機甲師団(きこうしだん)とは、戦車部隊を中心に、戦車に随伴する自動車化・機械化された歩兵部隊、同じく自動車化された工兵・砲兵・偵察・通信などの諸兵科の部隊から構成される師団のこと。機甲とは、機械化装甲の略称として第二次世界大戦前から使用されており、現在陸上自衛隊でも使用されている用語である。同様の部隊で編成される、機械化歩兵部隊が主体であるものは機械化歩兵師団と呼ばれている。イギリスのArmoured Division、アメリカのArmored Division、ドイツのPanzerdivisionなどが相当するが、日本語訳は書籍・雑誌の出版社・著者・訳者によって表記が異なっており、特にドイツ軍について装甲師団の語も多く用いられている。戦車師団と呼ばれることもあるが、戦車部隊の比率がより大きいものが区別されている場合もある。第一次世界大戦後に塹壕戦から機動戦への戦術開発の結果、第二次世界大戦で真価を発揮した電撃作戦の主体となった。第二次世界大戦当時、米英軍では歩兵師団は既に自動車化されており、現代では先進国の場合、歩兵師団と言えども多数の戦車が配備され、歩兵も装甲兵員輸送車、歩兵戦闘車に運ばれ、機甲師団との違いは大きくない。本項においては主に第二次世界大戦における機甲師団の誕生と発展について述べる。機甲師団の特徴は戦車部隊を主力としていることにある。他の部隊は戦車部隊を支援するためにあり、戦車の移動速度に追随するために自動車化・機械化されている。その規模、内容は、国や時期により大きく異なるが、2 - 4個の連隊または旅団から構成され、人員規模は1 - 3万人、戦車の数は数十両 - 数百両である。戦車の登場は第一次世界大戦中のことであり、塹壕戦突破などが主目的であった。始めは歩兵部隊の支援として、歩兵に従属する形で各車が分散される形で用いられた。大戦終了後、各国の軍人(イギリスのジョン・フレデリック・チャールズ・フラー、フランスのシャルル・ド・ゴール、ドイツのハインツ・グデーリアン、ソ連のミハイル・トゥハチェフスキー、アメリカのアドナ・R・チャーフィー・ジュニア、日本の井上芳佐など)や軍事研究家(イギリスのベイジル・リデル=ハートなど)が歩兵ではなく、戦車を主戦力とした部隊の構想を着想した。戦車を主力とし、歩兵をその支援にまわすことで、機動力と打撃力がある部隊が構成でき、それが軍としての理想形だと考えた。だが、フランスでは要塞マジノ線の建設に軍事費の多くを費やし、軍幹部は歩兵が軍の主力と考えたため、ド・ゴールの意見は採用されなかった。イギリス・ソ連での実際に行われた機甲師団の実験も、イギリスでは軍縮政策で、ソ連ではスターリンによる赤軍粛清の際、トゥハチェフスキーら機械化を進めた将校を処刑・追放したことで、頓挫してしまう。ドイツはヴェルサイユ条約の厳しい軍備制限(陸軍兵力10万人、海軍1.5万人。参謀本部、潜水艦、空軍、戦車は保持出来ない)によって戦車戦術を研究出来なかったが、張りぼての戦車や「農業用トラクター」と詐称して製造して、ソ連国内の秘密の戦車学校にて戦車戦術を研究した(I号戦車)。アドルフ・ヒトラーの後援もあり、世界で機甲師団を最初に編成したのは、ドイツ再軍備宣言後のドイツ国防軍であった。1935年10月15日に第1から第3の三個装甲師団が編成されたのが最初である。ドイツ装甲師団は、数量ではドイツ軍に勝る連合国軍戦車部隊を戦車運用力の巧みさで打ち勝った(電撃戦)。独ソ戦でも未経験な発展途上のソ連戦車部隊を破った。しかし、戦車戦術では後進国であったアメリカが、生産力に物を言わせて連合軍に大量の戦車をレンドリース法(武器供与法)に載せて本格的に供与し、イギリスが機甲師団を増強し始めた。ソ連もアメリカ・イギリスからの武器供与だけでなく、ウラル山脈近くに疎開させた工場でT-34などのドイツより優秀な戦車の大量生産を始めた。特にアメリカの戦車は、戦車単体の性能は高くないものの、生産量は莫大であり、機械的信頼性も高かった。1942年以降、戦争は機甲師団同士の戦闘が多くなり、生産力に劣るドイツは補給に問題が目立って来た。