風雲(かざぐも)は、大日本帝国海軍の駆逐艦。一等駆逐艦夕雲型の3番艦である。風雲は1939年度(マル4計画)仮称第118号艦として浦賀船渠での建造が決定、1940年(昭和15年)12月23日起工(藤永田造船所の2番艦巻雲と同日起工)。1941年(昭和16年)9月10日附で風雲(カザグモ)と命名、同日附で夕雲型駆逐艦に登録。9月26日進水。1942年(昭和17年)1月20日、吉田正義中佐は本艦艤装員長に任命される。翌日、浦賀船渠に艤装員事務所を設置。3月16日、浦賀船渠で夕雲型6番艦高波が進水する。27日、性能調査終了。3月28日に竣工。艤装員事務所を撤去。横須賀鎮守府籍。吉田も正式に風雲駆逐艦長(初代)となった。風雲竣工直前の3月14日、夕雲型1番艦夕雲と夕雲型2番艦巻雲(3月14日竣工)により第10駆逐隊(駆逐隊司令阿部俊雄大佐、前職第8駆逐隊司令)が編制されていた。風雲は3月28日の竣工と同時に横須賀鎮守府海面防備部隊直率部隊に編入され、同日附で第10駆逐隊に編入された。阿部司令が着任するまで、吉田中佐(風雲艦長)が職務を代行する。4月13日、着任した阿部司令は第10駆逐隊司令駆逐艦を本艦に指定した。4月15日、一等駆逐艦陽炎型19番艦秋雲が第10駆逐隊に編入され、定数4隻(秋雲、夕雲、巻雲、風雲)となった。秋雲編入直前の4月10日、戦隊改編により第一航空艦隊(指揮官南雲忠一中将《海軍兵学校36期》)の直衛に任ずる部隊として第十戦隊(司令官木村進少将《海軍兵学校40期》)が編成され、第10駆逐隊も第十戦隊に編入された。これまでの第一水雷戦隊(司令官大森仙太郎少将・海兵41期)に代わって南雲機動部隊の直衛に就く第十戦隊は、旗艦・軽巡長良以下、第10駆逐隊《司令阿部俊雄大佐 第1小隊:(1)風雲、(2)夕雲、第2小隊:(3)巻雲、(4)秋雲》、第17駆逐隊《第1小隊:(1)谷風、(2)浦風、第2小隊:(3)浜風、(4)磯風》、第7駆逐隊《第1小隊:(1)潮、(2)漣、第2小隊:(3)曙》が所属していた。だが第7駆逐隊は機動部隊から外されており、実際の機動部隊警戒隊(指揮官:第十戦隊司令官木村少将)は長良以下第10駆逐隊4隻、第17駆逐隊4隻、第四水雷戦隊/第4駆逐隊(司令有賀幸作大佐:第1小隊《嵐、野分》、第2小隊《萩風、舞風》)という編制である。第十戦隊は6月5日のミッドウェー海戦が初陣となったが、まず主力空母3隻(赤城、加賀、蒼龍)がアメリカ軍機動部隊艦載機SBD急降下爆撃機ドーントレスの空襲で被弾炎上した。戦闘詳報では、赤城に座乗の南雲長官・草鹿龍之介参謀長・源田実参謀、淵田美津雄赤城飛行長等の司令部人員を救助するため野分が赤城に接近したと記録。戦史叢書によれば、南雲司令部は野分に移乗したのち長良(第十戦隊旗艦)に送り届けられたとしている。だが司令部附信号兵やカメラマンの証言によると、南雲司令部は駆逐艦を経由せず、装載艇で直接長良に移動している。一方で吉田正義(当時風雲駆逐艦長)によれば、南雲長官以下司令部は赤城内火艇で風雲(第10駆逐隊司令駆逐艦)に移乗、一時同艦に将旗を掲げたのち第十戦隊旗艦長良に移動したとしている。空母3隻被弾炎上後、第十駆逐隊は第二航空戦隊(司令官山口多聞少将)の空母飛龍の支援に従事した。最終的に飛龍も被弾炎上し、風雲は飛龍の左舷にあって消火活動に協力した。鎮火の見込みが立ったため加来止男飛龍艦長は風雲に離れるよう下令したが、その2時間後に誘爆が起ったという。