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早波 (駆逐艦)

早波(はやなみ)は、日本海軍の駆逐艦。一等駆逐艦「早波」は夕雲型駆逐艦の12番艦。1943年(昭和18年)7月末に竣工。訓練部隊の第十一水雷戦隊に所属後、8月20日附で新編された第32駆逐隊に所属。トラック泊地進出後、第二水雷戦隊各艦と共に行動する。1944年(昭和19年)1月末よりパラオ、サイパン、ボルネオ諸島方面への船団護衛任務に従事した。6月7日、タウイタウイ泊地周辺で対潜掃蕩中、米潜水艦ハーダーの雷撃で沈没した。1942年度(マル急計画)仮称第340号艦として、1942年(昭和17年)1月15日、舞鶴海軍工廠で起工。舞鶴海軍工廠は本艦をふくめ夕雲型6隻(夕雲、巻波、早波、浜波、沖波、早霜)の建造を担当した。7月10日、建造中の駆逐艦(第340号艦)は「早波」と命名される。同日附で夕雲型駆逐艦に類別。7月18日、舞鶴で島風型「島風」が進水した。12月19日、「早波」は進水。同日附で、制式に舞鶴鎮守府籍となる。1943年(昭和18年)6月25日、日本海軍は駆逐艦複数隻(卯月、曙、海風)艦長等を歴任した清水逸郎中佐(海軍兵学校第51期生)を早波艤装員長に任命する。6月28日、舞鶴海軍工廠に早波艤装員事務所を設置。7月31日、竣工。清水中佐(早波艤装員長)は制式に早波駆逐艦長となる。主要初代幹部は、水雷長金井利夫大尉、航海長玉木博大尉、機関長花田茂美大尉、砲術長大片幸司中尉、軍医長神田豊(軍医中尉)。同日、艤装員事務所を撤去。舞鶴海軍工廠は秋月型駆逐艦や松型駆逐艦の建造と並行して、夕雲型3隻(早波《7月31日》、浜波《10月15日》、沖波《12月10日》)を立て続けに完成させることになった。本艦竣工と同日(7月31日)、藤永田造船所で夕雲型11番艦「藤波」(藤波艦長松崎辰治中佐。海兵52期)も竣工。夕雲型2隻(早波、藤波)は訓練部隊の第十一水雷戦隊(司令官木村進少将・海軍兵学校40期)に編入。内南洋部隊編入中の第6駆逐隊を除き、第十一水雷戦隊(龍田、霞《9月1日附で第9駆逐隊に編入》、若月《8月15日附で第61駆逐隊編入》、涼波《7月27日編入》、早波、藤波、響《8月中旬、内地帰投》)は日本本土で訓練に従事。8月17日、主力部隊(戦艦3隻《大和、長門、扶桑》、空母《大鷹》 、巡洋艦3隻《愛宕、高雄、能代》、駆逐艦部隊《涼風、海風、秋雲、夕雲、若月、天津風、初風》)は呉を出撃、トラックに向かう。 第十一水雷戦隊(早波、涼波、藤波、霞)は主力部隊航路前方の哨戒に従事した。8月18日、第十一水雷戦隊旗艦は「龍田」から吹雪型駆逐艦22番艦「響」に変更。8月20日、日本海軍は夕雲型3隻(涼波、早波、藤波)により第32駆逐隊を編成する。初代第32駆司令は、白露型駆逐艦4番艦「夕立」初代艦長や陽炎型駆逐艦10番艦「時津風」初代艦長等を歴任した中原義一郎大佐(海軍兵学校48期)(7月8日まで第24駆逐隊司令)。8月21日、駆逐艦4隻(響《旗艦》、涼波、藤波、早波)は扶桑型戦艦2番艦「山城」(横須賀在泊)の内海西部回航を護衛するため、島風型駆逐艦「島風」の訓練に協力しつつ、横須賀に回航。8月22日、同地着。8月26日、5隻(山城《第11水雷戦隊旗艦》、響、涼波、藤波、早波)は横須賀を出発。8月27日、瀬戸内海に到着した。その後も、第十一水雷戦隊各艦は訓練を実施。