1942年末から43年にかけ、エル・アラメインの戦いとスターリングラード攻防戦の敗北以後、ドイツは防戦一方となる。もとより空軍との連携作戦を新戦術としたドイツ軍の攻撃は制空権を失ったことにより、威力を失った。以後欧州戦線はイギリス、ソ連、アメリカ、自由フランスの機甲部隊が大活躍する舞台へと一変した。「再軍備」開始から十分な時間がないままに第二次世界大戦に突入したため、大戦中常に戦車の質・量の不足に悩まされたが、先駆国だけに各兵科を組み合わせた部隊運用の妙で健闘した。従来に比較して定型化された1943年型と呼ばれる師団編成が規定された。2個大隊からなる1個戦車連隊及び2個装甲擲弾兵連隊が基幹となった(この頃からドイツ軍では歩兵のことを擲弾兵と呼ぶようになり、装甲部隊に付属する歩兵部隊は装甲擲弾兵と呼ばれるようになった)。その他の支援部隊は装甲砲兵連隊・装甲偵察大隊・戦車駆逐大隊・装甲工兵大隊・高射砲大隊等であった。ただし師団によっては一部の支援部隊を持たないケースも見られた。武装親衛隊においても名実共に装甲師団が編成されるようになった(従来は内容は装甲師団同様でも装甲擲弾兵師団と呼ばれていた)。国防軍の装甲師団と比較して、装甲擲弾兵連隊が3個大隊編成であることが主な相違点である。また一部の師団は突撃砲大隊や重戦車中隊も保有していた。1943年10月22日付けでライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー、ダス・ライヒ、トーテンコープ、ヴィーキング、ホーエンシュタウフェン、フルンツベルク、ヒトラーユーゲントの各SS装甲擲弾兵師団が第1SS・第2SS・第3SS・第5SS・第9SS・第10SS、第12SSの装甲師団に改称されている。陸軍一のエリート師団であるグロースドイッチュラント装甲擲弾兵師団も連隊規模の戦車部隊を装備して実質上は装甲師団となった。空軍のヘルマン・ゲーリング師団が正式に装甲師団となった。1944年1月6日にはヘルマン・ゲーリング降下装甲師団に改名される。1944年型と呼ばれる編成が規定されたが1943年型と大きな相違は無い。1945年型と呼ばれる編成では従来2個戦車大隊編成だった戦車連隊が1個戦車大隊及び1個装甲擲弾兵大隊に変更された。また各支援部隊も自動車化される比率が低下し、大幅に戦力は低下した。敗戦間際にはありあわせの部隊を集成して師団に仕立てるケースも多く、規定は有名無実に近いものがあった。最初の機甲師団である第1装甲師団は1939年9月3日に編成された。1939年におけるイギリス装甲師団の編成は1個重装甲旅団・1個軽装甲旅団・師団支援群(砲兵連隊・自動車化歩兵大隊2個等)からなり、理論上は351輛の戦車を保有することになっていた。イギリス軍は歩兵戦車・巡航戦車二分論にとりつかれ、バランスの取れた主力戦闘戦車の登場が遅れ、アメリカからの兵器供与頼みが続いた。歩兵戦車は独立戦車旅団に配備され、装甲師団や装甲旅団は巡航戦車や軽戦車を装備していた。アメリカ製中戦車は基本的に巡航戦車扱いであった。ナチス・ドイツのフランス侵攻緒戦のイギリス海外派遣軍に機甲師団は無く、本格的に機甲師団が実戦参加したのは北アフリカの戦場からであった。フランスからの撤退時に戦車は遺棄されたため、マチルダ歩兵戦車とアメリカから供与されたスチュアート軽戦車・グラント/リー中戦車を中心に、旅団規模で運用された。マチルダは鈍足、スチュアート軽戦車は装甲・火力が不足、グラント/リー中戦車は英国戦車に欠けていた大口径砲を装備していたが、旋回砲塔ではなく車体への装備という時代遅れの構造であり、枢軸軍を破る決定打に欠けていた。アメリカからシャーマン中戦車の供与が始まり、イギリスも新型クルセーダー巡航戦車の配備を本格化し、師団規模での運用が始まった。歩兵戦車はチャーチル歩兵戦車へと移行した。シャーマン中戦車はバランスの取れた傑作戦車であったが、イギリスはまだ巡航戦車と歩兵戦車の二分論にとりつかれており、中途半端な戦車を作り続けた。クルセーダーMk.Ⅲは三人乗りで、強力な6ポンド砲を生かしきれなかった。チャーチルMk.