山口司令・加来艦長は総員退去を下令、2隻(風雲、巻雲)は飛龍生存者を収容した。飛龍接舷時、過失により風雲・飛龍の接触事故がおこり、風雲はマストや測距義に損傷を受けている。山口司令官、加来艦長は飛龍から脱出せず、戦死した。風雲のカッターボートが飛龍右舷にいたところ上から拳銃が置ちてきたため、風雲の副長は「加来艦長はこの拳銃で自決したのでは」と語ったという。なお、飛龍は駆逐艦巻雲によって雷撃処分されたが、すぐには沈没しなかった。アメリカ軍に鹵獲されるのを防ぐため、駆逐艦谷風が飛龍処分を下令され捜索に向かったが、発見できずに引き返した。沈没寸前に飛龍から脱出した機関科生存者39名(4名漂流中死亡)は、のちにアメリカ軍によって救助された。吉田(風雲艦長)は「飛龍を確実に処分して生存者を救助すればよかった」と回想している。第十駆逐隊は6月13日に呉へ帰投した。7月14日、臨時編成の第一航空艦隊が解散して第三艦隊が編成され、引き続き南雲忠一中将が第三艦隊司令長官、草鹿龍之介少将が参謀長となった。同時に第十戦隊から第7駆逐隊が外れ、第4駆逐隊および第16駆逐隊が編入される。第十戦隊は軽巡長良以下第4駆逐隊(嵐、野分、萩風、舞風)、第10駆逐隊(秋雲、夕雲、巻雲、風雲)、第16駆逐隊(雪風、時津風、天津風、初風)、第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)という戦力を揃えた。8月7日、ガダルカナル島およびフロリダ諸島にアメリカ軍が上陸してガダルカナル島の戦いが始まった。8月16日、第三艦隊は柱島泊地を出撃してトラック諸島に向かうが、アメリカ機動部隊が出現した事によりソロモン諸島東方海域に急行した。8月24日の第二次ソロモン海戦でも空母の直衛を務めた。9月は秋雲とともにトラック周辺で警戒行動や対潜活動を行った。10月26日の南太平洋海戦では前衛部隊に配される。前衛部隊のうち2隻(秋雲、巻雲)は前進部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官)と共に敗走するアメリカ機動部隊を追撃し、漂流するアメリカの空母ホーネット ("USS Hornet, CV-8") を撃沈した。南太平洋海戦の後、第十駆逐隊(夕雲、巻雲、風雲)は第二水雷戦隊(田中頼三少将・海兵41期)、第七戦隊(司令官西村祥治少将・海兵39期)とともに外南洋部隊に加勢された。秋雲は損傷艦(翔鶴、瑞鳳、筑摩、熊野)や護衛の駆逐艦(秋月、第4駆逐隊、第17駆逐隊)と共に内地へ帰投している。11月3日、重巡2隻(鈴谷、摩耶)、第二水雷戦隊、第10駆逐隊(夕雲、風雲)はトラック泊地を出撃、5日にショートランド諸島(ショートランド泊地)へ到着。外南洋部隊指揮官三川軍一第八艦隊司令長官の指揮下に入った。第三水雷戦隊司令官橋本信太郎少将は外南洋増援部隊指揮官の職務を田中少将(二水戦司令官)に引き継ぎ、第三水雷戦隊各艦と共にトラック泊地へ戻った。第十駆逐隊は外南洋部隊支援隊(指揮官西村祥治第七戦隊司令官)に編入されていたが、駆逐艦輸送作戦(鼠輸送)に際して増援部隊(指揮官二水戦司令官)に編入された。田中司令官は増援部隊の編制変更をおこない、甲増援隊(第十五駆逐隊《親潮、早潮、陽炎》、第二十四駆逐隊《海風、江風、涼風》、第三十一駆逐隊《巻波、高波、長波》、第十駆逐隊《夕雲、風雲》)による輸送作戦を命じた。