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メジロブライト

メジロブライトは日本の競走馬。1998年の天皇賞(春)を制し、同年のJRA賞最優秀父内国産馬に選ばれた。メジロドーベルとともにメジロライアンの代表産駒の一頭に数えられる。半兄に中央競馬・高崎競馬のダート戦線で活躍したメジロモネ、半弟に2000年の朝日杯3歳ステークスを勝ったメジロベイリーがいる。※以降、馬齢はすべて旧表記を用いる。メジロブライトがデビューしたのは8月31日、函館の新馬戦(芝1800メートル)だった。デビュー戦で騎乗したのは千田輝彦。6頭立ての6番人気(単勝オッズは58.9倍)の低評価を覆して、初勝利を挙げた。この時の勝ちタイム2分01秒6は、当時の芝2000メートルのレコードタイム(1分57秒8)より約4秒も遅かった。その後、すずらん賞2着を経て、デイリー杯3歳ステークスに出走。7番人気の低評価ながら、のちにNHKマイルカップ、モーリス・ド・ゲスト賞を勝つシーキングザパールの2着と善戦した。このデイリー杯から松永幹夫が騎乗している。その後、4戦目のラジオたんぱ杯3歳ステークスで初の重賞制覇を果たした。4歳初戦の共同通信杯4歳ステークスで2つ目の重賞制覇を果たし、メジロブライトはクラシック候補の1頭として注目されるようになった。共同通信杯後、2月末に調教師の浅見国一が定年を迎え、メジロブライトは息子の浅見秀一の管理馬となった。メジロブライトはその後、1番人気に推された皐月賞トライアルのスプリングステークスに出走したが、ビッグサンデーを捕らえきれず2着。続く皐月賞でも1番人気に支持されたが4着、日本ダービーでも再び1番人気に推されたが3着に終わった(皐月賞もダービーも優勝馬はともにサニーブライアン)。皐月賞では4コーナー12番手から、ダービーは4コーナー10番手から直線だけで猛烈に追いこんだが届かなかった。その後、メジロブライトは夏場の休養を経て菊花賞トライアルの京都新聞杯に出走。神戸新聞杯を勝利したマチカネフクキタルに次ぐ2番人気に推されたものの3着。続くクラシック三冠最終戦の菊花賞では古馬相手に京都大賞典を勝ったシルクジャスティスに次ぐ2番人気に支持されるが、ここでもマチカネフクキタルの3着に敗れた。菊花賞後、メジロブライトはステイヤーズステークスに出走。2着に1秒8の大差を付けて、3つ目の重賞制覇を果たした。なお、このステイヤーズステークスから鞍上が松永幹夫から河内洋に乗り替わっている。これは松永がステイヤーズステークス当日、阪神競馬場で行われたワールドスーパージョッキーズシリーズに出場するための乗り替わりだったが、これ以降松永がメジロブライトに騎乗することはなかった。翌1998年、メジロブライトは前走からの勢いそのままにアメリカジョッキークラブカップ、阪神大賞典とGIIレースを連勝して、天皇賞(春)に挑んだ。天皇賞(春)ではシルクジャスティスに次ぐ2番人気に推された。レースでは、いつもの後方からの追い込みではなく、中団から直線で抜け出すというレースぶりで2着のステイゴールドに2馬身差を付けて優勝。念願の初GI制覇を成し遂げた。関西テレビの杉本清アナウンサーはメジロマックイーン以来、ひさびさのメジロ牧場の天皇賞制覇を称え「メジロ牧場に春!羊蹄山の麓に春!!」と実況している。重賞4連勝で臨んだ次走の宝塚記念は発走前にゲート内で立ち上がって暴れて外枠発走となり、レース中にも内埒にぶつかり大きく体勢を崩すなどして11着と大敗した。秋になると、メジロブライトは京都大賞典から始動したが、逃げるセイウンスカイを捕まえ切れず2着に終わった。続く天皇賞(秋)では逃げるサイレンススズカを意識して普段より早めに前の馬を捕らえに行く作戦で臨んだが、4コーナー残り600m付近で故障して少しずつ外に逸れて行くサイレンススズカを2番手で追走していたサイレントハンターとともに2頭だけ大外から抜く事になり、メジロブライトは直線入口で大きく順位を下げる不利な状況となった。結局、これが原因で直線で伸びを欠き、オフサイドトラップの5着に終わった。続く有馬記念は大外から追い込んだが、勝ったグラスワンダーに1/2差及ばず2着に敗れた。ただ、メジロブライトは天皇賞(春)での勝利が決め手となり、この年の最優秀父内国産馬に選出されている。翌1999年、メジロブライトは春初戦の日経新春杯は59.5kgの斤量を克服して勝ったものの、阪神大賞典と天皇賞(春)はともに0秒1差の2着に終わった(阪神大賞典も天皇賞(春)も優勝馬はともにスペシャルウィーク)。宝塚記念をパスして、夏を休養に当てたメジロブライトは秋になると、京都大賞典から復帰したが、このレースでも0秒1差の2着に終わり、これで3戦連続で0秒1差の2着となった。その後、天皇賞(秋)は全く見せ場なく11着に敗れ、有馬記念は5着に入るのが精一杯だった。有馬記念後は父ライアン同様、メジロブライトも屈腱炎を発症し、長期休養に入った。屈腱炎による長期休養からメジロブライトが復帰したのは2000年10月8日の京都大賞典のことだった。10か月ぶりのレースだったが、往年の走りは見られず8着と敗れ、レース後には屈腱炎が再発。重度の屈腱炎だったことから、競走生活を断念、そのまま引退した。2000年に引退後、アロースタッドで種牡馬となるが受胎率が悪く種付け頭数は初年度91頭、2年目30頭、3年目12頭と年々下がっていった。その後、2003年秋にビッグレッドファームに移り、2004年の種付け数が32頭と増えた矢先の2004年5月16日、心臓発作で急死した。現在、故郷である北海道洞爺湖町のメジロ牧場洞爺にメジロブライトの墓がある。2007年にせん馬のマキハタサイボーグがステイヤーズステークスを勝利し産駒の重賞初勝利を記録した。

出典:wikipedia

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