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大江貞奥

大江 貞奥(生年不詳-建武元年(1334年))は、伝承によると因幡守大江広元の末孫。官位は正三位。大江氏は大江音人を祖とする。1332年、後醍醐天皇が隠岐島に流されたとき、供奉の公卿16人が雲州大社より諸国へ配流のうち美濃国へ3人、中納言大江貞奥は同国岐礼庄(現在の岐阜県揖斐川町)に流され同地白谷に居住、建武元年に死去した。同年、貞奥卿を祭神とする白倉神社が建立された。美濃明細記に「大野郡岐礼村白倉神社山本中納言藤原貞奥霊神後醍醐天皇奉移隠岐国時岐礼配流建武元年薨山本判官貞元称桜待中納言子孫美濃有称山本云々」とある。後醍醐天皇は隠岐島より脱出後、流人16人を召し返され嫡男判官貞元が参勤した。八代元右衛門貞時、足利義満の命を受け数度の合戦にて功を立て、革手合戦の恩賞により岐礼庄六百貫を賜り応永10年(1403)白倉明神を大社に再建した。武田信玄の軍師山本勘助は、貞奥より11代末孫で美濃守土岐頼芸の近習であった山本数馬貞正の弟で、一時川牛の城主不破河内守の養子となった山本小次郎貞光の子であるとの伝承がある。写真家の山本悍右は、この山本家の貞奥より本家25代目である。(「長瀬誌」、「土岐氏主流の史考」、「山本氏本家系図」、神社庁記録、より)「長瀬誌」による。実線は実子、点線は養子。また「長瀬誌」の著者は、調査研究の結果、山本勘助に関する伝承の記載がある資材と人名事典による記事内容が甚だよく似ていることから、武将の山本勘助晴幸が山本中納言大江貞奥の後裔であることは史実に近いのでは無いかと述べている。

出典:wikipedia

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