藤波(ふじなみ)は、日本海軍の駆逐艦。夕雲型駆逐艦(一等駆逐艦)の11番艦である。夕雲型駆逐艦「藤波」は日本海軍の駆逐艦。太平洋戦争中の1943年(昭和18年)7月末に竣工し、訓練部隊の第十一水雷戦隊に所属。8月20日より夕雲型駆逐艦で編制された第32駆逐隊に所属。第32駆逐隊は第二水雷戦隊に編入後、各方面の輸送作戦や船団護衛に従事しつつ、1944年(昭和19年)6月下旬のマリアナ沖海戦や、10月中旬以降の捷号作戦(レイテ沖海戦)に参加する。10月25日、サマール島沖海戦で重巡洋艦「鳥海」が航行不能になると、「藤波」は鳥海乗組員を救助して退避。だが単艦航行中に米軍機動部隊艦載機の攻撃を受け沈没し、藤波・鳥海乗組員総員が戦死した。1939年度(マル4計画)仮称第127号艦として藤永田造船所で建造される。1943年(昭和18年)3月5日、日本海軍は川崎重工業(神戸川崎造船所)で建造の航空母艦を大鳳、藤永田造船所の夕雲型駆逐艦11番艦を藤波、三菱重工業長崎造船所で建造の秋月型駆逐艦7番艦を霜月と命名。さらに3隻(大鳳、藤波、霜月)等は艦艇類別等級表に登録された。7月1日、日本海軍は松崎辰治中佐(海軍兵学校52期)を藤波艤装員長に任命する。7月3日、藤永田造船所内に設置中の藤波艤装員事務所は事務を開始。7月31日、竣工。松崎艤装員長は制式に藤波駆逐艦長(初代)となる。初代主要幹部は、玉井幸男大尉(機関長)、前田圭造中尉(砲術長)、栗田義文中尉(水雷長)、橋本正熙中尉(航海長)。同日、艤装員事務所を撤去。舞鶴鎮守府籍。1943年(昭和18年)7月31日、竣工した夕雲型11番艦「藤波」と夕雲型12番艦「早波」(早波艦長清水逸郎中佐、海兵51期)は、第十一水雷戦隊に編入。第十一水雷戦隊(司令官木村進少将《海軍兵学校40期》)は駆逐艦の訓練を主任務とする水雷戦隊で、本艦編入の直前に夕雲型10番艦「涼波」(涼波艦長神山昌雄中佐、海兵51期)も、十一水戦に加わっている。内南洋部隊編入中の第6駆逐隊を除き、第十一水雷戦隊(龍田、霞《9月1日附で第9駆逐隊に編入》、若月《8月15日附で第61駆逐隊編入》、涼波、早波、藤波、響《8月中旬、内地帰投》)は日本本土で訓練に従事。8月17日、主力部隊(戦艦3隻《大和、長門、扶桑》、空母《大鷹》 、巡洋艦3隻《愛宕、高雄、能代》、駆逐艦部隊《涼風、海風、秋雲、夕雲、若月、天津風、初風》)は呉を出撃、トラックに向かった。 第十一水雷戦隊(早波、涼波、藤波、霞)は主力部隊航路前方の哨戒に従事した。8月18日、第十一水雷戦隊旗艦は「龍田」から吹雪型駆逐艦22番艦「響」に変更。8月20日、日本海軍は夕雲型3隻(涼波、早波、藤波)により第32駆逐隊を編成する。初代第32駆司令は、白露型駆逐艦4番艦夕立初代艦長や陽炎型駆逐艦10番艦時津風初代艦長等を歴任した中原義一郎大佐(海軍兵学校48期)(7月8日まで第24駆逐隊司令)。翌8月21日、駆逐艦4隻(響《旗艦》、涼波、藤波、早波)は扶桑型戦艦2番艦「山城」(横須賀在泊)の内海西部回航を護衛するため、島風型駆逐艦島風の訓練に協力しつつ、横須賀に回航。8月22日、同地着。8月26日、5隻(山城《第11水雷戦隊旗艦》、響、涼波、藤波、早波)は横須賀を出発。8月27日、瀬戸内海に到着した。その後も、第十一水雷戦隊各艦は訓練を実施。9月30日付で、第32駆逐隊は第二水雷戦隊(司令官高間完少将《海軍兵学校41期》)に編入される。引き続き第十一水雷戦隊の指揮を受けた。