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涼波 (駆逐艦)

涼波(すずなみ)は、日本海軍の駆逐艦。夕雲型の10番艦である。艦名は、日本海軍の艦艇としては初代。海上自衛隊の護衛艦「すずなみ」に継承された。1939年度(マル4計画)仮称第126号艦として浦賀船渠で建造。1943年(昭和18年)2月5日、命名。同日附で他の潜水艦や海防艦と共に艦艇類別等級表に類別される。6月25日、浦賀船渠に設置された涼波艤装員事務所において事務を開始。日本海軍は7月1日附で、高雄型重巡洋艦2番艦「愛宕」水雷長、白露型駆逐艦10番艦「涼風」艦長、白露型5番艦「春雨」艦長等を歴任した神山昌雄中佐(海軍兵学校51期)を、涼波艤装員長に任命する。7月27日、竣工。舞鶴鎮守府籍となる。同日附で涼波艤装員事務所を撤去。神山中佐は涼波駆逐艦長(初代)に補職。主要幹部は、新宮恒雄大尉(機関長)、永渕国二大尉(砲術長)、山田進中尉(水雷長)、伊藤実中尉(航海長)。竣工後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(司令官木村進少将《海軍兵学校40期》)に編入。横須賀で出動準備をおこなったのち、瀬戸内海に回航。また姉妹艦2隻(早波、藤波)も第十一水雷戦隊に編入。内南洋部隊編入中の第6駆逐隊を除き、第十一水雷戦隊(龍田、霞《9月1日附で第9駆逐隊に編入》、若月《8月15日附で第61駆逐隊編入》、涼波、早波、藤波、響《8月中旬、内地帰投》)は日本本土で訓練に従事。8月17日、主力部隊(戦艦3隻《大和、長門、扶桑》、空母《大鷹》 、巡洋艦3隻《愛宕、高雄、能代》、駆逐艦部隊《涼風、海風、秋雲、夕雲、若月、天津風、初風》)は呉を出撃、トラックに向かう。 第十一水雷戦隊(早波、涼波、藤波、霞)は主力部隊航路前方の哨戒に従事した。8月18日、第十一水雷戦隊旗艦は「龍田」から吹雪型駆逐艦22番艦「響」に変更。日本海軍は8月20日付で夕雲型3隻(涼波、早波、藤波)により第32駆逐隊を編成する。初代第32駆司令は、白露型駆逐艦4番艦「夕立」初代艦長や陽炎型駆逐艦10番艦「時津風」初代艦長等を歴任した中原義一郎大佐(海軍兵学校48期)(7月8日まで第24駆逐隊司令)。翌8月21日、駆逐艦4隻(響《旗艦》、涼波、藤波、早波)は扶桑型戦艦2番艦「山城」(横須賀在泊)の内海西部回航を護衛するため、島風型駆逐艦「島風」の訓練に協力しつつ、横須賀に回航。8月22日、同地着。8月26日、5隻(山城《第11水雷戦隊旗艦》、響、涼波、藤波、早波)は横須賀を出発。8月27日、瀬戸内海に到着した。その後も、第十一水雷戦隊(龍田、響、涼波、藤波、早波)は訓練を実施。9月30日付で、第32駆逐隊は第二水雷戦隊(司令官高間完少将《海軍兵学校41期》)に編入される。引き続き第十一水雷戦隊の指揮を受けた。10月1日、第32駆逐隊に夕雲型9番艦「玉波」が編入され、同隊は夕雲型4隻(涼波、藤波、早波、玉波)を揃えた。ただし「玉波」は空母「隼鷹」等を護衛しており、32駆本隊とは別行動である。9月下旬、連合艦隊は戦艦2隻(山城、伊勢)と第十一水雷戦隊により丁三号輸送部隊を編成。10月15日、丁三号輸送部隊(山城《第十一水雷戦隊旗艦》、伊勢《航空戦艦》、龍田、第32駆逐隊《早波、涼波、藤波》は佐伯および豊後水道を出撃。10月20日、トラック諸島に到着。戦艦搭載の物件を各艦と輸送船4隻に移載。第十一水雷戦隊(龍田《旗艦》、早波、涼波、藤波)は10月20日から23日にかけて(23日ポナペ発。24日トラック帰着)、第二次輸送は十一水戦3隻(龍田、早波、涼波)により26日から27日にかけて(27日ポナペ発、28日トラック着)、ポナペ(ポンペイ島)への陸軍部隊輸送に従事した。10月28日、丁三号輸送部隊は解散。同日附で第32駆逐隊は第二水雷戦隊に復帰する。遊撃部隊警戒隊所属。第十一水雷戦隊(龍田、山城、伊勢)は空母2隻(隼鷹、雲鷹)等と共に内地へ戻った。第32駆逐隊(早波、涼波、藤波)は10月29日に高間完少将(第二水雷戦隊司令官)の、10月30日に栗田健男中将(第二艦隊司令長官)の視察を受ける。