Ⅲは不整地最大速度13km/hで、装甲が厚くなったMk.Ⅶ以降ではさらに鈍足になった。チャーチル歩兵戦車は終戦までイギリス製戦車の主力であり続け、歩兵戦車としては十分な性能であったが、最大速度20km/hでは、機動兵器としては落第であった。ようやく、イギリスも歩兵戦車というコンセプト自体の問題を悟り、スーパーチャーチルなど歩兵戦車の改良計画を中止し、巡航戦車の大型化による主力戦車化を進めた。巡航戦車 Mk.VIII セントー・巡航戦車 Mk.IX クロムウェルなどを経て、1944年センチュリオンとして結実した。しかし、第二次世界大戦中には量産は間に合わず、戦後イスラエルなどに供与されている。ロシア戦車は良く言えば安価で実用性が高く後進国では評判がいいが、悪く言えば乗員の居住性軽視・濁ったペリスコープ・歪んだ照準器・貧弱な無線機など細部の質の低さにおいで先進国では悪評が高い。ただしこれはロシア兵に言わせれば西側戦車のほうが贅沢すぎるといったものであり、その質にたよらない物量作戦はバグラチオン作戦を頂点に、兵員の質を誇るナチス・ドイツ軍を撃退した。資本主義国が世界大恐慌に苦しんでいた1930年代、隔絶した経済圏を持つソ連は第一次五カ年計画(1928-32)のもと順調に重工業を発展させていた。農業用トラクターの量産技術が生かされ、1930年先駆的な機械化旅団が創設された。「縦深作戦理論」という、砲兵と航空機の支援の下、歩兵支援戦車が突入し、遠距離行動戦車が敵陣地(縦深)を突破、敵後方に機械化騎兵を展開し包囲すると言う、独自の戦術を編み出していた。しかし、スターリンにより、機械化部隊の編成を行っていたミハイル・トゥハチェフスキー将軍、縦深作戦理論の考案者の将軍、参謀として理論の完成に当たったアレクサンドル・エゴロフ参謀総長らが粛清されたため、この実験は頓挫することとなった。ドイツ装甲師団の成功を見たスターリンは態度を改め、1940年29個機械化軍団(2個戦車師団・1個自動車化師団で構成される予定だった)を作ることを決定した。しかし、独ソ戦開始時点では、戦車の充足率は60%強であり、それも大半が旧式戦車で、新型のT-34戦車は1、200両余り、KV系重戦車は600両余りであった。しかも、機械化を進めた将校の粛清で、戦車部隊運用のノウハウを持つ人材は全く育っていなかった。また、独ソ戦序盤におけるソ連軍の損害は非常に大きく、戦車不足であったことと大規模な戦車部隊を運用する能力が無いことを自覚したことから戦車師団の編成を断念し、既存の戦車師団も解隊された。保有戦車のほとんどを失ったソ連は、アメリカ・イギリスから兵器供与を受ける一方、戦車生産をT-34とKV-1中心に絞込み、シベリアやウラル山脈以東に疎開させた工場で大量生産を始めた。また、ドイツの突撃砲を真似て、T-34とKV-1の車体を用いた自走砲を作成し運用した(SU-122、SU-152、SU-85)。戦車の補充を得たソ連軍は、三個戦車旅団と一個自動車化狙撃兵旅団で構成される戦車軍団を編成した。この戦車軍団は、名称こそ師団より上位の軍団であるが、規模は他国の師団よりやや小さいものだった。1942年5月、半数を供与戦車で構成した約10個戦車旅団を動員して、南部戦線で反攻に出た(Cf.第2次ハリコフ攻防戦)が、まだまだ兵員も指揮官もドイツに比べ未熟であり、ドイツ軍に殲滅され、貴重な戦車戦力を失い、スターリングラード攻防戦に至るドイツの南方作戦が始まると、後退戦術をとるしかなかった。兵員・指揮官の熟練度が上がり始めると、圧倒的な生産力でドイツ軍を撃破し始めた。スターリングラード包囲戦とクルスクの戦いに勝利し、以後は一方的にドイツ軍を押し捲った。大型トラックが、ソ連でも数万両作成され、アメリカからも数万両供与されたが、ほとんどは膨大な補給物資を必要とする戦車軍団・機械化軍団の補給用に回され、兵員輸送車として使う余裕は無かった。随伴歩兵は戦車・自走砲の手すりに掴って移動していた。これらはタンクデサントと呼ばれた。牽引砲・自走砲は共に砲兵部隊で運用された。