11月6日深夜、ガダルカナル島への鼠輸送を行うため第15駆逐隊司令佐藤寅治郎大佐指揮下の甲増援隊はショートランド泊地を出撃。途中でB-17 の空襲を受けたが被害はなく、深夜にガ島に到着するとタサファロング隊とエスペランス隊にわかれる。エスペランス隊(夕雲、風雲)は糧食を降ろしたのち、175名の傷病兵と便乗者(戦史叢書では海軍69名・陸軍3名)を乗せて8日昼前に帰投した。本作戦中、空襲を受けた駆逐艦2隻(長波、高波)に若干の損害があった。また、巻雲は7日7時30分にショートランド泊地に到着、増援部隊に編入された。11月10日9時、第10駆逐隊司令阿部俊雄大佐指揮下の駆逐艦5隻(夕雲、巻雲、風雲、巻波、涼風)は、第三十八師団師団長を含む陸兵600名、物資、第十一戦隊弾着観測員(飛行場砲撃時)を搭載してショートランドを出撃。空襲を受けたが被害はなく、揚陸地点でアメリカ軍魚雷艇4隻と交戦しこれを撃退、揚陸に成功し、傷病者585名を収容して11日午前中に帰投した。11月中旬の第三次ソロモン海戦では、外南洋部隊支援隊指揮官西村祥治第七戦隊司令官の指揮下、駆逐艦4隻(第10駆逐隊《風雲、夕雲、巻雲》、第8駆逐隊《朝潮》)で巡洋艦3隻(鈴谷、摩耶、天龍)を護衛。本来ならば朝潮ではなく満潮が支援隊に編入されていたが、出撃前に泊地で空襲をうけ行動不能となっていた。11月13日深夜から約20分間、重巡2隻(鈴谷、摩耶)はガダルカナル島ヘンダーソン飛行場に対する対地砲撃を実施したが、決定的な損害を与えられなかった。14日午前6時頃、支援隊は外南洋部隊指揮官三川軍一第八艦隊司令長官直率の外南洋部隊主隊(鳥海、衣笠、五十鈴)とニュージョージア島南方で合流し、ショートランド泊地へむかう。だがニュージョージア諸島南方でアメリカ軍機の空襲を受け、対空戦闘により重巡衣笠が沈没(生存者は夕雲と巻雲が救助)、鳥海・摩耶・五十鈴等が損傷を受けた。主隊・支援隊はショートランド泊地で急速補給をおこなったのち輸送船団(第二水雷戦隊)救援に向かうが、アメリカ艦隊と直接交戦する事はなかった。第三次ソロモン海戦に勝利した連合軍は、パプアニューギニアのブナに上陸作戦を敢行した(ブナとゴナの戦い)。11月17日、外南洋部隊指揮官直率部隊(鳥海、夕雲、巻雲、風雲、親潮、陽炎)はラバウルに到着する。第八艦隊司令部は陸上に移り、4隻(鳥海、五十鈴、涼風、望月)はトラック泊地へ回航、他の巡洋艦(天龍)や駆逐艦はニューギニア方面の作戦に従事することになった。11月17日夜、輸送部隊は駆逐艦5隻(夕雲、巻雲、風雲、親潮、陽炎)で出撃し、バサブア(ブナ地区)へ約1000名を揚陸させた。続く輸送作戦で駆逐艦海風(第24駆逐隊)が大破したため、駆逐艦4隻(春雨、白露、磯波、電)が外南洋部隊に編入され、22日にラバウルへ到着する。連合軍の反撃を受けて、連合艦隊はガダルカナル島よりもニューギニア方面を重視する姿勢をとる。11月22日、輸送隊の駆逐艦4隻(巻雲、風雲、夕雲、荒潮)は陸兵800名のバサブア輸送を実施。同日、外南洋部隊指揮官三川中将は新たな兵力部署を発令。東部ニューギニア方面護衛隊(朝潮、荒潮、春雨、白露、電春雨、磯波、早潮、夕雲、巻雲、風雲)は、第十八戦隊司令官松山光治少将(旗艦天龍)の指揮下に入った。11月28日、第10駆逐隊司令指揮下の駆逐艦4隻(夕雲、巻雲、風雲、白露)による陸兵輸送作戦を実施するが、29日昼間にB-17の空襲を受ける。白露大破・巻雲至近弾損傷の被害をうけ、輸送作戦は中止された。