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夕雲 (駆逐艦)

夕雲(ゆうぐも/ゆふぐも)は、日本海軍の駆逐艦。一等駆逐艦夕雲型の1番艦である。艦名は海上自衛隊のやまぐも型護衛艦6番艦「ゆうぐも」に引き継がれた。駆逐艦「夕雲」は1939年度(マル4計画)仮称第116号艦として建造を認められる。1940年(昭和15年)6月12日、舞鶴海軍工廠にて起工。太平洋戦争集結まで20隻建造された夕雲型駆逐艦のうち、舞鶴海軍工廠が建造したのは6隻(夕雲、巻波、早波、浜波、沖波、早霜)である。1941年(昭和16年)2月5日、正式に『夕雲』と命名され、艦艇類別等級表に「一等駆逐艦夕雲型」が登録される。3月16日に進水した。同日附で横須賀鎮守府籍となる。当日の舞鶴には、巡洋艦3隻(吾妻、木曾、大井)、吹雪型駆逐艦「薄雲」、哨戒艇2隻(第36号《旧駆逐艦藤》、第37号《旧駆逐艦菱》)等が所在、陽炎型駆逐艦15番艦「野分」が竣工間近だった。また秋月型駆逐艦1番艦「秋月」(昭和15年7月20日起工)の建造も行っている。日本海軍は7月1日附で、樅型駆逐艦8番艦栂駆逐艦長、吹雪型駆逐艦磯波駆逐艦長、吹雪型浦波駆逐艦長を務めた仙波繁雄中佐を夕雲艤装員長に補職する。8月5日、艤装員事務所を設置。10月16日、仙波は制式に夕雲駆逐艦長(初代)となる。12月5日、竣工。同日附で横須賀鎮守府部隊の警備駆逐艦となる。翌日出港、横須賀に向かった。1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃および太平洋戦争開戦を経て、本艦は12月14日付で海面防備部隊に編入。峯風型2番艦「澤風」や敷設艇「猿島」等と、東京湾外、伊豆諸島方面で対潜哨戒活動に従事する。2月21日には、ソビエト連邦商船の臨検を実施している。1942年(昭和17年)3月上旬、機関部の故障修理を実施。3月14日、この日に竣工した夕雲型2番艦「巻雲」とともに、夕雲型2隻(夕雲、巻雲)で第10駆逐隊を編成。第10駆逐隊司令には、バリ島沖海戦で活躍した第8駆逐隊司令阿部俊雄大佐(海軍兵学校46期)が任命された。3月16日、浦賀船渠で夕雲型6番艦「高波」が進水(夕雲進水と同日)。同時期、米軍機動部隊出現の徴候があったため横須賀在泊の大型艦の一部を伊勢湾に移動させることになり、「夕雲」は先行して伊勢湾周辺の対潜掃蕩を実施するよう下令された。3月20日、横須賀に戻る。その後も哨戒行動に従事した。3月28日、浦賀船渠で夕雲型3番艦「風雲」が竣工。同日附で第10駆逐隊に編入される。阿部司令の着任まで、風雲艦長吉田正義中佐が職務を代理した。4月10日、戦隊改編により第一航空艦隊(司令長官南雲忠一中将・海兵36期)の直衛に任ずる部隊として第十戦隊(司令官木村進少将・海兵40期)が編成され、第10駆逐隊も第十戦隊に編入された。4月13日、阿部司令は司令駆逐艦を「風雲」に指定。4月15日、一等陽炎型19番艦「秋雲」が第10駆逐隊に編入され、定数4隻(夕雲、巻雲、風雲、秋雲)となる。これまでの第一水雷戦隊(司令官大森仙太郎少将・海兵41期)に代わって南雲機動部隊の直衛に就く第十戦隊は、旗艦「長良」以下、第10駆逐隊《第1小隊:(1)風雲、(2)夕雲、第2小隊:(3)巻雲、(4)秋雲》、第17駆逐隊《第1小隊:(1)谷風、(2)浦風、第2小隊:(3)浜風、(4)磯風》、第7駆逐隊《第1小隊:(1)潮、(2)漣、第2小隊:(3)曙》が所属していた。だが第七駆逐隊は機動部隊から外されており、実際の機動部隊警戒隊(指揮官:第十戦隊司令官)は長良及び第4駆逐隊(司令有賀幸作大佐:嵐、野分、萩風、舞風)、第10駆逐隊、第17駆逐隊という編制である。4月18日、米軍機動部隊(空母ホーネット、エンタープライズ基幹)は日本本土空襲を敢行(ドーリットル空襲)。横須賀海軍工廠で空母に改造中の潜水母艦「大鯨」(空母龍鳳)が、爆撃により若干の損傷を受けた。