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朝霜 (駆逐艦)

朝霜(あさしも)は、日本海軍の駆逐艦。夕雲型駆逐艦(一等駆逐艦夕雲型)の16番艦である。戦艦大和(第二艦隊)の沖縄水上特攻作戦(坊ノ岬沖海戦)に参加したが機関故障により落伍、米艦載機の攻撃により大破したあと行方不明となった(沈没認定。)。1942年度(マル急計画)仮称第344号艦として藤永田造船所で建造、1943年(昭和18年)5月25日、姉妹艦(沖波、岸波)や海防艦2隻(御蔵、平戸)、標的艦波勝等と共に命名された。3隻(沖波、岸波、朝霜)は同日附で夕雲型駆逐艦に登録された。11月1日、日本海軍は駆逐艦如月・朝霧・夕霧艦長等を歴任した前川二三郎少佐を、臨時朝霜艤装員長に任命した。11月2日、藤永田造船所に朝霜艤装員事務所を開設。本艦は同年11月27日に竣工し、朝霜艤装員事務所も撤去された。同日附で正式に横須賀鎮守府籍となり、前川艤装員長も朝霜駆逐艦長(初代)となった。竣工と共に訓練部隊の第十一水雷戦隊に編入。当事の第十一水雷戦隊は、司令官木村進少将が11月20日附で退任。そのため小川莚喜大佐(海軍兵学校46期)が臨時司令官代理を務めていた。瀬戸内海に回航された「朝霜」は、訓練部隊《龍田、浜波《12月15日附で第32驅逐隊編入》、岸波《12月3日編入》、沖波《12月10日編入》、朝霜》)に所属。第十一水雷戦隊各艦(第二戦隊《山城、伊勢、日向》)、や修理復帰艦艇(満潮、不知火、春雨)等と訓練を受けた。12月15日附で第二水雷戦隊司令官高間完少将は第十一水雷戦隊司令官に任命される(着任12月25日)。12月29日、燧灘で十一水戦に春雨(第27駆逐隊)が合同した。駆逐艦4隻(白露型駆逐艦2隻《時雨、春雨》、夕雲型2隻《沖波、朝霜》)は扶桑型戦艦2番艦山城を護衛して呉を出発した、31日、横須賀回航部隊は横須賀に到着した。1944年(昭和19年)1月4日、夕雲型2隻(沖波、朝霜)は時雨等と別れて内海西部に戻った。以降、第十一水雷戦隊(軽巡《龍田》、駆逐艦《朝霜、沖波、岸波》)は臨時編入艦と共に内海西部で訓練に従事する。1月27日附で杉原與四郎少佐(駆逐艦皐月や初雪艦長《沈没時》等を歴任。当時、白露型駆逐艦6番艦五月雨艦長)は朝霜駆逐艦長(二代目)に任命された。2月10日、夕雲型3隻(朝霜、岸波、沖波)は第二水雷戦隊(司令官早川幹夫少将:旗艦能代)第31駆逐隊に編入された。第31駆逐隊は前年11月下旬のセント・ジョージ岬沖海戦で31駆司令香川清登大佐と構成艦2隻(大波、巻波)を喪失して夕雲型4番艦長波1隻となっており、夕雲型4隻(長波、岸波、沖波、朝霜)で再編された。第31駆逐隊司令福岡徳治郎大佐(前職第19駆逐隊司令)も朝霜・沖波・岸波編入の直前に任命されたばかりである。2月26日、第31駆逐隊3隻(朝霜、岸波、沖波)は宇品を出港し、グアムへ移動する第29師団の陸軍兵士と装備品を乗せた安芸丸(日本郵船、11,409トン)、東山丸(大阪商船、8,666トン)、崎戸丸(日本郵船、9,247トン)の3隻の優秀貨客船による『松輸送』に従事する。2月29日未明、船団はの地点に差し掛かった所でアメリカの潜水艦ロック ("USS Rock, SS-274") の発見するところとなった。ロックも夜間の2時49分頃に浮上して船団に接近したが、ロックの右斜め前方約6キロの地点にいた朝霜はこれを察知し、ロックも照準することなく後部発射管から4本の魚雷を放射状に発射した。その後、朝霜はロックの左舷側に移り、朝霜はサーチライトをロックに対して照射した後、12.7センチ砲を潜航しゆくロックに向けて発射した。砲弾は潜航しかけたロックの潜望鏡支柱に命中し、潜望鏡が昼間用と夜間用の両方とも破損。またレーダーマストに浸水するなど大小さまざまな被害を受けていた。この後、4時間に及ぶ爆雷攻撃をしのいだロックは夜になって浮上し、船団発見の旨を報告した。