に共和党のサム・ブラウンバック上院議員と共に、法的拘束力のない「イラク分割決議」を75対23で成立させた。2008年には、自身2度目の大統領選挙となる2008年アメリカ合衆国大統領選挙に挑戦するが、バラク・オバマ候補とヒラリー・クリントン候補の二強が他を突き放す形勢となり、1月3日に撤退。しかし、8月23日に大統領候補の指名を確実にしたオバマから副大統領候補指名の意向が発表され、これを受諾、その後8月27日にコロラド州デンバーで開催された民主党全国大会で、オバマと共に正式に、民主党の正副大統領候補に指名された。オバマの副大統領候補としてメディアから有力視されていたのは、オバマの最大の対抗馬であったヒラリー・クリントンであった。激しい予備選の過程でオバマとクリントンの支持者同士の感情が険悪化しており、党内融和のためにもオバマ-クリントンの「ドリームチケット」が期待されていた。そのため、バイデンが選ばれた事に関しては、少なからず驚きの声があった。この選択理由としては、次のような点が評価されたためと言われている。しかし、共和党のジョン・マケイン候補がサラ・ペイリンを副大統領候補に抜擢したことと比較され、地味な選択とみられた。また、バイデンは予備選でオバマ候補の経験不足を指摘していたため、指名受諾後にはその点を共和党側より批判された。本選挙の選挙戦では、オバマが攻撃的な発言を抑制するかたわらバイデンはマケインへの激しい批判を展開した。ペイリンとの副大統領候補討論会後の世論調査では「討論はバイデンの勝利」と答えた者が多数を占めたものの、好感度の面ではペイリンに軍配を上げる者が多かった。2008年11月4日(現地時間)に行われた大統領選挙の投開票において、オバマが第44代合衆国大統領に当選したことに伴い、自身も第47代合衆国副大統領に当選が確定した。ちなみにバイデンは、大統領選挙での敗北も想定した上で、大統領選挙と同日投票となった上院議員選挙にも出馬していた。この選挙では選挙区全体の65%の票(25万7,484票)を獲得し、対立候補であった共和党のクリスティン・オドネルに大差を付ける形で、自身7回目となる上院議員当選を果たした。その上で2009年1月3日に開会した第111期連邦議会では、1月15日まで上院議員職に留まり、同日辞職した。なお、自身が務めていた上院外交委員長職については、新しい議会の招集を契機に1月3日付で辞職した。外交委員長としての最後の仕事となったのは、1月の第2週目に行ったイラク、アフガニスタン、パキスタンの3カ国歴訪・首脳会談であった。バイデンの議席は、長年にわたって彼のアドバイザーを務めていたテッド・カウフマンに、外交委員長のポストは、2004年大統領選挙において民主党の大統領候補だったジョン・ケリー上院議員に引き継がれた。2009年1月20日、バラク・オバマの第44代合衆国大統領就任に伴い、自身も第47代副大統領に正式に就任した。連邦議会議事堂(キャピトル・ヒル)で開催されたオバマの就任式には、セカンドレディとなった妻のジルと共に出席し、オバマに先だって、ジョン・ポール・スティーブンズ連邦最高裁判事の立ち会いの下、就任宣誓を行った。また、自身のスタッフ選任も進めている。首席補佐官には民主党のベテラン弁護士であるロン・クラインを、広報部長にはタイムのワシントンD.C.支局長であるジェイ・カーニーを任命した。バイデンは、前任者であるディック・チェイニーが従来の副大統領とは異なり、政策決定や実務などブッシュ大統領の政権運営において、かなり深い部分まで関わっていたのに対して、「自らは(チェイニー 前・副大統領のように)大統領の政策決定などに深く関わることはしない」という旨を言及している。その一方で、「オバマ大統領が重大な決断を下す際には、その全てにおいてアドバイスや助言を行う」としている。サンディフック小学校銃乱射事件を受けて設立した銃規制の強化を検討するための特別チームのトップになった。バイデンは前述のようにアイルランド系移民の子孫であり、バイデン家自体はロンドンデリーに起源を持つ家系である。前述のように4人兄弟の長男として生まれ、弟が2人と妹が1人がいる。また、最初の妻ネイリアとの間に2男1女、2番目の妻ジルとの間に1女を儲けている。彼の主な家族・祖先は以下の通り。自身が最も得意とする外交分野においては、様々な発言や政策提言を行っている他、各国を訪問するなど行動派の一面も見せている。彼は国際自由主義(リベラル・インターナショナリズム)の信奉者であり、彼の外交政策スタンスにも反映されている。