10月31日時点の第二水雷戦隊は、阿賀野型軽巡洋艦2番艦「能代」(旗艦)と島風型「島風」、第24駆逐隊(海風、涼風、満潮)、第27駆逐隊(時雨、五月雨、白露)、第31駆逐隊(大波、巻波、長波)、第32駆逐隊(早波、涼波、玉波、藤波)で編制され、各地に分散して行動していた。11月3日、第二水雷戦隊(能代、涼波、藤波、早波、玉波)は、第二艦隊司令長官栗田健男中将指揮下の重巡洋艦部隊(愛宕《第二艦隊旗艦》、高雄、摩耶、鳥海、鈴谷、最上、筑摩)と共にトラック泊地を出撃。ラバウルへ進出する。途中、「島風」と「天津風」が護衛していたタンカー2隻のうち、「日章丸」(昭和タンカー、10,526トン)がカビエン北方約180浬地点で空襲を受けて損傷。「涼波」と高雄型重巡洋艦3番艦「鳥海」は遊撃部隊から分離。「天津風」座乗の第16駆逐隊司令(島居威美大佐)指揮下に入り、「日章丸」の救援を行った。11月5日、第38任務部隊(フレデリック・シャーマン少将)はラバウルに対する空襲を敢行(ラバウル空襲)。同日朝6時頃にラバウルへ到着したばかりの栗田艦隊は大打撃を受けた。2隻(鳥海、涼波)は日章丸救援作業を終えてラバウルに向かう途中であったが、空襲を避けるためトラックに引き返すよう命じられた。11月7日(8日とも)、トラックに帰投する。間もなくラバウルへ再進出し、11月9日に到着した。この頃、11月5日の空襲に満足した南太平洋軍司令官ウィリアム・ハルゼー大将は、更なる戦果拡大を狙って太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将に新手の空母任務部隊の派遣を要請。ニミッツ大将はギルバート諸島方面の戦況をにらみつつ、第50.3任務部隊(アルフレッド・E・モントゴメリー少将)を派遣することに決した。11月11日早朝、第2回のラバウル空襲が行われた。第38任務部隊はブーゲンビル島北方から、第50.3任務部隊は同島南方から挟み撃ちの格好で艦載機を発進させた。シャーマン隊は悪天候のため失敗したが、モンゴメリー隊(185機)はラバウル在泊艦艇に攻撃を加える。これに対し、ラバウルから発進した日本軍偵察機は第50.3任務部隊を発見。第二水雷戦隊(能代、第31駆逐隊《大波、長波、巻波》、第32駆逐隊《早波、涼波、玉波、藤波》)はろ号作戦協力のため出動準備を整えていたが、米軍機動部隊の空襲を予期し、折からのスコールにまぎれてラバウル港外に脱出しつつあった。「涼波」は北水道を通過し、ラバウル湾外に向け航行。7時5分、タブルブル山(花吹山)方面から来襲した雷撃機を撃墜した。間もなく雷撃機の一隊が「涼波」を来襲し、発射された魚雷のうち3本を回避したが、残る1本が一番魚雷発射管付近に命中。爆発により左に傾き、また予備魚雷格納所から火災が発生した。さらに急降下爆撃と機銃掃射を受け、爆弾一発が後部電信室付近に命中した。つづいて7時15分、「長波」に爆弾1発が命中して航行不能となる。7時21分頃、「涼波」では予備魚雷格納所からの火災が一番発射管に引火して搭載の魚雷が爆発、船体は両断されて7時22分頃に沈没した。駆逐艦長神山昌雄中佐や水雷長以下209名が戦死(約100名とも)。約100名(11月12日時点で106名)が夕雲型7番艦「大波」(大波駆逐艦長吉川潔中佐。第三次ソロモン海戦時の「夕立」艦長)に救助された。また本空襲で阿賀野型軽巡洋艦1番艦「阿賀野」が魚雷命中により艦尾切断の被害を受け、夕雲型4番艦「長波」が大破(前述)。南東方面艦隊(司令長官草鹿任一中将)の下令によりラバウル在泊艦艇(能代、阿賀野、摩耶《11月5日空襲で大破、ラバウル在泊》、長鯨、浦風、若月、風雲、早波、藤波、五月雨)はトラック泊地に撤退し。ラバウルに残る第二水雷戦隊は第31駆逐隊(大波、巻波、長波《航行不能状態》)となった。このうち夕雲型2隻(大波、巻波)も11月24日のセント・ジョージ岬沖海戦で沈没、「長波」のみラバウルに取り残された。本艦の沈没により第32駆逐隊は3隻編制となったが、12月15日附で夕雲型13番艦「浜波」を編入し、定数4隻を回復した。「涼波」は1944年(昭和19年)1月5日附で夕雲型駆逐艦、帝国駆逐艦籍、第32駆逐隊のそれぞれから除籍された。

出典:wikipedia

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