第二艦隊司令長官近藤信竹中将は東日本在泊の艦艇(第四戦隊《愛宕、高雄、摩耶》、空母《祥鳳》、第4駆逐隊《嵐、野分》、第7駆逐隊《潮、曙、漣》、第10駆逐隊《風雲、夕雲、巻雲》、第8駆逐隊《朝潮、荒潮》)を中心に『前進部隊本隊』を編制。その他の部隊・艦を指揮して日本本土を出撃した。その後、会敵することなく作戦中止となり、各艦・各隊は母港に帰投した。第十戦隊は6月5日のミッドウェー海戦が初陣となった。だが海戦は惨敗、第10駆逐隊は最後まで戦闘力を維持していた第二航空戦隊旗艦「飛龍」(司令官山口多聞少将座乗)の直衛および被弾後の救援活動に従事した。海戦後、6月13日に呉に帰投した。7月14日、臨時編成の第一航空艦隊が解散して第三艦隊が編成され、引続き南雲忠一中将が司令長官、草鹿龍之介少将が参謀長となった。この間の8月7日、ガダルカナル島にアメリカ軍が上陸してガダルカナル島の戦いが始まった。8月16日、第三艦隊は柱島泊地を出撃してトラック諸島に向かうが、アメリカ機動部隊が出現した事によりソロモン諸島東方海域に急行した。8月24日の第二次ソロモン海戦でも空母の直衛を務めた。10月26日の南太平洋海戦では前衛部隊に配される。南太平洋海戦の後、11月3日に第10駆逐隊は第二水雷戦隊(田中頼三少将・海兵41期)、第七戦隊(司令官西村祥治少将・海兵39期)とともに外南洋部隊に加勢された。11月10日のガダルカナル島への鼠輸送では、92名の傷病兵を収容してショートランドに帰投した。第三次ソロモン海戦では外南洋部隊支援隊(重巡《鈴谷、摩耶》、軽巡《天龍》、駆逐艦《第10駆逐隊〔夕雲、巻雲、風雲〕、第8駆逐隊〔朝潮〕》)としてショートランド泊地を出撃、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場基地を砲撃する。第八艦隊主隊(鳥海、衣笠、五十鈴)と合流して退避中にニュージョージア島南方で米空母エンタープライズ艦載機の攻撃を受けた青葉型重巡2番艦「衣笠」が沈没、2隻(夕雲、巻雲)は衣笠乗組員の救助をおこなった。間を置かずブナとゴナの戦いに加わる。11月28日、第10駆逐隊司令指揮下の駆逐艦4隻(夕雲、巻雲、風雲、白露)による陸兵輸送作戦を実施するが、29日昼間にB-17の空襲を受けて「白露」が大破、「巻雲」も至近弾で損傷、輸送作戦は中止された。12月までブナ地区への兵員揚陸を行った。12月16日からはウェワク攻略作戦に参加した。1943年(昭和18年)1月18日、第10駆逐隊司令は阿部大佐(後日、軽巡洋艦大淀艦長、空母信濃艦長)から吉村真武大佐に交代(吉村大佐は1月7日まで軽巡龍田艦長)。第10駆逐隊は吉村司令のもとでガダルカナル島からの撤退作戦に参加した(ケ号作戦)。2月1日の第一次作戦では、「夕雲」はエスペランス岬へ接近する途中で触雷し航行不能となった姉妹艦「巻雲」全乗員を収容した上で、雷撃処分を行った。2月4日の第二次作戦でも輸送隊に加わり、2月7日の第三次作戦ではラッセル諸島からの撤退作戦を行った。作戦終了後はパラオに回航され、第四十一師団(阿部平輔中将)をウェワクへ輸送する丙三号輸送作戦に従事し、3月にはウェワクとマダンの間にあるハンサへ第二十師団(青木重誠中将)の将兵を輸送する輸送船団の護衛を行った。その後はラバウルを経てショートランドへ再進出する。3月25日附で夕雲駆逐艦長は大迫東中佐に交代する(仙波は4月10日より海軍兵学校副官)。3月31日から4月1日にかけてコロンバンガラ島への緊急輸送を二度にわたって実施。4月3日、ショートランド泊地で僚艦「風雲」が機雷により小破した。4月10日にはニューブリテン島ツルブへの輸送作戦を行う。このあと、第十戦隊(軽巡《阿賀野》、駆逐艦《雪風、夕雲、秋雲》)は第一航空戦隊(瑞鶴、瑞鳳)を護衛して内地へ帰投。夕雲は5月9日に横須賀に帰投した。