朝霜は当面の敵を追い払ったので船団に合流していったが、ロックからの報告を受信したアメリカの潜水艦トラウト ("USS Trout, SS-202") が船団の追跡を開始していた。17時53分、トラウトはの大東諸島の南方200キロの地点で輸送船に対して魚雷を3本発射。朝霜はこれに気づいたものの、2本が崎戸丸に命中して崎戸丸は沈没した。もう1本が安芸丸に命中して航行不能に陥らせた。撃破された安芸丸は8ノットの速力が出せるまでに回復し、沖波に護衛されて先行、2隻(朝霜、岸波)でアメリカ潜水艦の掃討をおこなう。17時55分、朝霜は自艦の左舷1,200メートルに潜望鏡を発見した。2分後に60メートルに設定した12発の爆雷を投下、九三式水中探信儀を使用し、さらに深い深度に設定した7発の爆雷を投下した。その結果18時16分に海中の誘爆音を聴取、爆雷を一発投下した後水中探信儀を使用して探索したものの反応はまったくなかった。これがトラウトの最期だった。船団はサイパン島に立ち寄った後、グアムに進出した。3月20日、第31駆逐隊(岸波、沖波、朝霜)はトラック諸島行きの東松三号特別船団、輸送船3隻(浅香丸、山陽丸、さんとす丸)を護衛して館山を出航。船団は28日にトラック泊地に到着した。その後、4月14日にリンガ泊地に進出し5月19日からは前進根拠地のタウイタウイ方面で対潜警戒に従事した。6月19日のマリアナ沖海戦では丙部隊(第三航空戦隊《千代田、千歳、瑞鳳》、第四戦隊《愛宕〔第二艦隊旗艦〕、高雄、鳥海、摩耶》、戦艦大和、武蔵、金剛、榛名等。指揮官/第二艦隊司令長官栗田健男中将・海兵38期)に属した。海戦後、6月22日に中城湾に立ち寄った後、6月24日に柱島泊地に帰投した。この頃、朝霜は機関部(減速装置)に若干の不安を抱えた。7月9日、第31駆逐隊は第四戦隊をリンガ泊地まで護衛するため臼杵湾を出撃、昭南を経て7月19日に到着した、訓練に励んだ。10月18日、捷一号作戦発動に伴って栗田中将の第二艦隊はリンガ泊地から出動し、で補給の後、10月22日に出撃した。しかし翌10月23日未明にパラワン水道において第二艦隊旗艦愛宕(高雄型重巡洋艦2番艦)がアメリカの潜水艦ダーター ("USS Darter, SS-227") の、第四戦隊僚艦摩耶(高雄型重巡4番艦)がデイス ("USS Dace, SS-247") の雷撃でそれぞれ沈没し、同じく第四戦隊高雄(高雄型重巡1番艦)がダーターの雷撃で大破して航行不能となった。米潜水艦襲撃時、朝霜は第一部隊陣形中央後方に位置し、朝霜右舷(左舷)に戦艦大和・武蔵(長門)、朝霜の後方に島風が航行していた。第31駆逐隊2隻(朝霜、岸波)は共同で午前7時頃に沈没した愛宕乗組員の救助をおこなった。岸波は第一戦隊司令官宇垣纏中将座乗の戦艦大和(第一戦隊旗艦)に栗田司令長官以下第二艦隊司令部を移乗させると、二水戦旗艦能代に従って僚艦沖波と共にシブヤン海へ向かった。朝霜は愛宕生存者を救助した後、第31駆逐隊僚艦長波とともに漂流しながら応急修理をおこなう高雄の警戒と護衛にあたった。ダーターとデイスの2隻は高雄にとどめをさそうと追跡を続けていたが、修理後に発進した高雄水上偵察機や、2隻(朝霜、長波)の警戒により攻撃機会を失ったという。21時44分、高雄は速力6ノットで航行可能となった。2隻(朝霜、長波)はレイテ沖海戦に参加せず高雄の護衛に従事した。10月24日午前3時30分以降、水雷艇鵯、特設駆潜艇御津丸が合流した。午前9時、護衛部隊2隻(長波、鵯)はボンベイ礁に座礁したダーターの調査のため分離し、2隻(朝霜、御津丸)で高雄を護衛した。長波はシブヤン海対空戦闘で被雷した重巡妙高の護衛の為に去り、鵯だけが3隻(高雄、朝霜、御津丸)の所へ戻ってきた。10月25日夕刻、4隻(高雄、朝霜、鵯、御津丸)はブルネイ湾に帰投。この時、本艦には第二艦隊の通信担当部員が乗ったままであり、レイテ沖海戦では第二艦隊はやむを得ず、第一戦隊(司令官宇垣纏中将・海兵40期、大和座乗)の通信担当部員を使うこととなった。