10月1日、第32駆逐隊に夕雲型9番艦「玉波」(玉波艦長青木久治中佐、海兵50期)が編入され、同隊は夕雲型4隻(涼波、藤波、早波、玉波)を揃えた。ただし、「玉波」は空母隼鷹等を護衛しており、32駆本隊とは別行動である。9月下旬、連合艦隊は戦艦2隻(山城、伊勢)と第十一水雷戦隊により丁三号輸送部隊を編成。10月15日、丁三号輸送部隊(山城《第十一水雷戦隊旗艦》、伊勢《航空戦艦》、龍田《軽巡》、第32駆逐隊《早波、涼波、藤波》は佐伯および豊後水道を出撃。10月20日、トラック諸島に到着。戦艦搭載の物件を各艦と輸送船4隻に移載。第十一水雷戦隊(龍田《旗艦》、早波、涼波、藤波)は10月20日から23日にかけて第一次ポナペ輸送(ポナペ(ポンペイ島))を実施した(23日ポナペ発。24日トラック帰着)。本艦は第二次ポナペ輸送には参加しなかった。10月28日、丁三号輸送部隊は解散。同日附で第32駆逐隊は第二水雷戦隊に復帰する。遊撃部隊警戒隊所属。第十一水雷戦隊(龍田、山城、伊勢)は空母2隻(隼鷹、雲鷹)等と共に内地へ戻った。第32駆逐隊(早波、涼波、藤波)は10月29日に高間完少将(第二水雷戦隊司令官)の、10月30日に栗田健男中将(第二艦隊司令長官)の視察を受ける。10月31日時点の第二水雷戦隊は、阿賀野型軽巡洋艦2番艦「能代」(旗艦)と島風型駆逐艦「島風」、第24駆逐隊(海風、涼風、満潮)、第27駆逐隊(時雨、五月雨、白露)、第31駆逐隊(大波、巻波、長波)、第32駆逐隊(早波、涼波、玉波、藤波)で編制され、各地に分散して行動していた。11月3日、第二水雷戦隊(能代、涼波、藤波、早波、玉波)は、第二艦隊司令長官栗田健男中将指揮下の重巡洋艦部隊(愛宕《第二艦隊旗艦》、高雄、摩耶、鳥海、鈴谷、最上、筑摩)と共にトラック泊地を出撃。ラバウルへ進出する。途中、日章丸(昭和タンカー、10,526トン)がカビエン北方約180浬地点で空襲を受けて損傷し、2隻(涼波、鳥海)が遊撃部隊から分離して救援に向かった。11月5日、第38任務部隊(フレデリック・シャーマン少将)はラバウルに対する空襲を敢行した(ラバウル空襲)。同日朝6時頃にラバウルへ到着したばかりの栗田艦隊は大打撃を受けた。特に摩耶は直撃弾により機関部で火災が発生、航行不能となった。「藤波」には魚雷1本が命中したが、不発だった(戦死1名、負傷9名)。南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将は、ラバウル移動中の2隻(鳥海、涼波)を含めてラバウル所在の重巡洋艦部隊にトラック泊地への撤退を命じた。栗田艦隊はトラック泊地へ帰投。修理を必要とする「藤波」は摩耶等とラバウルに残留した。同時期、タロキナ岬(ブーゲンビル島)に対する逆上陸作戦が実施されたが、藤波は修理のため参加できなかった。11月11日早朝、第50.3任務部隊(アルフレッド・E・モントゴメリー少将)の増援を受けたアメリカ軍機動部隊は、第2回目のラバウル空襲を敢行した。第二水雷戦隊(能代、第31駆逐隊《大波、長波、巻波》、第32駆逐隊《早波、涼波、玉波、藤波》)はろ号作戦協力のため出動準備を整えていたが、アメリカ軍機動部隊の空襲を予期し、空襲警報を受けてスコールにまぎれながらラバウル港外に脱出しつつあった。このラバウル空襲で阿賀野型軽巡洋艦1番艦「阿賀野」が魚雷命中により艦尾切断の損害を受ける。また夕雲型10番艦「涼波」(第32駆逐隊)が沈没している。夕雲型4番艦「長波」(第31駆逐隊)も大破し、他数隻に軽微な被害があった。