上院においては、同じくリベラル・インターナショナリズムを掲げる共和党の重鎮、リチャード・ルーガー・ジェシー・ヘルムズ両上院議員(ヘルムズは故人)と投票行動を共にすることが多く、そのため時とて、彼の出身政党である民主党の方針に反することもしばしばあった。バイデンを一躍有名にしたのは1979年、第二次戦略兵器制限交渉(SALT II)をめぐる一連の活動である。SALT IIは1979年、オーストリアのウィーンにおいて、ジミー・カーター米大統領とソ連の最高指導者、レオニード・ブレジネフ書記長の間で調印され、後は連邦議会の承認・批准を待つのみとなっていた。しかし、原案では批准に必要な議員数の2/3以上の賛成を得ることは厳しい情勢であり、上院執行部は対応に苦慮、修正案を加えることで賛成を得られる見込みがたったものの、修正案追加には相手国であるソ連の承認が必要であった。そこで執行部は、当時2期目の若手上院議員の1人であり、ちょうど所用でモスクワに向かうことになっていたバイデンに、当時のソ連外相であるアンドレイ・グロムイコと交渉し、修正案追加の承諾を得てくるという重大な任務を託したのである。この当時、グロムイコはその強硬な交渉姿勢から「ミスター・ニエット」(“ニエット”はロシア語で“NO”を意味する)の異名を取るなど、百戦錬磨の外交官として恐れられており、若手議員のバイデンにとってこの任務は大変な重責であった。しかし最終的に、彼は“ミスター・ニエット”グロムイコに修正案追加を認めさせることに成功したのである。結局SALT IIは、同年末から開始されたソ連のアフガニスタン侵攻が原因で連邦議会の批准拒否を受け、1985年に期限切れを迎えてしまったものの、アフガニスタン侵攻がなければ、最大の難関であった上院外交委員会での承認は確実だった。言い換えれば、それほどの“大金星”だったのである。この成功はその後、交渉術などさまざまな分野の書籍でも取り上げられている。バイデンは、バルカン半島、特にコソヴォにおける紛争問題にも積極的に取り組み、1990年代に同紛争が国際的な注目を集め、ビル・クリントン大統領の政策にも影響を与えるよう尽力したことで知られている。彼は紛争地域を繰り返し訪問する一方で、コソヴォ紛争当時のユーゴスラビア大統領であり、セルビア人勢力の代表でもあったスロボダン・ミロシェヴィッチと深夜に極秘会談を行い事態打開を図ろうとするなど、同紛争解決に向けて奔走した。コソヴォ紛争におけるNATO軍の直接介入の決定には、過去のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争での経験が関わっている。コソヴォ紛争のおよそ5年前に発生したボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のさなかにあった1993年頃、交渉による事態打開が難しい情勢になると、ムスリム人主導のボスニア・ヘルツェゴビナ政府への武器禁輸解除や戦争犯罪の調査、NATO軍による空爆の実施などを主とする積極的な介入を政府に訴えるようになる。この時の提言は、クリントン大統領が1999年のコソヴォ危機に際してに実行されたアライド・フォース作戦など、主にセルビア人勢力によるアルバニア系住民への組織的人権侵害に対する武力制裁・介入を容認する上で、重要なきっかけとなった。また、コソヴォ危機時には、セルビアに対するアメリカの直接攻撃を擁護する姿勢を表明し、これに賛同する共和党議員と協力して、セルビアに対して「必要なあらゆる武力」を行使する権限をクリントン大統領に与えるとする、「マケイン=バイデン・コソヴォ決議」を成立させた。バイデン自身は、大統領選挙運動用に刊行された自伝の中において、この時の活動を「海外政策において最も誇りに思う実績」だと書いている。バイデンとイラクとの関わりは、1991年に湾岸戦争における対イラク武力行使に反対したことが最初である。2003年から始まったイラク戦争においては、ジョージ・ウォーカー・ブッシュ政権が武力行使を表明した際には、これを容認する姿勢を示し、前述の「イラクに対する武力行使容認決議」にも賛成票を投じている。しかしながら、ブッシュ政権が目指したサッダーム・フセイン独裁体制の排除には反対を表明していた。また、ブッシュ政権の一国主義的な行動や、「自衛のための先制攻撃」を許容するブッシュ・ドクトリンについても批判している。このように、ブッシュ政権を批判しつつも、当初はイラク戦争開戦に肯定的だったバイデンだが、その後イラク国内の情勢が泥沼化の様相を呈してくると、一転して反対に転じ、2007年初めに政府が提案したイラクへの米軍増派法案についても反対した。