『日本誌』(にほんし)とは、エンゲルベルト・ケンペル(エンゲルベアト・ケンプファー)が執筆した書物。17~18世紀に日本に渡った際、日本での見聞をまとめたものである。エンゲルベルト・ケンペルは長崎の出島のオランダ商館に勤務したドイツ人医師である。彼の遺品の多くは遺族により、3代のイギリス国王(アンからジョージ2世)に仕えた侍医で熱心な収集家だったハンス・スローンに売られた。1727年、遺稿を英語に訳させたスローンによりロンドンで出版された『日本誌』("The History of Japan")は、フランス語、オランダ語にも訳された。ドイツの啓蒙思想家ドームが、甥ヨハン・ヘルマンによって書かれた草稿を見つけ、1777‐79年にドイツ語版("Geschichte und Beschreibung von Japan")を出版した。『日本誌』は、特にフランス語版("Histoire naturelle, civile, et ecclesiastique de I'empire du Japon")が出版されたことと、ディドロの『百科全書』の日本関連項目の記述が、ほぼ全て『日本誌』を典拠としたことが原動力となって、知識人の間で一世を風靡し、ゲーテ、カント、ヴォルテール、モンテスキューらも愛読し、19世紀のジャポニスムに繋がってゆく。学問的にも、既に絶滅したと考えられていたイチョウが日本に生えていることは「生きている化石」の発見と受け取られ、ケンペルに遅れること約140年後に日本に渡ったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトにも大きな影響を与えた。シーボルトはその著書で、この同国の先人を顕彰している。ケンペルは著書の中で、日本には、聖職的皇帝(=天皇)と世俗的皇帝(=将軍)の「二人の支配者」がいると紹介した。その『日本誌』の中に付録として収録された日本の対外関係に関する論文は、徳川綱吉治政時の日本の対外政策を肯定したもので、『日本誌』出版後、ヨーロッパのみならず、日本にも影響を与えることとなった。また、『日本誌』のオランダ語版("De Beschryving Van Japan")を底本として、志筑忠雄は享和元年(1801)にこの付録論文を訳出し、題名があまりに長いことから文中に適当な言葉を探し、「鎖国論」と名付けた。日本語における「鎖国」という言葉は、ここに誕生した。なお、欧州において、オランダ東インド会社は、1799年に同社を解散するまで、時には日本列島の一部を時には全島を同社のチェーンランド(英;a land chain、蘭;een Land keten)として宣伝していたことが知られている。また、1727年の英訳に所収された「シャム王国誌」("A Description of The Kingdom of Siam")は同時代のタイに関する記録としては珍しく「非カトリック・非フランス的」な視点から書かれており、タイの歴史に関する貴重な情報源となっている。スローンが購入したケンペルの収集品は大部分が大英博物館に所蔵されている。一方ドイツに残っていた膨大な蔵書類は差し押さえにあい、散逸してしまった。ただし彼のメモや書類はデトモルトに現存する。その原稿の校訂は最近も行われており、「日本誌」は彼の遺稿と英語の初版とではかなりの違いがあることが分かっている。2001年に彼が残したオリジナル版が初めて発表された。故郷レムゴーには彼を顕彰してその名を冠したギムナジウムがある。邦訳は2001年に、今井正編訳『日本誌 日本の歴史と紀行』全7冊が、霞ケ関出版・古典叢書で刊行されたが、これはドーム版に基づいて翻訳されたものであり、ケンペル自筆原稿と内容が異なる。現在では、ヴォルフガング・ミヒェルが中心となって2001年に発表した原典批判版「今日の日本」(Heutiges Japan)、それに加えてケンペル全集や、大英図書館に所蔵された各種ケンペル史料に基づいて研究を進めていくのが、世界的なケンペル研究のスタンダードとなっている。17~18世紀のヨーロッパ人も、中国人と同様、日本人の万世一系の皇統とその異例な古さという観念を受け入れた。『日本書紀』は、神武天皇が帝国を創建した紀元前660年の第一月第一日を王朝の起点とした。聖徳太子は、この日付を初めて定式化した。その日本建国の日付を西暦に計算しなおして紀元前660年としたのは、ヨーロッパ人である。『日本誌』では以下のように説明している。さらに、歴代天皇の名前と略伝を日本語の文献に登場するとおりに列記しているのである。
出典:wikipedia
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