南東方面艦隊(司令長官草鹿任一中将)の下令によりラバウル在泊艦艇(能代、阿賀野、摩耶、長鯨、浦風、若月、風雲、早波、藤波、五月雨)はトラック泊地に撤退。退却の途中、アメリカの潜水艦スキャンプ ("USS Scamp, SS-277") の雷撃で「阿賀野」が航行不能となった。第二水雷戦隊(能代、早波、藤波)は摩耶・長鯨護衛を中断、2隻(阿賀野《航行不能》、浦風《臨時十戦隊旗艦》)の救援にあたった。一連の経過により、ラバウルに残る第二水雷戦隊は第31駆逐隊(大波、巻波、長波《航行不能状態》)となった。このうち夕雲型2隻(大波、巻波)も11月24日のセント・ジョージ岬沖海戦で沈没し、長波のみラバウルに取り残された。また涼波沈没により第32駆逐隊は3隻編制となったが、12月15日附で夕雲型13番艦「浜波」(浜波艦長本倉正義中佐。時津風沈没時艦長。海兵51期)を編入し、定数4隻を回復した。トラックに帰投後の第二水雷戦隊(能代、第32駆逐隊《早波、藤波》)はクェゼリン環礁およびウォッジェ環礁への緊急輸送作戦に参加した。輸送作戦終了後の12月4日、遊撃部隊と分離してサイパン島への輸送に従事。サイパン島とトラック間での船団護衛を行った。12月24日、トラック泊地到着。本艦が船団護衛任務従事中の12月15日、第二水雷戦隊司令官高間完少将は第十一水雷戦隊司令官へ転任。後任の二水戦司令官は、長門型戦艦1番艦長門艦長早川幹夫少将(早川は、第一次ソロモン海戦時の重巡鳥海艦長)。12月23日-24日、陸軍部隊を輸送するため、第五戦隊司令官橋本信太郎少将が指揮する戊二号輸送部隊の5隻(重巡3隻《妙高、羽黒、利根》、駆逐艦2隻《時雨、白露》)は呉を出撃呉を出港。ところが、時雨(第27駆逐隊司令原為一大佐)が漁船と衝突し修理のため引き返した。12月25日、「藤波」は戊二号輸送部隊に編入、サイパン方面対潜掃蕩任務を島風型「島風」(第二水雷戦隊)に引き継ぐ。トラック泊地を出動した「藤波」は、28日に戊二号輸送部隊と合流した。12月29日、本艦を加えた戊二号輸送部隊はトラック泊地に到着する。1944年(昭和19年)1月2日、戊号二号輸送部隊(重巡《妙高、羽黒、利根》、駆逐艦《白露、藤波》)はトラック泊地を出撃。4日にカビエンに到着。同部隊は第22駆逐隊(文月、皐月)の支援を受けていた。アメリカ軍機動部隊艦載機約80機は利根以下戊二号輸送部隊を発見できず、第22駆逐隊(皐月、文月)を襲撃。両艦とも損傷、皐月艦長飯野忠男少佐も戦死した。1月5日、戊二号輸送部隊は被害なくトラック泊地に戻った。1月10日、駆逐艦2隻(藤波、満潮)は大和型戦艦1番艦「大和」を護衛してトラックを出港。1月15日、呉に帰投した。本艦は呉で整備に従事。続いて、横須賀行きの第130乙船団を護衛。2月4日からは第二海上護衛隊の指揮下に入る。悪天候で待機したあと、2月6日にトラック行きの第3206船団を護衛して館山を出港した。ところが、トラックを目前にした2月16日、3206船団はアメリカの潜水艦タング ("USS Tang, SS-306") の雷撃で暁天丸(拿捕船、6,854トン)が沈没した。「藤波」は人員救助と対潜掃討を行った後船団を追ったが、2月17日、トラック西方沖に到達した所でトラック島空襲で飛来してきた第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の艦載機の一群につかまり、辰羽丸(辰馬汽船、5,784トン)と瑞海丸(東亜海運、2,812トン)を失った。2月18日、「藤波」はトラックに到着した。