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嵩山宿

嵩山宿(すせじゅく)は、三河国八名郡嵩山(すせ。現在の愛知県豊橋市嵩山町)のに有った東海道の脇街道の1つである本坂街道(姫街道)の宿場。明和元年(1764年)、江戸幕府の道中奉行により、本坂街道の正式な宿場と認めるという裁可が下された。三河国渥美郡吉田城(同県同市今橋町)の藩である三河吉田藩領であった。宝永4年(1707年)のいわゆる宝永地震で、揺れによる家屋の倒壊と津波により、東海道の遠江国浜名湖の今切の渡しが通行できなくなり、大名行列などが本坂街道を通るようになった。人馬継立の急増のため、嵩山の民衆は領主である吉田藩へ通行の差し止めを願い出た。また、幕府の道中奉行所にも同様な訴えを行った。幕府は訴えを受け、本坂峠の道の通行を禁じた。しかし、浜名湖今切の水上の通過を嫌う旅人は、本坂越えをやめなかった。したがって、幕府は本坂街道の通行を追認せざるを得ず、明和元年(1764年)、三ヶ日宿・気賀宿(共に静岡県浜松市北区)と共に、嵩山の集落を正式に宿場とした。これ以降は、大名行列が通行すると正式に人馬の継立を行うようになった。元来、江戸幕府は、この嵩山集落を宿場とは考えていなかったので、宿場として正式に指定した後も、規模は小さなものだった。「本坂通宿村大概帳」{天保14年(1843年)}によると、以下のようであったとされる。人数580人、家数130軒、本陣1軒、脇本陣・旅籠無し。本陣といえども名主の屋敷を兼用したもので、問屋場(といやば)は定まった所は無いため重要な通行の有る場合のみ農家を問屋場として使用していたとなっている。本坂トンネルの西の国道362号と平行した北側の旧道(姫街道)沿い浜名湖北岸の三ヶ日宿から西へ向かい湖西連峰(弓張山系)の本坂峠を越して嵩山宿に入る。嵩山宿から西へ向かうと和田辻に至る。和田辻から西へ進めば御油宿であり、南へ進めば牛川地区を通り朝倉川(境橋)を渡って吉田宿である。

出典:wikipedia

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