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ムハンマド・ジア=ウル=ハク

ムハンマド・ジア=ウル=ハク(ウルドゥー語:محمد ضياء الحق、英:Muhammad Zia-ul-Haq、1924年8月12日 - 1988年8月17日)は、パキスタンの軍人、政治家、大統領。クーデターで権力を握り独裁的軍事政権を樹立した。大統領在任中はイスラム化を推し進めるとともに経済再建を行った。この間ソ連・アフガン戦争での抵抗運動へ直接関与し、これに伴う西側からの援助もあって経済は安定した。その後政治が不安定化する中で事故死した。名前について一部専門家や一部団体は、「ズィヤーウル・ハック」との表記を用いている。イギリス支配下のインドに、英印軍総指令部に勤めるムハンマド・アクバルの子として生まれた。シムラーとデリーで教育を受けた。1943年英印軍に入り第二次世界大戦に従軍した。パキスタン独立後パキスタン軍に入り、少将となる。1962年から1964年までアメリカ合衆国陸軍で学び、帰国後士官学校教官となる。1965年の第二次印パ戦争では戦車隊の司令官となった。1967年から1970年まで(黒い九月事件当時)ヨルダンに派遣されてヨルダン軍を訓練した。1973年、ムルターンの第1機甲師団司令官。1975年中将に昇進した。1976年にはズルフィカール・アリー・ブットー首相により、年長の将軍たちを抜いて陸軍参謀長に任命された。当時ブットー首相は失政批判にさらされ、与党パキスタン人民党(PPP)内にまで批判が増していった。党内の対立者が狙撃され父が死亡する事件が起こり、ブットーが指図したのではないかと疑われた。また北西辺境州とバローチスターン州の混乱収拾のために派遣された軍隊が虐殺を行ったと非難された。1977年の選挙では与党が勝ったが、不正があったと訴えられ、混乱はさらに増した。イスラム教指導者たちもブットー退陣を主張した。この中で1977年7月5日、ハク配下の軍隊がクーデターを決行し、無血のうちに成功した。ブットーと閣僚たちは逮捕された。戒厳令が敷かれてハクが戒厳司令官となり、国会を解散し憲法を停止した。選挙のやり直しを約束したが、結局は無期限延期された。一部政治家は不正の疑いで政治活動を禁止された。ブットー夫人らはクーデターが無効であるとして訴えたが、最高裁判所は「当時の政治的混乱では必要な措置であった」として合法とした。ブットー政権崩壊後も大統領は職に留まったが、任期満了により1978年9月16日辞任した。後を継いでハクが大統領に就任した。その後7年にわたり彼は憲法に代わる大統領令を度々出して大統領権限を強化した。1979年4月4日、ブットーは暗殺の罪により最高裁判所から有罪判決を受け、処刑された。これは現在では政治主導の判決といわれている。ハクは大統領としてまずバローチスターンの分離主義運動に直面したが、封建的軍閥を経済援助などで懐柔した。また軍の有力者ラヒームッディーン・ハーン将軍をバローチスターンの戒厳司令官に任じ、ラヒームッディーンの政策により封建支配階級は政治から完全に切り離されることになった。ハク政権下ではブットー時代の国有化政策は次第に撤回された。さらにソ連・アフガン戦争に伴う援助もあって経済は順調に発展し、1977年から1986年のGNPは平均6.2%という世界的にも高い成長率を記録した。ハクは1980年、国会に代わり大統領諮問機関、マジュリセ・シューラー(Majlis-e-Shoora:上院)を設置することにした。メンバーは全員が大統領により指名された。1984年には国民投票を実施し、ハク大統領およびシャリーア(イスラム法)の導入に対する賛否を問うた。結果は95%以上が彼を支持した。ハク政権はそれまでのイギリス的法体系に代わり、シャリーア(イスラム法)体系を導入していった。まず1979年、シャリーア法廷を設置した。さらに右手の切除、石打ち死刑などの刑罰が導入された。1980年代にも刑法の改訂が数回行われ、イスラムに関する不敬や、異端派アフマディーヤがムスリムと自称することなどが禁じられた。またハク自身はシーア派に対しても敵対的と見られていた。