9月30日付で、第32駆逐隊は第二水雷戦隊(司令官高間完少将《海軍兵学校41期》)に編入される。引き続き第十一水雷戦隊の指揮を受けた。また10月1日附で第32駆逐隊に夕雲型9番艦「玉波」(玉波艦長青木久治中佐、海兵50期)が編入され、同隊は夕雲型4隻(涼波、藤波、早波、玉波)を揃えた。ただし「玉波」は空母「隼鷹」等を護衛しており、32駆本隊とは別行動である。9月下旬、連合艦隊は戦艦2隻(山城、伊勢)と第十一水雷戦隊により丁三号輸送部隊を編成。10月15日、丁三号輸送部隊(山城《第十一水雷戦隊旗艦》、伊勢《航空戦艦》、龍田《軽巡》、第32駆逐隊《早波、涼波、藤波》は佐伯および豊後水道を出撃。10月20日、トラック諸島に到着。戦艦搭載の物件を各艦と輸送船4隻に移載。第十一水雷戦隊(龍田《旗艦》、早波、涼波、藤波)はポナペ輸送(ポンペイ島)を実施した。10月28日、丁三号輸送部隊は解散。同日附で第32駆逐隊は第二水雷戦隊に復帰する。遊撃部隊警戒隊所属。第十一水雷戦隊(龍田、山城、伊勢)は空母2隻(隼鷹、雲鷹)等と共に内地へ戻っていった。1943年(昭和18年)10月31日~11月1日、連合軍はタロキナ岬(ブーゲンビル島)に上陸を開始、ブーゲンビル島の戦いが始まる。連合艦隊司令長官古賀峯一大将は、第一航空戦隊航空戦力を南東方面に投入し、つづいてトラック泊地の主力艦艇も南東方面に投入することを決定した。 11月3日午前7時45日、第二艦隊司令長官栗田健男中将(愛宕座乗)指揮下の重巡洋艦部隊(第四戦隊《愛宕、高雄、摩耶、鳥海》、第七戦隊《鈴谷、最上》、第八戦隊《筑摩》)、第二水雷戦隊(軽巡洋艦《能代》、駆逐艦《玉波、涼波、早波、藤波》)はトラック泊地を出撃。航行中の4日午前、航行不能となったタンカー「日章丸」救援に2隻(鳥海、涼波)を分離。11月5日午前6時頃、栗田長官指揮下の遊撃部隊はラバウルに到着した。同日午前7時、空母2隻(サラトガ、プリンストン)を基幹とするアメリカ機動部隊(第38任務部隊)はラバウル在泊艦艇に対する空襲を敢行する。栗田艦隊の重巡部隊は各艦とも損害をうける(愛宕、高雄、摩耶、最上、筑摩、能代被弾等)。南東方面艦隊長官草鹿任一中将は栗田艦隊(ラバウル進出中の鳥海を含む)のトラック泊地帰投を下令。「摩耶」を除く重巡各艦は11月7日―8日にかけてトラック泊地に戻った(愛宕は7日昼前に到着)。11月11日早朝、第50.3任務部隊(アルフレッド・E・モントゴメリー少将)の増援を受けた米軍機動部隊は、第2回目のラバウル空襲を敢行。この空襲で阿賀野型軽巡洋艦1番艦「阿賀野」が魚雷命中により艦尾切断。夕雲型10番艦「涼波」(第32駆逐隊)が沈没。夕雲型4番艦「長波」(第31駆逐隊)が大破。他数隻に軽微な被害があった。南東方面艦隊(司令長官草鹿任一中将)の下令によりラバウル在泊艦艇(能代、阿賀野、摩耶、長鯨、浦風、若月、風雲、早波、藤波、五月雨)はトラック泊地に撤退。退却の途中、アメリカの潜水艦スキャンプ ("USS Scamp, SS-277") の雷撃で軽巡「阿賀野」は航行不能となる。第二水雷戦隊(能代、早波、藤波)は摩耶・長鯨護衛を中断、2隻(阿賀野《航行不能》、浦風《臨時十戦隊旗艦》)の救援にあたった。一連の経過により、ラバウルに残る第二水雷戦隊は第31駆逐隊(大波、巻波、長波《航行不能状態》)となった。このうち夕雲型2隻(大波、巻波)も11月24日のセント・ジョージ岬沖海戦で沈没、「長波」のみラバウルに取り残された。