ブルネイ着後、朝霜幹部は第一遊撃部隊第三部隊(西村艦隊)を追って出撃しようとしたが、荒木伝大佐(愛宕艦長、朝霜に救助)・小野田捨次郎高雄艦長の助言を受け、中止した。レイテ沖海戦の後、朝霜以下第二水雷戦隊はレイテ島行きの多号作戦に投入される事となった。11月5日、マニラ湾に対する大規模空襲により第五艦隊/第二遊撃部隊旗艦那智(妙高型重巡洋艦2番艦)が沈没、那智救援中の駆逐艦曙も大破した。さらに僚艦沖波と朝霜も損傷し(朝霜は安藤文彦砲術長以下戦死者十数名、負傷者多数)、作戦に参加できなくなった。曙の代艦として夕雲型姉妹艦秋霜(第2駆逐隊)が多号作戦部隊に編入された。11月8日朝、第一水雷戦隊司令官木村昌福少将(海兵41期)は第四次輸送部隊第一梯団(第一水雷戦隊《霞〔一水戦旗艦〕、長波、若月、潮、朝霜、秋霜》、第七護衛隊《司令官松山光治少将:海防艦4隻〔沖縄、占守、11号、13号〕》、輸送船3隻《高津丸、香椎丸、金華丸》)を指揮してマニラを出撃した。本来なら先に出発するはずだった第三次輸送部隊(指揮官早川幹夫第二水雷戦隊司令官)はマニラ空襲により準備に遅れが生じ、第四次輸送部隊が先発することになった。第四次輸送部隊は翌11月9日夕方にオルモック湾に到着するも、大発が揃わなかったため兵員しか陸揚げできなかった。11月10日、輸送部隊はオルモック湾を出撃してマニラに向かったが、間もなくB-25とP-38 の攻撃を受けて陸軍特殊船高津丸(山下汽船、5,657トン)と輸送船香椎丸(大阪商船、8,407トン)が沈没、輸送部隊を指揮する木村一水戦司令官は3隻(霞、朝霜、長波)を率いて救助作業にあたり、秋霜以下の艦艇を輸送船金華丸(大阪商船、9,305トン)の護衛につけてマニラへ先発させた。このあと、第四次輸送部隊護衛艦(霞、長波、朝霜、若月)は、第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将(旗艦島風)指揮下の第三次輸送部隊(護衛艦7隻《島風、浜波、初春、竹、駆潜艇46号、掃海艇30号》・輸送船5隻《せれべす丸、泰山丸、西豊丸、天照丸、三笠丸》)と合流し、駆逐艦3隻(長波、朝霜、若月)と駆逐艦2隻(初春、竹)を交換した。霞に香椎丸生存者を移した朝霜は長波とともに第四次輸送部隊から離脱し、21時にマスバテ島東方のブラックロック水道で第三次輸送部隊に合流した。第三次輸送部隊の駆逐艦は5隻(島風、長波、朝霜、若月、浜波)となり、そのままオルモックへ向かった。なお、せれべす丸は座礁し駆潜艇46号の護衛下で取り残されていた。第三次輸送部隊は11月11日の正午ごろにオルモック湾に到着する予定であったが、その直前に第38任務部隊(ジョン・S・マケイン・シニア中将)の艦載機347機による空襲を受けた。浜波・若月・島風・長波と被弾していき、輸送船は全滅した。朝霜は航行不能となった第二水雷戦隊旗艦島風に接近しようとしたが、再三にわたる機銃掃射のため接近を断念。同艦では早川二水戦司令官が既に戦死しており、松原瀧三郎先任参謀が朝霜に帰れと命令したという。また朝霜は沈没寸前の姉妹艦浜波に接舷すると、第32駆逐隊司令大島一太郎大佐を含む生存者を移乗させた。この後、島風は沈没し第三次輸送部隊は朝霜一隻を残して全滅した。朝霜は翌11月12日にマニラに帰投した。同日、緊急輸送作戦のためマニラに入港していた空母隼鷹、重巡利根、第30駆逐隊(夕月、卯月)からなる小艦隊は、西村艦隊唯一の残存艦時雨を編入してマニラを出港、日本本土へ向かった。それまで隼鷹隊を護衛していた軽巡木曽は時雨と入れ替わるようにマニラに残置されている。翌11月13日、マニラは第38任務部隊艦載機の空襲を受け軽巡木曾、駆逐艦複数隻(初春型《初春》、吹雪型《曙》、夕雲型姉妹艦《沖波、秋霜》)等が沈没(大破着底)した。特に第2駆逐隊はレイテ沖海戦での早霜の喪失とマニラ空襲での秋霜の喪失により、夕雲型19番艦清霜1隻となった。