2月19日から20日、「藤波」は峯風型駆逐艦9番艦「秋風」」と共に、パラオに下がる工作艦「明石」と標的艦「波勝」を護衛してトラックを出港。途中合流の白露型5番艦「春雨」(第27駆逐隊)を加え、2月24日にパラオに到着した。しばらくパラオで待機。だが、パラオにもアメリカ機動部隊の空襲の危機(パラオ大空襲)が迫ってきたため3月29日に第二艦隊(栗田健男中将・海兵38期)麾下の第四戦隊(愛宕、高雄、鳥海)や第二水雷戦隊(春雨、白露、満潮、藤波)、大和型戦艦2番艦「武蔵」(連合艦隊旗艦。連合艦隊長官古賀峯一大将、福留繁参謀長はパラオ陸上に残留)と第17駆逐隊(浜風、谷風、浦風、磯風)はパラオを出港してダバオに向かった。しかし出港直後に第17駆逐隊(浜風、谷風、浦風、磯風)が護衛していた「武蔵」が、アメリカの潜水艦タニー ("USS Tunny, SS-282") の雷撃で損傷した。駆逐艦3隻(藤波、満潮、白露)は第17駆逐隊と武蔵護衛任務を交代。4隻(武蔵、白露、藤波、満潮)は艦隊から分離して内地へ向かう。古賀長官が殉職した海軍乙事件後の4月3日、武蔵以下4隻(武蔵、満潮、藤波、白露)は呉へ帰投した。4月15日、第32駆逐隊司令は中原義一郎大佐から折田常雄大佐(秋月型2番艦照月沈没時艦長)に交代。中原大佐は5月8日附で長良型1番艦長良艦長となるが、8月7日の同艦沈没時に戦死した(海軍中将へ特進)。その後、「藤波」は上海に移動し、マニラ、ハルマヘラ島行きの竹一船団の護衛に就く。護衛任務終了後、5月18日にタウイタウイ到着、第二艦隊に合流する。6月6日深夜、タウイタウイ近海で睦月型駆逐艦6番艦「水無月」が対潜攻撃中に消息不明となり(水無月は後にハーダーの雷撃で撃沈された。)、夕雲型12番艦「早波」(第32駆逐隊司令駆逐艦)も捜索と対潜哨戒のため出動したが、6月7日昼頃、潜水艦ハーダー("USS Harder, SS-257")の雷撃で撃沈された。第32駆逐隊は2隻編制(藤波、浜波)となった。また早波沈没時に艦長の清水逸郎中佐と折田大佐(第32駆逐隊司令)が戦死した(海軍少将に進級)。第32駆逐隊は、一時駆逐隊司令不在となった。そこで玉波艦長青木久治中佐(海兵50期)が6月15日附で第32駆逐隊司令に転任、早波艦長として着任予定だった千本木十三四中佐(海兵52期)が玉波艦長となった。6月19日のマリアナ沖海戦では、丙部隊(第三航空戦隊、第二艦隊主力)に所属して第二艦隊司令長官栗田健男中将(愛宕座乗)直率の第四戦隊(愛宕《第二艦隊旗艦》、高雄、摩耶、鳥海)、第三航空戦隊(司令官大林末雄少将:千歳、千代田、瑞鳳)、第一戦隊(司令官宇垣纏中将:大和、武蔵)、第三戦隊(司令官鈴木義尾少将:金剛、榛名)、第七戦隊(司令官白石万隆少将:熊野、鈴谷、利根、筑摩)、第二水雷戦隊(司令官早川幹夫少将:旗艦《能代》、第31駆逐隊《長波、岸波、朝霜、沖波》、第32駆逐隊《藤波、玉波、浜波》、附属《島風》)と行動を共にする。海戦は惨敗。前衛部隊は、6月20日の戦闘で3隻(千代田、榛名、摩耶)に爆弾命中や至近弾による損害があった。日本艦隊は6月22日に中城湾に入港。翌23日、第32駆逐隊(玉波、藤波)は出港、6月25日にマニラに到着した。さらに昭南に回航された。7月2日以降、球磨型軽巡洋艦3番艦「北上」と第32駆逐隊(玉波、藤波)は、昭南からマニラ経由で日本に向かう旭東丸(飯野海運、10,051トン)の護衛に従事した。ところが7月7日未明、マニラ到着を目前にアメリカの潜水艦ミンゴ ("USS Mingo, SS-261")の雷撃で「玉波」が沈没(青木32駆司令戦死、千本木艦長戦死)。