整備と訓練の後に北方に向かい、幌筵島に到着した6月13日付で第一水雷戦隊(司令官木村昌福少将・海兵41期、旗艦阿武隈)に加勢する。7月に行われたキスカ島撤退作戦(ケ号作戦)に、途中反転の第一次作戦、成功した第二次作戦ともに収容駆逐隊として参加。木村少将指揮下の艦隊は(阿武隈《木村少将旗艦》、木曾、島風 、響、朝雲、薄雲、長波、秋雲、夕雲、風雲、若葉《初霜と衝突し離脱》、初霜《若葉の衝突後は燃料補給部隊護衛》、五月雨)、主隊(多摩)、燃料補給部隊(国後、日本丸)という部隊区分だった。撤退作戦を終えた後は8月3日付で機動部隊に復帰し、横須賀を経て再び南方へと向かった。9月20日、「夕雲」は第三水雷戦隊(司令官伊集院松治大佐・海兵43期)の指揮下に入り、ニュージョージア島の戦いに加わった。9月21日附で吉村は第10駆逐隊司令の職務を解かれ(10月11日より阿賀野型軽巡洋艦3番艦矢矧艤装員長)、天野重隆大佐(8月20日まで第21駆逐隊司令)に交代する。本艦は間もなくニュージョージア島の戦いにおける、コロンバンガラ島からの撤退作戦「セ号作戦」に参加した。9月28日夜と10月2日夜に二度にわたって行われた作戦では夜襲部隊として敵艦隊の出現に備えたが、何事も無くラバウルに帰投することができた。戦いは間を置かず続けられ、ベララベラ島からの撤退作戦が行われる。10月6日未明にラバウルを出撃し、ブーゲンビル島南方海域で欺瞞航路をとった後、ベララベラ島近海に向かった。6日夜、大佐率いる駆逐部隊の先制攻撃を受けて第二次ベララベラ海戦が始まった。伊集院(三水戦司令官)は夜襲隊(秋雲《旗艦》、風雲、夕雲、磯風、時雨、五月雨)と輸送隊(文月、夕凪、松風、小型艦艇多数)を率いてアメリカ水雷戦隊と交戦した。秋雲《戦隊旗艦》-磯風-風雲-夕雲という四番艦として行動していたが、第42駆逐群の先制攻撃にいち早く応戦し、20時56分に魚雷を発射すると同時に砲撃を開始。「夕雲」は第42駆逐群からの集中砲火を一身に浴びて火災が発生した。「秋雲」と「風雲」も1分遅れで砲撃を開始する。だがその第42駆逐群もシャヴァリア ("USS Chevalier, DD-451") に魚雷が命中して陣形は乱れ始め、シャヴァリアには後続の ("USS O'Bannon, DD-450") が追突する。米艦隊旗艦セルフリッジは27駆(時雨、五月雨)と交戦し、艦首に被雷して戦場から避退した。隊列から脱落した「夕雲」に、21時5分米軍の魚雷が命中、21時10分(戦闘概報では20分)に沈没した。駆逐艦長大迫東中佐を初めとして夕雲乗員の大半は戦死(241名)。海戦の最中に「風雲」が何名か救助し、アメリカの魚雷艇によって78名が救助された。しかし、捕虜となった水兵の一人がアメリカ兵から機関短銃を奪い取って銃撃戦となり、巻き込まれた日本兵8名が死亡している。その他、機関長以下25名は、やはり海戦で沈没したシャヴァリアのものと思しき無人の艦載艇を分捕った。やがてアメリカ軍魚雷艇が出現して乗り移るよう指示されたものの猛烈な拒否行動を示したため魚雷艇は逃げ去り、1日半経ってからブーゲンビル島・ブインに到着した。一方で、アメリカ軍の魚雷艇は降伏を拒否されたのち夕雲の生存者分の食糧と飲料水を魚雷艇からボートへ分け与えると、反転し去っていったという。種子島洋二第一輸送隊隊長(元村雨駆逐艦長)は、死闘の続くソロモン海で「はじめて聞いたすがすがしい話」と述べている。第八艦隊司令長官鮫島具重中将(海兵37期)はブインの桟橋に赴いてカッターを出迎え、機関長以下25名の行動を称えた。第10駆逐隊は夕雲型2隻(巻雲、夕雲)の喪失により陽炎型「秋雲」と夕雲型「風雲」の2隻編制となったため、10月31日附で朝潮型駆逐艦5番艦「朝雲」を編入した。駆逐艦「夕雲」は12月1日附で夕雲型駆逐艦、第10駆逐隊、帝国駆逐艦籍のそれぞれから除籍された。

出典:wikipedia

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