1984年には、アフマディーヤの活動を禁止する命令を出した。アフマディーヤは既に1974年、イスラム教ではないとされていたが、これにより国内の活動が禁止され、4代カリフのミルザー・ターヒル・アフマドがイギリスへ移ったのを始め、信者多数が西側諸国へ亡命を余儀なくされた。現在でもこの法令は解除されていない。ハクは経済にもイスラム化を進めた。1979年に一部金融機関にイスラム金融制度を導入、1981年には国営銀行の利子を廃止した。さらに1985年には利子を全廃した。1979年12月25日ソビエト連邦軍がアフガニスタンに進攻し、パキスタン領内にも難民が流入した。閣内には反対もあったが、ハクはソ連の脅威に対抗するためとして、ソ連と対立していた中華人民共和国の協力も得ながらアフガニスタンの義勇兵ムジャーヒディーンへの資金・軍事援助に踏み切った。反ソ連を旗印とするハクの国際的地位は急上昇した。アメリカのカーター政権はそれまで核問題により凍結していたパキスタン援助を開始することとした。また3億ドルの援助をパキスタンに申し出たが、ハクはこれを少なすぎると拒絶した。次のレーガン政権ははるかに積極的で、パキスタンは6年で32億ドルの援助をとりつけ、F-16ジェット戦闘機も供与された。レーガンは新たな共産主義ブロックの出現を恐れ、パキスタンがアメリカの代理として戦うことを要請した。パキスタン軍統合情報局(ISI)はアメリカの中央情報局(CIA)や陸軍諜報機関と協力してソ連に立ち向かうこととなった。初めアフガニスタンの制空権はソ連に握られていたが、1986年にムジャーヒディーンがスティンガーミサイルを手に入れてから状況は次第に逆転した。ソ連軍は1988年ついに撤退した。この戦争によりパキスタン国内には大量の武器が残った。また麻薬取引が盛んになり、抵抗組織の一部が麻薬組織に変わることになった。1990年代初めにはムジャーヒディーンがターリバーンやアルカーイダに形を変える。これらはハク政権のイスラム化政策ともあいまって、1990年代以降イスラム原理主義がパキスタン国内に広がる素地となった。パキスタンの核武装計画はインドを恐れたブットーが始めたものであるが、ハク政権も積極的に進め、核開発計画の責任者アブドゥル・カディール・カーン博士を中国におくって技術援助を受けており、ウラン濃縮施設もハクによりカーン研究所と改称された。カーンはその後も20年以上この仕事に携わり、1998年には初の核実験を行うことになる。1985年には政党によらない選挙を実施した。対立政党のほとんどは選挙のボイコットを決めたが、当選者の多くが実際は何らかの政党に属す結果となった。彼はその中から、当時はハクの言いなりになる人物といわれたを首相に指名した。さらに戒厳令は解除され、形式的には民政が復活したが、まだ軍人主導の政治体制であった。自由化を主張する声は次第に高まり、1988年になるとハク大統領と批判的になったジュネージョー首相の関係も険悪になった。5月29日、国会は解散され、11年ぶりの普通選挙が約束された。ジュネージョー首相は解任されたが、表向きの理由はジュネージョー内閣がイスラム化を渋ったためとされる。6月18日ハクはイスラム法の完全導入を宣言した。ブットーの娘ベーナジール・ブットーはすでに1986年帰国していたが、急激に人気を集め、またソ連の撤退により援助も減ったことから、ハクの政治的立場は苦しくなった。このような状況の中、ハクは1988年8月17日、飛行機墜落事故で急死した。パンジャーブ州バハーワルプールで軍のパレードに参加した後、アメリカ合衆国大使らとともにC-130ハーキュリーズに搭乗し離陸した直後墜落し、全員が死亡したものである。当時は暗殺説もささやかれたが、飛行機の故障によるとされる。次の大統領となったが死去を公式発表し、8月19日イスラマバードで葬儀が行われ、ファイサル・モスクに埋葬された。ハクの2人の息子は政界に入り、その一人ムハンマド・イージャーズ=ウル=ハクはナワーズ・シャリーフ政権の閣僚となっている。

出典:wikipedia

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