第32駆逐隊は夕雲型2隻(藤波、浜波)となった。同日、北上以下船団はマニラに到着。「北上」は修理のためマニラに残留した。7月10日、駆逐艦3隻(藤波、響、夕凪)は、旭東丸と速吸を護衛してマニラを出港。5隻(旭東丸、速吸、藤波、響、夕凪)はサンベルナルジノ海峡を経由して、7月17日に呉に帰投した。8月8日、大鷹型航空母艦1番艦「大鷹」、駆逐艦3隻(藤波、夕凪、朝風《マニラ合流》)と海防艦9隻とともに、タンカー4隻(速吸、帝洋丸《日東汽船、9,849トン》、永洋丸《8,627トン》、あづさ丸、帝亜丸《帝国船舶、元フランス船アラミス/日本郵船委託、17,537トン》)、陸軍特殊船、貨物船、給糧艦伊良湖などからなる重要船団『ヒ71船団』(指揮官:第六護衛船団司令官梶岡定道少将)は門司を出撃。馬公で加入船の顔ぶれを少し改めた後、8月17日朝に出港。8月18日朝、被雷した「永洋丸」と同船護衛を命じられた「夕凪」が分離。つづいて同日夜、バシー海峡からルソン島沿岸に至るまでの間にアメリカのラッシャー ("USS Rasher, SS-269") 、ブルーフィッシュ ("USS Bluefish, SS-222") 、スペードフィッシュ ("USS Spadefish, SS-411") の3隻の潜水艦の猛攻を受け大鷹・速吸・帝亜丸・帝洋丸・陸軍特殊船玉津丸(大阪商船、9,589トン)が沈没して大混乱に陥った。「藤波」もなんとかマニラに到着して船団を再構成し、8月25日に出港した。しかし、マニラから新たに加わったタンカーの旭邦丸(飯野海運、10,059トン)が故障を起こして船団から一時脱落し、再合流するまで「旭邦丸」の護衛にあたった。船団は9月1日に昭南に到着し、藤波はその後リンガ泊地で第二艦隊に合流した。藤波航海中の8月25日、白露型6番艦「五月雨」の座礁沈没により同型2番艦「時雨」1隻となった第27駆逐隊より、同駆逐隊司令大島一太郎大佐(海兵50期)が第32駆逐隊司令に任命される。当時の第32駆逐隊は前述のように消耗を続け、夕雲型2隻(浜波、藤波)だけになっていた。10月18日、捷一号作戦発動に伴って、第二艦隊司令長官栗田健男中将(旗艦愛宕)を指揮官とする第一遊撃部隊はリンガ泊地から出動し、で補給の後、10月22日に出撃した。レイテ沖海戦における藤波は、第一遊撃部隊第一部隊(第四戦隊《愛宕、高雄、鳥海、摩耶》、第一戦隊《大和、武蔵、長門》、第五戦隊《妙高、羽黒》、第二水雷戦隊《能代、島風、第2駆逐隊〔早霜、秋霜〕、第31駆逐隊〔岸波、沖波、朝霜、長波〕、第32駆逐隊〔藤波、浜波〕)に属して戦闘に参加した。10月23日、アメリカの潜水艦2隻(ダーター、デ―ス)の襲撃により第四戦隊の高雄型重巡洋艦3隻は大打撃を受けた(沈没《愛宕、摩耶》、大破《高雄》)。「高雄」および護衛の31駆2隻(朝霜、長波)はブルネイに向け退避を開始。残存した「鳥海」は第五戦隊(司令官橋本信太郎少将)の指揮下に入った。また愛宕脱出後の栗田艦隊司令部(栗田長官、小柳冨次参謀長等)は岸波を経て大和(第一戦隊旗艦)に移乗、同艦より指揮をとる。10月24日のレイテ沖海戦・シブヤン海空襲では栗田長官(大和座乗)の第一部隊(第一戦隊《大和、武蔵、長門》、第五戦隊《妙高、羽黒、鳥海〔臨時編入〕》、第二水雷戦隊《能代〔旗艦〕、第2駆逐隊〔早霜、秋霜〕、第31駆逐隊〔岸波、沖波〕、第32駆逐隊〔浜波、藤波〕、島風型〔島風〕》)としてアメリカ軍機と交戦、武蔵が沈没、3隻損傷離脱(妙高、浜風、清霜)という損害を受けた。