多連装ロケット砲をトラックに載せ、遠距離から大量の爆薬をばら撒く「カチューシャ」ロケット砲車が極めて有効活用された。トラックの荷台に簡易なロケット発射台を乗せただけの物であるが、一度に発射出来る数の多さがその長所であった。命中率こそ低いものの、同時点に制圧できる面積は砲に比べて遥かに広く、ドイツ軍陣地破壊に極めて有効で、ドイツ軍に恐れられた。ドイツの戦車の大型化にあわせ、T-34は砲塔と主砲を大型化したT-34-85に代わり(1990年代まで発展途上国では現役であった)、KV戦車の後継としてIS-2スターリン重戦車が投入された。自走砲も新車台の登場で大型化が進んだ(ISU系自走砲)。最終盤、後のロシア戦車の特徴となる、低姿勢の半円形の砲塔を持つIS-3重戦車が配備されたがヨーロッパにおける実戦には間に合わなかったとされる。IS-3 は戦後1970年代まで東側諸国や発展途上国で使用された。ドイツ軍のあげた大きな戦果に触発され、1940年6月より機甲師団の編成に着手した。7月15日付けで第1・第2の機甲師団が編成された。この時点での編成は以下のとおり。1942年、アメリカ陸軍は、機甲師団において、コンバット・コマンドと称する新しい編制を採用した。これは、隷下部隊を持たない戦闘団司令部を2個、師団司令部隷下に常設しておき、必要に応じて、様々な部隊を配属して戦闘団を編成するというものである。当初、戦車と歩兵の連携を軽視していたため戦車部隊の比率が高い編成だったが、戦訓により編成が見直された。1943年には、コンバット・コマンドをさらにもう1個増設するとともに、連隊編制を廃して、師団隷下に直接各大隊を配した編制が採用された。ただし、1943年型機甲師団では、機甲兵力がやや減少することから、1942年型機甲師団も重師団と称されて、第2及び第3機甲師団は、この重師団編制のままで残されることとなった。これに対して、1943年型機甲師団は軽師団と称された。第二次世界大戦終結までに第1から第14・第16・第20の16個機甲師団が編成された。兵器単体の性能は平凡なものの、圧倒的な生産力で、必要と考えられる兵器の機械化を進めたバランスの取れた機甲師団を作り上げた。歩兵部隊や砲兵部隊のみならず、他の支援部隊まで機械化が進み、迅速な進撃を可能としていた。また、所属部隊を入れ替えることのできる司令部組織「コンバット・コマンド」システムを採用したことにより、状況に柔軟に対応できた。さらに、充実した砲兵科と戦闘爆撃機による手厚い支援によって枢軸軍を圧倒した。大日本帝国陸軍では、1934年(昭和9年)3月に編成された小型機甲師団ともいうべき独立混成第1旅団(2個戦車大隊基幹の諸兵科連合部隊)が戦前では唯一のものであった。独立混成第1旅団は1938年(昭和13年)8月には廃止、一方で隷下の機甲部隊は第1戦車団に改変され、以降日本陸軍は3個戦車連隊と司令部からなる「戦車団」3個を有すこととなる。ノモンハン事件では第1戦車団を中心に歩兵などを臨時に配属した運用が行われたほか、中国大陸の戦線においては「戦車集団」が何度か臨時に編成され機動打撃力として活動した。1941年(昭和16年)2月、陸軍機甲本部が新設されて機甲部隊に関する教育・編制・技術開発の諸業務の統括調整が図られた。そして1942年(昭和17年)6月24日に戦車第1師団・第2師団・第3師団の編成が下令。しかしその編制は、既に太平洋戦争が始まっていたにもかかわらず対ソ連戦を念頭においたものであった。理論上は2個戦車旅団(各2個連隊構成、各連隊は戦車58輛保有)・1個機動歩兵連隊(3個大隊構成)を基幹に機動砲兵連隊・師団速射砲隊・師団捜索隊・師団防空隊・師団工兵隊等から編成されることになっていたが、部隊は編成されたものの肝心の戦車や自動車・砲は揃わないといった状態がほとんどで、その上一部の戦車連隊が抽出されてしまうなどして、その編制すら満足になることはなかった。しかも新式戦車は全て本土決戦に向けて温存され、外地部隊は大戦を通して九七式中戦車とそのマイナーチェンジ型から更新されることはなかった。1942年7月には満州方面の2個戦車師団等を隷下とする機甲軍が編成されたが、1943年10月に廃止された。