12月8日、駆逐艦6隻(風雲、夕雲、朝潮、荒潮、磯波、電)で出撃。空襲により2隻(朝潮、磯波)が損傷し、作戦は中止された。12月11日、駆逐艦5隻(風雲、夕雲、荒潮、磯波、電)でラバウルを出撃、ニューアイルランド島(カビエン)を経由したのち、アドミラルティ諸島(ロレンガウ)で支援隊(熊野、鈴谷、望月)から燃料補給を受けつつ、迂回路をとってブナへ向かう。14日午前2時より揚陸を開始、輸送作戦は成功した(被害は空襲至近弾の荒潮のみ)。ニューギニア方面の作戦を進展させるため、日本軍はニューギニア島北岸のマダンとウェワクを占領して飛行場を設置し、ラエ、サラモアに対する後方基地として強化することにした。だがポートモレスビーの連合軍基地から激しい空襲を受ける可能性があり、ウエワク攻略部隊の上空警戒のため空母隼鷹(第二航空戦隊)と護衛部隊(阿賀野、磯風、浜風、村雨)を派遣した。第十駆逐隊(巻雲、夕雲、風雲)と輸送船清澄丸はウェワク攻略を、駆逐艦4隻(荒潮、涼風、磯波、電)と輸送船2隻(愛国丸、護国丸)および軽巡天龍がマダン攻略を実施した。ウェワク攻略部隊は12月16日12時ラバウルを出撃、マダン攻略部隊は同日18時にラバウルを出撃した。隼鷹航空隊の援護を受けたウェワク攻略部隊は、特に大きな戦闘もなく18日夜にウェワク揚陸を実施、21日朝にラバウルへ戻った。一方、マダン攻略部隊は12月18日の空襲で護国丸が中破、潜水艦アルバコア ("USS Albacore, SS-218") の雷撃で軽巡天龍(第十八戦隊旗艦)を喪失した。本作戦終了とともに第10駆逐隊は前進部隊に編入された。1943年(昭和18年)1月18日、第10駆逐隊司令は阿部俊雄大佐(後日、軽巡大淀艦長、空母信濃艦長等を歴任)から吉村真武大佐に交代(吉村大佐は1月7日まで軽巡龍田艦長)。第10駆逐隊は吉村司令のもとでガダルカナル島からの撤退作戦に参加した(ケ号作戦)。1月23日、駆逐艦5隻(秋雲、夕雲、巻雲、風雲、雪風)は南東方面部隊に編入され、そのまま外南洋部隊に所属する。2月1日の第一次作戦および2月4日の第二次作戦ではエスペランス岬へ向かう輸送隊(風雲、巻雲《第一次のみ》、夕雲、秋雲、谷風、浦風、浜風、磯風)に加わり、2月7日の第三次作戦ではラッセル諸島からの撤退作戦(風雲、夕雲、秋雲、長月、谷風、浦風、浜風、磯風)を行った。撤退作戦は成功したが、第一次作戦で姉妹艦巻雲が触雷し夕雲により雷撃処分され、第二次作戦で陽炎型の舞風が大破、第三次作戦で同じ陽炎型の磯風が中破した。第10駆逐隊は当面の間3隻編制(秋雲、夕雲、風雲)で行動を続ける。作戦終了後、風雲はパラオに回航され、第四十一師団(阿部平輔中将)をウェワクへ輸送する丙三号輸送作戦に従事し、3月にはウェワクとマダンの間にあるハンサへ第二十師団(青木重誠中将)の将兵を輸送する輸送船団の護衛を行った。その後はラバウルを経てショートランドへ再進出し、コロンバンガラ島への輸送作戦に加わる。しかし、4月3日にショートランドで触雷して損傷したため、輸送部隊から外された。4月28日に横須賀に帰投して修理が行われた。修理後、風雲は北方に向かい幌筵島に到着した6月13日付で第一水雷戦隊(司令官木村昌福少将・海兵41期)に加勢した。7月に行われたキスカ島撤退作戦に、途中反転の第一次作戦、成功した第二次作戦ともに参加。