荘襄王(そうじょうおう)は、中国戦国時代の秦の第30代の君主、第5代の王。始皇帝の父(義父との説あり、詳細は後述)。姓は嬴(えい)、諱は始め異人(いじん)、後に子楚(しそ)。子に秦王政・長安君成蟜。昭襄王の代に、太子・安国君(後の孝文王)の子として生まれた。安国君には20人以上の子があった上に母の夏姫が安国君から気にいられなくなり、異人は趙の人質として捨て駒のごとく出され、みずぼらしい服装をしていた。それを邯鄲で目にしたのが大商人であった呂不韋である。呂不韋は父に相談し「これは珍しい価値を生み出す人物だ。我々が投資すべきだ(奇貨居くべし)」と言い、異人と接触。彼に投資をして趙での名声を上げた上に、安国君に気にいられていた華陽夫人と呂不韋が接触。そのとき、呂不韋の投資で名声を聞いていた華陽夫人に対し「あなたには高齢の安国君との間に子供がおりません。安国君が亡くなった場合にあなたに子供がいない場合、あなたの立場は悪くなるでしょう。そうなる前に異人のような名声のある人物を養子にされて太子にさせれば、あなたの立場は安全でしょう」と告げた。それを聞いた華陽夫人が安国君に頼み込み、華陽夫人の養子として異人をもらい受け、異人が安国君の跡継ぎに指名されることになった。その際、華陽夫人の生国である楚にちなみ、子楚と改名した。子楚が安国君の太子になったのと前後して、子楚は呂不韋が連れてきた芸者(趙姫)を気に入った。それが政(始皇帝)の母である。だが、その女は呂不韋とも関係を持っていて、呂不韋に対して子を身ごもったと伝えていた。そのため、政の実父が呂不韋であるという説が今でも残っている。そして、紀元前259年1月に政が誕生した。紀元前258年、秦が趙を攻め邯鄲を包囲。趙では子楚殺害を決定したために、呂不韋は子楚を秦へ逃がすために趙の役人に大金をつぎ込み買収して秦へ逃亡させ、政親子は趙の豪族にかくまうようにさせ、無事を計った。紀元前252年、昭襄王が死去し、安国君が孝文王となり、子楚が太子となった。紀元前250年、孝文王がわずか1年で没し、子楚が荘襄王、呂不韋が丞相、義母の華陽夫人が華陽后から華陽太后、実母の夏姫を夏太后、政が太子となった。政が太子となると聞くと趙は驚き、政親子を秦に送り返した。荘襄王は昭襄王・孝文王の政権を引き継ぐ形になり、これまでの功臣をそのまま登用し、魏・韓・趙を攻め、東周を滅ぼし、三川郡を設置する。ただし、東周の王族は存続させた。更にかつての長平の戦いの舞台となった上党の地を完全制圧し、上党郡や太原郡を設置する。紀元前247年に荘襄王即位後の戦争で37もの城を奪われた魏の信陵君が5ヶ国をまとめ上げて秦を攻め、蒙驁(蒙恬の祖父)率いる軍を破り函谷関まで秦を追い詰めた()。しかし、秦が信陵君と魏の安釐王が不仲だという噂を聞きつけ、信陵君と安釐王を引き離す為の流言を流し、信陵君を政治から引き離す事に成功している。同年5月丙午、死去。在位はわずか3年であった。
出典:wikipedia
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