また「涼波」の沈没により第32駆逐隊は3隻編制となったが、12月15日附で夕雲型駆逐艦13番艦「浜波」(浜波艦長本倉正義中佐。時津風沈没時艦長。海兵51期)を編入し、定数4隻(早波、藤波、玉波、浜波)を回復した。トラックに帰投後の第二水雷戦隊(能代、第32駆逐隊《早波、藤波》)はクェゼリン環礁およびウォッジェ環礁への緊急輸送作戦に参加した。12月5日、トラック泊地に帰投。12月11日、本艦は「日栄丸」を護衛してトラック泊地を出発、パラオへむかう。12月14日、2隻(早波、日本丸)はパラオ到着。同日、「玄洋丸」護衛のためパラオを出撃(翌日合流)、途中で吹雪型駆逐艦23番艦「雷」(第6駆逐隊)と護衛任務を引き継ぎパラオに戻った(17日到着)。本艦が船団護衛任務従事中の12月15日、第二水雷戦隊司令官高間完少将は第十一水雷戦隊司令官へ転任。後任の二水戦司令官は、長門型戦艦1番艦「長門」艦長早川幹夫少将となる。12月20日、「早波」はパラオを出発。洋上で島風型「島風」(第二水雷戦隊)より「健洋丸」護衛任務を引き継ぐ(島風はトラック泊地へ帰投)。12月22日、2隻(早波、健洋丸)はパラオに到着。12月23日、本艦は油槽船3隻(石廊、日本丸、健洋丸)を護衛してパラオを出発。25日まで護衛したあと、26日にパラオへ戻った。12月28日、パラオを出発。翌日、日栄丸船団と合同し吹雪型駆逐艦15番艦「天霧」より護衛任務を引き継いだ。1944年(昭和19年)1月2日、早波以下日栄丸船団は第102号哨戒艇(元アメリカ駆逐艦「スチュワート」)と合流。第102号哨戒艇は日栄丸船団(日栄丸、旭東丸)を護衛してバリクパパンへ向かい、本艦は富士山丸船団(富士山丸、神国丸、あけぼの丸)を護衛してトラックに向かう。1月3日、富士山丸船団と分離して2隻(早波、あけぼの丸)はパラオに回航(1月4日到着)。同時期、バリクパパンからパラオを経てトラックへと向かう国洋丸(国洋汽船、10,026トン)、日本丸(山下汽船、9,971トン)および健洋丸(国洋汽船、10,024トン)からなる輸送船団を第102号哨戒艇と共に護衛する任務に就くため、第32駆逐隊司令指揮下の2隻(早波、島風)は1月11日にパラオを出撃。船団に第7駆逐隊(曙、漣)が加わる予定であった。1月12日、合流地点で2隻(早波、島風)は第102号哨戒艇と護衛任務をひきつぐ。この船団をガードフィッシュ("USS Guardfish, SS-217")、アルバコア("USS Albacore, SS-218")、スキャンプ ("USS Scamp, SS-277")で構成されたウルフパックが狙っていた。1月14日、アルバコアの雷撃によって「漣」が沈没。油槽船2隻(日本丸、健洋丸)も相次いで沈没。2隻(早波、島風)は敵潜水艦の制圧に向かったが、結果的に逃走を許している。その後、「島風」はパラオへ帰還。「早波」は生き残った「国洋丸」と「曙」、同じく救援に来た白露型駆逐艦5番艦「春雨」(第27駆逐隊)と共にトラックへ向かった(1月17日到着)。だが本艦は日本軍の艦上爆撃機に誤爆されて小型爆弾が命中、軽微の被害を受けた。1月18日、第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将指揮下の横須賀回航部隊(軽巡《能代》、空母《瑞鳳、雲鷹》、駆逐艦《早波、若葉、初霜》)はトラック泊地を出発。1月19日、同航していた大鷹型航空母艦2番艦「雲鷹」が米潜水艦(ハダック)の雷撃で損傷。