収容部隊(阿武隈《木村少将旗艦》、木曾、島風 、響、朝雲、薄雲、長波、秋雲、夕雲、風雲、若葉《初霜と衝突し離脱》、初霜《若葉の衝突後は燃料補給部隊護衛》、五月雨)、主隊(多摩)、燃料補給部隊(国後、日本丸)という部隊区分だった。他の艦は収容した陸軍の装備を全て捨てていたが、風雲のみ発動艇を回収し、さらに陸戦隊が飼っていたキツネも持ち帰ったという。キツネは上野動物公園に寄贈された。撤退作戦を終えた後は8月3日付で機動部隊に復帰し、横須賀を経て再び南方へと向かった。9月15日附で風雲駆逐艦長は白露型駆逐艦1番艦白露駆逐艦長橋本金松少佐に交代した(後日、吉田は第41駆逐隊《冬月、涼月》として坊ノ岬沖海戦に参加)。9月20日、第10駆逐隊(秋雲、風雲、夕雲)は第三水雷戦隊(司令官伊集院松治大佐・海兵43期)の指揮下に入り、間もなくコロンバンガラ島からの撤退作戦である「セ号作戦」に参加した。9月21日附で吉村は第10駆逐隊司令の職務を解かれ(10月11日より阿賀野型軽巡洋艦3番艦矢矧艤装員長)、天野重隆大佐(8月20日まで第21駆逐隊司令)に交代する。9月28日夜と10月2日夜に二度にわたって行われた作戦では夜襲部隊として敵艦隊の出現に備えたが、何事も無くラバウルに帰投することができた。戦いは間を置かず続けられ、ベララベラ島からの撤退作戦が行われていた。10月6日未明にラバウルを出撃し、ブーゲンビル島南方海域で欺瞞航路をとった後、ベララベラ島近海に向かった。増援部隊指揮官伊集院松治第三水雷戦隊司令官(秋雲座乗)は夜襲隊(秋雲、風雲、夕雲、磯風、時雨、五月雨)を指揮して戦闘海域へ向かった。6日夜、大佐率いる第42駆逐群の先制攻撃を受けて第二次ベララベラ海戦が始まった。後続の僚艦夕雲が第42駆逐群の集中砲火を浴びて沈没するが、アメリカ駆逐艦シャヴァリア ("USS Chevalier, DD-451") に夕雲の魚雷が命中して第42駆逐群の陣形は乱れ始めた。反航戦で第42駆逐群と砲戦を交えたが、二番砲塔に被弾して使用不能となった。夕雲生存者を救助した後、やがて体勢を立て直して ("USS Selfridge, DD-357") と ("USS O'Bannon, DD-450") に対して魚雷を発射したが、距離が遠かったため命中しなかった。夕雲の沈没により、第10駆逐隊は2隻編制(風雲、秋雲)となった。 ラバウルに帰投後、10月7日限りで第三水雷戦隊の指揮下から離れた。秋雲とともにツルブへの輸送作戦を行った後、第三艦隊(司令長官小沢治三郎中将・海兵37期)に合流してエニウェトク環礁へ進出。10月31日附で満潮型駆逐艦「朝雲」が第10駆逐隊に加入(朝雲は第9駆逐隊からの転出)、3隻編制(風雲、秋雲、朝雲)となる。トラックに帰投後、駆逐艦3隻(風雲、秋雲、山雲)は戦艦大和、空母翔鶴を護衛してトラックを出港、12月17日に横須賀に帰投。12月21日、司令駆逐艦は風雲から秋雲にかわった。その後、東京石川島造船所で修理、対空兵器増設、電探装備工事を行った。修理を終えた後の1944年(昭和19年)1月17日、2隻(風雲、秋雲)は横須賀を出港して翔鶴を瀬戸内海まで護衛、2月5日、空母2隻(翔鶴、瑞鶴)を護衛して洲本沖を出撃し、昭南に向かった。2月20日に瑞鶴を護衛して呉に向かった後、3月7日には瑞鶴、重巡洋艦最上、第三戦隊(戦艦《金剛、榛名》、司令官鈴木義尾中将・海兵40期)を護衛して瀬戸内海を出撃してリンガ泊地に向かった。