1944年(昭和19年)7月6日には、本土決戦に備えて千葉陸軍戦車学校などの教導部隊を改編し、戦車第4師団の編成が下令された。戦車連隊3個を基幹にするものの歩兵を欠き、砲兵も最初から分属させるなど戦車第1・第2・第3師団と較べて全く異なる編制で、独立戦闘力のある機甲師団とは呼びがたいものだった。その他にもフランス、自由フランス、カナダ、イタリア、ハンガリー、ルーマニア、フィンランド、ブルガリア、自由ポーランドが機甲師団を保有した。戦車の高性能化が進み、随伴する歩兵や砲兵も進化を遂げた。歩兵部隊は、トラックから装甲兵員輸送車に搭乗するようになり、さらには重武装の歩兵戦闘車が登場している。また、大砲についても、牽引式の大砲は減少し、自走砲化され軽度の装甲をも持つようになった。対戦車砲は対戦車ミサイルに取って代わられるなど、各兵器の武装のミサイル化が進んだ。「ヘイル・ハシリオン」(, "Heil HaShiryon") ことの歴史は1948年の第一次中東戦争当時イギリス軍から色仕掛けで騙し取ったり、世界中から「スクラップ」として購入、再生させた雑多な戦車からなる部隊を編成したことに始まる。当時のイスラエル国防軍はハガナーなど地下武装組織から発展、設立されたばかりだったため戦車・野砲といった重火器は不足しており、したがって第一次中東戦争での戦車運用は歩兵支援に留まっていた。1956年の第二次中東戦争当初も、参謀総長モシェ・ダヤンをはじめとして「戦車は歩兵の支援兵器」といった考えが根強かったが、の攻防戦などにおいて戦車部隊による機動戦の有効性が証明され、さっそくダヤンは、、といった有能な将校を多数機甲科に転科させ、戦車部隊の強化を図った。1967年、第三次中東戦争が勃発する。イスラエル軍は航空部隊や歩兵部隊などとの密接な連携により、シナイ半島では3個機甲師団が「イスラエル版電撃戦」とも呼ばれる快進撃を果たし、わずか六日間で戦争はイスラエルの圧倒的勝利に終わった。だがこの勝利によりイスラエル軍は「オールタンク・ドクトリン」に代表されるように戦車偏重主義に走り、他部隊との連携が軽視されがちとなった。1973年、第四次中東戦争が勃発。この戦争はイスラエル機甲軍だけでなく世界の機甲軍にとっても貴重な戦訓をもたらした戦争であった。緒戦においてスエズ運河を渡河したエジプト軍の歩兵部隊はRPG-7対戦車擲弾発射器、AT-3対戦車ミサイル、B-10無反動砲などの多種多様な対戦車火器によって濃密な対戦車防衛網を築き、歩兵・砲兵の支援もなく突撃してきたイスラエル軍の戦車をことごとく撃破した。一方ゴラン高原においては、第7機甲旅団とが圧倒的戦力差のシリア軍の前に奮戦し、シリア軍に多大な損害を与えた。戦争後半においてイスラエル軍は見事な機動戦を展開し、かろうじて軍事的には勝利を収めたものの、戦車部隊の被害は甚大であった。この戦争での戦死者約2500人のうち、1500人が戦車兵であった。イスラエルの人的資源の問題(後述)から兵員の死傷は看過できぬ問題であった。第四次中東戦争以降イスラエルは大規模な地上戦こそ経験していないが、1982年のレバノン内戦、2006年の第二次レバノン内戦、2014年のガザ侵攻などにおける市街戦でも戦車を多数投入しており、現在でも戦車兵の能力は高いレベルにあると推測される。イスラエルの戦車開発において特筆すべきは、国情が非常に色濃く反映された兵器体系にある。四方を地中海と砂漠、そして「イスラエル抹殺」を唱えるアラブ諸国に囲まれているイスラエルは人口が800万(2013年、うち20%がアラブ人)であり、アラブ側に比べるとユダヤ人の人的資源は非常に乏しく、兵器も同様の理由から「無駄遣い」をするわけにはいかなかった。こうした事情の中生まれたのが、M4中戦車にフランス製の強力な主砲を搭載したM50/M51スーパーシャーマンであり、センチュリオンやパットンをそれぞれ砂漠戦用に徹底的に改良したショットやマガフであり、アラブ側から鹵獲したT-55を改良したチランであり、そして「人命第一」をコンセプトに開発されたメルカバシリーズである。