小川宮(おがわのみや/こかわのみや、応永11年6月28日(1404年8月4日) - 応永32年2月16日(1425年3月6日))は、室町時代の日本の皇族。後小松天皇の第2皇子。母は日野西資国の娘・光範門院日野西資子。同母兄弟に、兄の称光天皇、妹の理永女王がいる。諱は伝わらず『本朝皇胤紹運録』はただ「皇子」とのみ記す。追号は竜樹寺宮。はじめは単に「二宮」とだけ呼ばれ、父と同居していた。「儲君」と注されており、正式に皇太子に立てられることはなかったものの、称光天皇の後継者に指名されていたようである。しかし、兄に似て精神に異常があり、応永27年(1420年)1月3日には、正月の儀式の最中に妹を「蹂躙」する事件を起こしている。「蹂躙」の内容は不明であるが、いずれにせよ暴力をふるったのである。原因は「淫事ゆえ」とされるので性的な問題であるらしい。このことで父の勘気をこうむり、仙洞御所を逃げだし、母の養父である日野資教邸に逃げ込んでいる。同年10月には勘気を解かれ、勧修寺経興に預けられた。経興邸が小川亭と呼ばれたのにちなみ、以後は「小川宮」と称された。その後も素行は修まらず、応永30年(1423年)には、兄が飼育しかわいがっていたヒツジをひどくほしがり、強引に譲り受けておいて、即座に撲殺するという事件を起こしている。応永32年(1425年)2月16日、翌月に元服を控えながら、22歳の若さで急死した。あまりにも突然の死に毒殺の噂が立ち、経興が一時犯人として疑われた。兄の称光天皇とは仲が悪く、儲君とされたことについても称光は父や弟に対する怒りを隠さなかった。今出川公行の娘が側室として仕えていたが、子どもはなく、後光厳天皇の系統は後継者を失うこととなり、皇統はやがて崇光天皇の系統へと移ることとなった。
出典:wikipedia
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