早川少将は2隻(瑞鳳、若葉)を横須賀に先行させ、能代隊(能代、雲鷹、早波、初霜)は1月20日にサイパン到着。駆逐艦2隻(早波、初霜)は対潜掃蕩と警戒に従事した。翌日、2隻(能代、早波)は雲鷹隊(雲鷹、初霜、海風《救難のため到着》)を残して出発。1月24日、2隻(能代、早波)は横須賀に帰投。修理と整備を行う。2月5日、修理完了。2月14日、早川少将は第二水雷戦隊旗艦を「能代」(横須賀で修理中)から高雄型重巡洋艦1番艦「高雄」に変更。2月15日、2隻(高雄、早波)は横須賀を出撃してパラオに進出する。20日に到着後、第二水雷戦隊旗艦は高雄型3番艦「鳥海」となった(能代復帰まで)。2月23日、トラック島空襲(2月17日-18日)によりトラック泊地から脱出した水上機母艦「秋津洲」救援のため「早波」はパラオを出撃。24日、「秋津洲」と合同し、翌日2隻(秋津洲、早波)はパラオに到着した。4月15日、第32駆逐隊司令は中原義一郎大佐から折田常雄大佐(秋月型2番艦「照月」沈没時艦長)に交代。中原大佐は5月8日附で長良型1番艦「長良」艦長となるが、8月7日の同艦沈没時に戦死した(海軍中将へ特進)。5月18日、第一機動艦隊(司令長官小沢治三郎中将・海兵37期)、第二艦隊(司令長官栗田健男中将・海兵38期)の大部分を護衛してタウイタウイに進出し、訓練を続けた。6月7日、「早波」は米潜水艦攻撃に向かったまま行方不明となった睦月型駆逐艦6番艦「水無月」(第22駆逐隊)の捜索と対潜掃討に従事していた。この時、外洋ではサミュエル・D・ディーレイ艦長指揮下のアメリカ潜水艦ハーダー ("USS Harder, SS-257") が哨戒を行っていた。ハーダーは前日(6月6日)にシブツ海峡でタンカー船団を発見して攻撃し、「水無月」を撃沈していた。折からのスコールを抜けたハーダーは、航空機を発見して潜航。一時間後、ハーダーは潜望鏡で「吹雪型駆逐艦」、すなわち「早波」を発見する。ハーダーは戦闘配置を令し、様子を伺うと「早波」は真一文字に潜望鏡めがけて突進してくる。11時34分、ハーダーは600メートル足らずの距離で早波の真正面めがけて5秒おきに魚雷を3本発射。そのうちの2本が命中し、「早波」は艦後部を先にして沈没した。第一戦隊司令官宇垣纏中将(戦艦「大和」座乗)は陣中日誌「戦藻録」に水無月・早波撃沈を以下のように記録している。第32駆逐隊司令折田常雄大佐(海軍少将へ進級)と早波艦長清水逸郎中佐(海軍大佐へ進級)以下253名が戦死し、45名が救助された。ハーダーの戦闘報告では、発見されてから撃沈までわずか9分から12分の出来事だったと記している。折田司令の戦死により、第32駆逐隊は駆逐隊司令不在となった。そこで夕雲型9番艦「玉波」艦長青木久治中佐(海兵50期)が6月15日附で第32駆逐隊司令に転任。日本海軍は6月10日附で早波駆逐艦長を清水逸郎中佐から千本木十三四中佐(海兵52期)に交代させる人事を発令していたが(清水中佐は海軍艦政本部出仕)、青木中佐の32駆司令着任に伴い、千本木少佐が玉波艦長となる。7月7日、船団護衛中の「玉波」はアメリカ潜水艦ミンゴ ("USS Mingo, SS-261")に撃沈され、青木司令・千本木艦長共に戦死した。8月10日、「早波」は夕雲型駆逐艦、第32駆逐隊、帝国駆逐艦籍のそれぞれより除籍された。

出典:wikipedia

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