3月20日附で第10駆逐隊司令天野重隆大佐は第61駆逐隊(涼月、初月、若月、秋月)司令へ転任し、後任の10駆司令は秋月型駆逐艦3番艦涼月駆逐艦長赤澤次壽雄大佐となった。3月25日、司令駆逐艦を秋雲から風雲に変更する。リンガ泊地に到着後は第十戦隊各艦(矢矧《旗艦》、秋雲)とともに航空戦隊との合同訓練に従事した。だが4月11日、秋雲がアメリカの潜水艦レッドフィンの雷撃で撃沈され、第10駆逐隊は2隻(風雲、朝雲)となった。5月12日、リンガ泊地を出撃してタウイタウイに進出、タンカー護衛と対潜掃討に従事した。この頃、ビアク島を巡って攻防が繰り広げられており(ビアク島の戦い)、帝国海軍は渾作戦を発動してビアク島救援作戦を展開していた。5月30日付で第10駆逐隊(風雲、朝雲)は渾部隊(指揮官左近允尚正第十六戦隊司令官:旗艦青葉)に編入され、間接護衛隊(戦艦《扶桑》、第10駆逐隊《風雲、朝雲》)、警戒隊(重巡洋艦《妙高、羽黒》、第27駆逐隊《春雨、五月雨、白露、時雨》)と共にタウイタウイからダバオへ移動する。6月2日、警戒隊(妙高、羽黒、春雨、五月雨、白露、時雨)と間接護衛隊(扶桑、風雲、朝雲)は輸送隊(青葉、鬼怒、敷波、浦波)と共にダバオを出撃するが、B-24爆撃機に触接されたため、豊田副武連合艦隊司令長官は6月3日夜に作戦の中止を発令した。羽黒の士官は同航する旧式戦艦の扶桑を見て哀愁を感じたという。6月5日、第五戦隊と間接護衛隊はダバオに到着した。このあと渾作戦は駆逐艦6隻(春雨、五月雨、白露、時雨、浦波、敷波)のみで実施されたが空襲で「春雨」(第27駆逐隊司令駆逐艦)を喪失し、さらにアメリカ巡洋艦部隊に迎撃されて撃退された(第二次渾作戦)。そこで連合艦隊は第一戦隊(戦艦《大和、武蔵》)と第二水雷戦隊(能代、沖波、島風)なども投入して上陸船団撃破と機動部隊の誘い出しを図る事となった。6月7日深夜、第10駆逐隊(風雲、朝雲)は第五戦隊(妙高、羽黒:司令官橋本信太郎中将・海兵41期)とともにダバオを出撃。この時、口にはアメリカの潜水艦ヘイク ("USS Hake, SS-256") が哨戒を行っていた。翌6月8日未明、ヘイクのレーダーは湾の中央を高速で移動する4つの目標を探知した。2時12分、の地点で魚雷を6本発射し、うち2本が風雲の左舷中央部と左舷艦尾に命中、搭載の魚雷が誘爆し、4分で沈没した。ダバオ湾を警戒中の駆逐艦2隻(響、秋霜)は駆逐艦浜風を通じて救援要請を受け、直ちに出動。朝雲と共に救助活動に従事した。乗員のうち136名は夕雲型姉妹艦の秋霜に移乗してダバオへ向かったが、他の者は全員戦死した。風雲座乗中の第10駆逐隊司令赤沢次寿雄大佐も戦死した(少将に進級)。駆逐艦風雲は7月10日附で夕雲型駆逐艦、帝国駆逐艦籍から除籍された。朝雲1隻になった第10駆逐隊も同日附で解隊され、朝雲は第4駆逐隊に編入、同隊は定数4隻(野分、満潮、山雲、朝雲)を回復した。だが第4駆逐隊は10月下旬のレイテ沖海戦で全滅、第10駆逐隊に所属した5隻(秋雲、夕雲、風雲、巻雲、朝雲)は太平洋戦争中に全隻喪失した。また風雲2代目艦長橋本金松中佐は8月1日附で秋月型駆逐艦4番艦「初月」駆逐艦長に就任したが、初月(第61駆逐隊司令駆逐艦)がレイテ沖海戦で沈没した際に戦死した。初月座乗の第61駆逐隊司令天野重隆大佐(前職、第10駆逐隊司令)も戦死した。
出典:wikipedia
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