10月25日、サマール沖海戦により栗田艦隊は重巡洋艦3隻(鈴谷、筑摩、鳥海)が航行不能となり、「熊野」と「早霜」が大破して戦場を離脱した。「沖波」は鈴谷救援、「野分」は筑摩救援、「藤波」は鳥海救援を命じられ、それぞれ航行不能各艦に向かった。同時刻、カサブランカ級航空母艦19番艦「ガンビア・ベイ」が栗田艦隊の砲撃を受けて沈没。ヒューグ大佐(ガンビア・ベイ艦長)以下脱出者は空襲を受けて漂流する巡洋艦(鳥海)と護衛の駆逐艦(藤波)を目撃している。19時17分、第一遊撃部隊指揮官(栗田中将)は、航行不能艦の処分許可と警戒艦のコロン湾回航を命じる。「藤波」は鳥海乗組員を救助後、夜になり「鳥海」に対する雷撃処分を実施した。鳥海沈没の様子はガンビア・ベイ生存者も目撃していた。本艦は栗田艦隊本隊から落伍しつつ、最上型4番艦「熊野」警戒艦に指定され、コロン島に帰投することとなった。翌日、救援艦2隻(藤波、野分)は撃沈されたため、4隻(鳥海、筑摩、藤波、野分)がどのようにして沈没したのか、詳細は不明である。沖波・鈴谷生存者の記録によれば藤波の沈没状況は以下のとおりである。10月26日14時、救助した鈴谷乗組員(約400名)を満載して単艦航海中の「沖波」(第31駆逐隊)は、セミララ島(ミンドロ島南方)に座礁した夕雲型17番艦「早霜」(第2駆逐隊)を発見して接近。「沖波」は乏しい燃料の中から「早霜」に対し燃料補給を開始する。この時、2隻(早霜、沖波)は「藤波」が約10km程沖合を西方向に航行するのを発見した。14時30分、「藤波」は空襲を受け2隻(早霜、沖波)の目前で轟沈した。藤波・鳥海ともに1人の生存者もいなかったという。またアメリカ軍機も2隻を襲ってきたため、「沖波」は横付を離して回避した。単艦でコロン島へ向かった。同時刻、ミンドロ島南方では最上型重巡洋艦4番艦「熊野」(第七戦隊)が空襲を受け航行不能となっていた。「熊野」からは新たに出現した敵機約40が同艦には近づかず、水平線上の別目標に急降下爆撃を行う光景が見えたという。こうして藤波・鳥海乗組員は全滅した。同様に、筑摩乗組員を救助して退避中の「野分」もハルゼー提督直率の米水上艦隊に補足され、撃沈された(野分乗組員全滅。筑摩乗組員も、航空機搭乗員以下数名をのぞき全員戦死)。第一戦隊司令官宇垣纏中将は陣中日誌「戦藻録」において、10月26日の戦闘を以下の様に記述している。同日夕刻、第十六戦隊(鬼怒、浦波)救援のため陽炎型駆逐艦2番艦「不知火」(第一水雷戦隊、第18駆逐隊司令駆逐艦)はコロン湾を出撃。10月27日、「不知火」はセミララ島近海で擱座した「早霜」を発見、救援中に米軍機動部隊艦載機の攻撃を受けて撃沈された(第18駆逐隊司令および不知火全乗組員戦死)。また一部文献によると、「藤波」は「早霜」を救援しようと試みた結果10月27日になって「不知火」と共に撃沈されたとする。11月11日、多号作戦に従事していた「浜波」も空襲により島風・長波・若月と共にオルモック湾で沈没した。11月15日、第32駆逐隊は解隊された。書類上在籍していた浜波は第31駆逐隊に転出、同隊は夕雲型駆逐艦4隻(長波《11月11日沈没》、岸波《12月4日沈没》、沖波《11月13日大破着底》、浜波《11月11日沈没》)編制となった。12月10日、「藤波」は夕雲型駆逐艦、帝国駆逐艦籍より除籍された。
出典:wikipedia
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