後藤 光貴(ごとう みつたか、1974年8月27日 - )は、福井県出身の元プロ野球選手(投手)。現在は、埼玉西武ライオンズのスカウト。鯖江高では捕手。2年秋には福井県大会で優勝し、北信越大会に進むが松井秀喜の本塁打などで星稜高校に敗れた。当時のエースとバッテリーで新日本製鐵堺に入社したが、足を活かして内野手へ転向。チームが廃部となるもまだ実績がなく、多くの選手のように同社の他チームへは移籍できなかった。当時の監督が動き、大和銀行へ転籍。チーム事情から強肩を買われて投手に転向した。1998年には社会人野球日本選手権大会へ出場。同年秋はプロ入りを期待するも後述のような事情で逃す。翌年春にはシドニー五輪強化選手としてオリックスのキャンプへ参加。1999年のドラフト会議で西武ライオンズに7位指名され入団。6月25日のオリックス・ブルーウェーブ戦でプロ初登板を果たし2回1/3を無失点に抑えた。10月13日の同戦で初先発し7回2失点の好投を見せたが敗戦投手となった。この年は前述の2試合の登板に留まった。7月27日の日本ハムファイターズ戦で10回表2死に6番手で登板し、1/3を無失点に抑えてその裏にチームがサヨナラ勝ちし、プロ初勝利を挙げた。9月4日の大阪近鉄バファローズ戦では先発で初勝利を飾った。最終的に同年は中継ぎを中心に起用され先発でも6試合に登板した。最終的に35試合で3勝2敗・防御率2.49の成績を残した。8月27日の千葉ロッテマリーンズではプロ入り初完投を初完封で飾った。最終的に先発ローテーション入りし17試合に登板し7勝2敗・防御率3.38の成績をマークし、チームのリーグ優勝に貢献した。読売ジャイアンツとの日本シリーズでは第1戦に中継ぎで登板し2回無失点に抑えたがこの1試合のみの登板に留まった。また、チームはストレートの4連敗で日本一を逃した。にはプロ入り初の規定投球回に到達し、こちらも初となる2ケタ10勝を挙げた。チェンジアップを自在に操って驚異の奪三振率を誇った。は故障の影響で6試合の登板に留まり防御率も6点近くと不調で3勝2敗の成績に終わった。チームはリーグ2位でこの年からパ・リーグに導入されたプレーオフを制して2年ぶりにリーグ優勝し、中日ドラゴンズとの日本シリーズも制して12年ぶりの日本一に輝いたが後藤はいずれもポストシーズンでの登板はなかった。開幕直後に河原純一との交換トレードで読売ジャイアンツに移籍した。4月10日の中日戦で移籍後初登板初先発を果たすも6回5失点でKOされ敗戦投手となった。その後も好投しても勝ち投手になれないなど2軍降格し、わずか5試合の登板で1勝も挙げられずオフに戦力外通告を受けた。その後金銭トレードで西武に復帰した。しかしはオープン戦での不調が響き2軍スタートとなった。この年は1軍登板できず、レギュラーシーズン終了後に戦力外通告を受け、現役を引退した。西武の関西地区スカウトに就任した。スカウトの担当選手には浅村栄斗、金子侑司がいる。本来は1998年のドラフト会議で西武ライオンズの指名を受けるはずだったが、直前に福岡ダイエーホークスが同じ大和銀行の水田章雄を先に指名した。ドラフトでは事前の了承を得ないと同一社会人チームからは複数人の選手をドラフトで指名することが出来ないというルールがあり、西武は大和銀行に対して事前の了承を得ていなかったため後藤の指名は無効となってしまった。結局、翌1999年のドラフト会議で改めて指名を受けた。
出典:wikipedia
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