バイデンが、イラク戦争とそれに伴う混乱・内戦を収拾する手段としてかねてより提唱しているのが、いわゆる「イラク3分割案」である。この案は、イラクをそれぞれシーア派、スンニ派、クルド人の区域に分割し、これら3つの区域から成る連邦国家にするという物である。この案を、上記の米軍増派法案への対案として正式に提案した物が、前述の「イラク分割決議案」である。この決議の提案にあたっては、バイデンと同じイラク分割論者である共和党のサム・ブラウンバック上院議員も賛成を表明し、共同提案者として名を連ねた。なお、この決議案は2007年9月26日、上院において75対23の賛成多数で成立した。バイデンは、外交通としてのイメージが強いが、司法政策にも精通していることで知られている。特に上院司法委員会での活動は、1977年に初めて委員に就任してから現在に至るまで、約30年にも及んでいる。そのため、同委員会での役職経験も豊富であり、前述のように、1987年から1995年までの8年間にわたって委員長を務めたほか、1981年から1987年と1995年から1997年の2度にわたって、委員会における少数党代表者(ranking minority member)を務めた。(「委員会における少数党代表者」は、各委員会における少数党出身委員の代表者であり、委員会においては副委員長と同格の扱いを受ける(実際に副委員長に就任している委員会もある)要職である。多くの委員会において、同職は委員長と共に、各委員会の下に連なる全ての小委員会のメンバーとなる。また、議会において与野党が逆転した際は、多くの場合、少数党代表者が次の委員長に就任する。)また、司法委員会に連なる5つの小委員会にも在籍しており、前述のように犯罪および麻薬に関する小委員会では委員長を務めている。5つの小委員会は下記の通りである。また、上記の委員会活動と並行して、麻薬政策に関して連邦政府への監視・諮問を行う上院国際麻薬取締委員会(The United States Senate Caucus on International Narcotics Control)の議長を務めるほか、上院のNATOオブザーバーグループの共同議長も務めている。バイデンは、司法委員として様々な問題に取り組んでいるが、その中でも麻薬政策に熱心に取り組んでいる。また、麻薬政策のみならず、犯罪防止政策や人権政策などにも積極的に取り組んでいる。上院司法委員会の重要な任務の1つに、連邦最高裁判事の承認がある。司法委員会は、上院本会議での投票に先立ち公聴会を開催し、大統領が指名した判事候補者に対して質疑応答・投票による審査を行うが、バイデンは委員長として、大きな議論を呼んだ2度の公聴会を主催している。バイデンは、これまで数々の犯罪に関連する連邦法制定に関与してきている。1984年、民主党の議事進行係議員を務めていた際に携わった犯罪管理法(Comprehensive Crime Control Act)の制定では、いくつかの条項に対して修正を加えたが、その修正が同法の通過・成立に大きな影響を与えたとして、市民的自由至上主義者(シヴィル・リバタリアン)から高評価を受けた。また、1994年に携わった「暴力犯罪防止・法執行法」()においては、同法とそれに連なる法律の起草作業の先頭に立ち、成立に尽力した。この法律は、一般に“バイデン犯罪法”として知られており、彼の最大の業績として広く認識されている。この法律によって定められた主な点は以下の通りである。1990年代、ビル・クリントン大統領の任期中には、ホワイトウォーター疑惑(クリントンがアーカンソー州知事時代、知人と共同経営していた不動産開発会社「ホワイトウォーター」に関連して、不正な土地取引や融資を行っていたのではないかという疑惑。)やモニカ・ルインスキーとの不倫疑惑、さらには当時大統領次席法律顧問を務めていたヴィンセント・フォスターが不可解な自殺を遂げるなど、同大統領に関する数々のスキャンダルが浮上し、ジョージ・H・W・ブッシュ政権で訴務長官を務めたケネス・スターが独立検察官に任命され、厳しい捜査・追及が行われた。バイデンは、特にホワイトウォーター疑惑とルインスキー疑惑の2件に関するスターの捜査活動に批判的であり、クリントン大統領に対する弾劾法案にも反対票を投じた。

出典:wikipedia

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