兵器の再利用にも熱心であり、旧式化したスーパーシャーマンは155mm自走砲ソルタムの車体として、ショットやチランはそれぞれナグマホン、アチザリット兵員輸送車のベースとして使われ、今なお現役である。これらの「魔改造」とも称されるイスラエル軍の戦車開発・改良は数々の実戦経験だけでなく、「イスラエル戦車開発の父」といわれるイスラエル・タル将軍の尽力によるところが大きい。現在でも市街戦対策として、メルカバには部隊間のデータリンクシステムや「トロフィー」アクティブ防御システムの装備が進められている。イスラエルの師団の多くは「機甲師団」に分類される。ROAD計画による一般師団をもとに、アメリカ軍は、1970年代後半より、重装備の機甲師団を欧州正面に配備した。これらの編制は、アメリカ陸軍の新しい戦闘教義である"アクティブ・ディフェンス"・ドクトリンに基づいて決定された。これは、WTO軍の攻勢正面に対して、他方面から転用した部隊を速やかに投入して反撃・阻止するというものである。このためには、兵力の抽出・転用を速やかに行なう必要があることから、機甲騎兵大隊と航空大隊が追加されたほか、砲兵はいずれも自走化され、直接支援砲兵としては155mm自走榴弾砲、全般支援砲兵としては203mm自走榴弾砲が配備された。ただし、"アクティブ・ディフェンス"・ドクトリンに対しては、といった懸念が抱かれていた。機甲師団いわゆる86年型師団(Division 86)である。これは、アメリカ陸軍が1980年代初頭より採択した新しい戦闘教義である"エア・ランド・バトル"・ドクトリンに対応して編制された。欧州正面において、ソ連陸軍の突進を阻止することを主眼としており、非常な重装備部隊である。また、現代のアメリカ陸軍においては、歩兵師団の名称がついていても戦車の保有量が多いため、実質は機械化歩兵師団となっている(湾岸戦争時におけるアメリカ機甲師団は6個戦車大隊・4個機械化歩兵大隊で構成、機械化歩兵師団は5個戦車大隊・5個機械化歩兵大隊で構成され、差異は少ない)。"エア・ランド・バトル"・ドクトリンは、アクティブ・ディフェンスを発展させて策定されたものであり、師団編制においては、航空部隊の旅団への格上げと、師団砲兵としてMLRSが配備されたことが大きな変化である。これらの部隊は、湾岸戦争にも投入された。2008年、アメリカ陸軍は、ピーター・シューメーカー陸軍参謀総長の指揮下に、モジュラー・フォース改編を発動した。これによって、アメリカ陸軍師団は、歩兵旅団戦闘団、ストライカー旅団戦闘団、機甲旅団戦闘団(2012年に重旅団戦闘団より改称)の3種類の旅団戦闘団を組み合わせた編制に改められた。現在のアメリカ陸軍には、機甲旅団戦闘団のみによって編成された師団は3個機甲旅団戦闘団よりなる第1騎兵師団のみであり、第1機甲師団は、4個旅団戦闘団のうち、2個が機甲旅団戦闘団、1個がストライカー旅団戦闘団、1個が歩兵旅団戦闘団となっている。1980年代のイラク軍の機甲師団はT-72戦車を中心に編成。イラン・イラク戦争(デズフールの戦いなど)を戦い抜いたほか、湾岸戦争に先立つクウェート侵攻時には、第二次世界大戦以降最も成功したとされる電撃作戦の主役となった。しかし、戦果という点では、後に反攻体制に入った多国籍軍(特に前述のアメリカ陸軍)が上塗りを行い、イラク軍の機甲師団があっさりと撃破されるに及び、価値は無きに等しいものとなった。日本においては北海道に陸上自衛隊第7師団が編成されているが、これは事実上の機甲師団である。自衛隊における唯一の機動打撃部隊であり、北海道防衛の要と考えられていた。90式戦車を装備する3個戦車連隊、89式装甲戦闘車をふくむ1個普通科連隊(実質的な機械化歩兵連隊)を基幹とし、特科・高射特科もふくめて、全部隊が機械化されている。但し、人員6500名弱と旅団規模である事、戦車部隊に随伴すべき普通科部隊や特科部隊の規模の小さいことなどの問題も指摘されている。
出典:wikipedia
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