宝永四ツ宝丁銀(ほうえいよつほうちょうぎん/ほうえいよつたからちょうぎん)とは正徳元年(1711年)8月2日より鋳造された丁銀の一種で秤量銀貨であり、単に四ツ宝丁銀(よつほうちょうぎん)とも呼ばれる。発行時期は正徳に改元された後であるが、宝永期の一連の銀貨の性格を持つため宝永丁銀として分類される。また宝永四ツ宝丁銀および宝永四ツ宝豆板銀を総称して四ツ宝銀(よつほうぎん)と呼ぶ。表面には「大黒像」および「寳」の文字および両端に二箇所の「宝」字極印およびその内側に二箇所のやや小型の「宝」字極印が打たれ「常是」の極印は無い。また、「大黒像」極印を12箇所打った祝儀用の十二面大黒丁銀が存在する。勘定奉行の荻原重秀は元禄期から宝永期に至る銀貨吹替えによる利益収入の成功に味を占め、将軍の決裁を得ることなくさらなる品位低下を伴う吹替えを断行した。四ツ宝銀発行の際は古銀の回収を進捗させるために増歩をやや高く設定し、正徳元年(1711年)中は元禄銀に対し26.2%、二ツ宝銀に対しては14.5%、正徳2年(1712年)中は元禄銀に対し27.7%、二ツ宝銀に対しては15%とさらに引き揚げる様通達が出されたが、正規の触書によるものではなかった。永字銀、三ツ宝銀と相次いだ正規の手続きを経ない貨幣吹替えに対し四ツ宝銀鋳造直前に荻原重秀は6代将軍徳川家宣から詰問を受けたが、これに対し重秀は「御代つがれし初、国財すでに竭尽せしによりて、銀改造らるべき由を申すといへども、此事においては、重ねて議し申すべからざる由を承りぬ。されど、此事の外に国用を足しつべき事なきをもて、去々年より此かた、某ひそかに銀改造らせしによりて、それより此かた、凡の事廃闕なくして今日に至りぬ」と申開きしたと新井白石の『折たく柴の記』に記されている。重秀の言葉通り幕府は宝永の一連の吹替えにより銀21万貫余(約350万両)に及ぶ莫大な出目(改鋳利益)を得て、度重なる天災、諸工事および将軍代替わりの儀式に対する出費による財政赤字の補填を行ったのであった。宝永年間からの目まぐるしい吹替えのため銀相場は混乱し正徳4年(1714年)5月に江戸の銀相場は金1両=銀89匁と下落し、1ヵ年程度の短期間における四ツ宝銀の大量発行に至って、品位低下に伴う通貨量増大のため物価は高騰して正徳5年(1715年)には米価が1石あたり銀230匁をつけた。この様な銀相場の著しい下落から、商人の資産価値は下落し、上方の経済的繁栄に終止符が打たれた。一方、銀座は宝永期の相次ぐ一連の銀貨吹替えにより、高く設定された分一銀(ぶいちぎん)による銀約12万貫(約200万両)という巨額の収入を得、銀座人は「両替町風」と呼ばれるほど贅沢を極めた。宝永四ツ宝豆板銀(ほうえいよつほうまめいたぎん)は宝永四ツ宝丁銀と同品位の豆板銀で、「寳」文字および「宝」字を中心に抱える大黒像の周囲に小さい「宝」字が廻り配列された極印のもの「廻り宝」を基本とする。「宝」字極印の玉の底辺の両側が跳ね、「宝」字の頭点が横広で離れていることで三ツ宝銀と区別する。両面に大黒印の打たれた「両面大黒」は未確認であり、また「大字宝」および「群宝」などといったものも存在せず、丁銀に対する豆板銀の鋳造量の相対的な比率が低い。規定品位は銀20%(七割八分引ケ)、銅80%である。明治時代、造幣局により江戸時代の貨幣の分析が行われた。宝永四ツ宝銀については以下の通りである。雑分はほとんどが銅であるが、少量の鉛、ビスマスなどを含む。この極めて低い銀品位に対し新井白石は「名こそ銀にてあるなれ、実には銅の銀気あるにも及ばず」と酷評した。『吹塵録』および『月堂見聞集』によれば丁銀および豆板銀の合計で401,240貫余(約1,503トン)である。公儀灰吹銀および回収された旧銀から丁銀を吹きたてる場合の銀座の収入である分一銀(ぶいちぎん)は四ツ宝銀では13%と引き揚げられ、また吹替えにより幕府が得た出目(改鋳利益)は94,597貫余であった。
出典:wikipedia
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