また第31駆逐隊僚艦の岸波も12月5日にアメリカの潜水艦フラッシャー ("USS Flasher, SS-249") の雷撃で撃沈され、第31駆逐隊司令福岡大佐は12月11日附で免職となった。第31駆逐隊は翌年1月10日に解隊された。同駆逐隊に所属した夕雲型はこの時点で本艦以外全隻が沈没した。11月15日、朝霜は第31駆逐隊から第2駆逐隊(駆逐隊司令白石長義大佐)に編入され、同隊は夕雲型2隻(清霜、朝霜)になった。その後リンガ泊地に回航され、11月28日から12月5日までセレター軍港で修理を行った。この頃、昭南には11月19日にアメリカの潜水艦ヘイク ("USS Hake, SS-256") の雷撃で損傷した第三十一戦隊旗艦の長良型軽巡洋艦2番艦五十鈴がおり、スラバヤで本格的な修理が行われる事となった。朝霜が途中まで護衛を行う事となり、12月5日に昭南を出港、12月8日にリンガ泊地に帰投した。12月9日以降、朝霜は第二水雷戦隊旗艦となった。続いて航空戦艦2隻(伊勢、日向)、巡洋艦2隻(足柄、大淀)、駆逐艦2隻(朝霜、清霜)はカムラン湾に進出した。カムラン湾移動後、二水戦旗艦は軽巡大淀に変更された。12月24日、ミンドロ島に上陸したアメリカ軍に対する殴りこみ作戦(礼号作戦)が開始され、挺身部隊(指揮官木村昌福第二水雷戦隊司令官)はこれに呼応して挺身部隊(重巡1隻《足柄》、軽巡1隻《大淀》、駆逐艦6隻《霞〔木村少将座乗、挺身部隊旗艦〕、清霜、朝霜、榧、杉、樫》)を率いてカムラン湾を出撃する。2日後の12月26日夕刻、挺身部隊はB-25の爆撃を受けた。朝霜では空襲により17名が戦死し、艦に大なり小なりの損傷を受けた。また、第2駆逐隊僚艦清霜は23時15分に大爆発を起こして沈没した。朝霜は清霜が行方不明になった事を木村少将に報告したが、木村少将は作戦終了後に救助するので海図に沈没位置を記しておくよう命令した。やがて砲撃を終えた挺身部隊は、2隻(霞、朝霜)を清霜乗員の救助にあたらせるため残留させ、残りは先にカムラン湾に向かった。2隻(霞、朝霜)は機関を止めて航空機と魚雷艇に警戒しつつ救助活動を行い、木村少将自ら双眼鏡越しに海上に浮かぶ清霜乗員を数えた。2時34分まで救助作業を行った後、12月28日18時30分にカムラン湾に帰投した。1945年(昭和20年)1月3日、第二水雷戦隊司令官は木村昌福少将から古村啓蔵少将へ交代(着任・退任1月4日)。1月10日、かつて朝霜が所属していた第31駆逐隊は解隊された(前述)。第2駆逐隊からも、書類上在籍していた2隻(早霜、秋霜)が除籍された。前年末~2月初めごろの朝霜は、セレター軍港での整備とリンガ泊地での訓練および待機に明け暮れた。2月5日、第四航空戦隊(司令官松田千秋少将・海兵44期)に対してガソリン、ゴム、錫などの貴重物資を搭載して内地に回航するよう命令が出され、作戦名を「北号作戦」として部隊名を「完部隊」とした。朝霜は2月7日から9日にかけて貴重物資を搭載し、2月10日16時に昭南を出港した。完部隊(第四航空戦隊《日向、伊勢、大淀》、第二水雷戦隊《霞〔二水戦旗艦〕、朝霜、初霜》)は潜水艦と航空機の脅威を次々と交わしつつ北上していった。中国大陸沿岸、舟山群島を航行。2月15日夜、馬祖島で仮泊、大型艦から駆逐艦への燃料補給を実施(日向→霞、伊勢→初霜、大淀→朝霜)。黄海南方、対馬北方を経て2月19日に六連に到着。2月20日、完部隊は呉に帰投した。1945年(昭和20年)2月10日をもって第2駆逐隊は解隊され、朝霜は第二水雷戦隊所属の第21駆逐隊(駆逐隊司令石井汞大佐)に編入されていた。2月20日附で第二水雷戦隊各艦で人事異動が行われ、朝霜航海長芦田収大尉は海軍兵学校へ転勤、後任の航海長として金剛型戦艦3番艦榛名より出口勝巳中尉が着任。また朝霜機関長原田周三機関大尉は秋月型駆逐艦3番艦涼月機関長へ転任。長門型戦艦1番艦長門より佐多盛雄機関大尉が朝霜機関長に任命された。2月23日、第二水雷戦隊旗艦は霞から阿賀野型軽巡洋艦3番艦矢矧に変更、朝霜以下第二水雷戦隊各艦は整備と訓練に従事した。3月19日の呉軍港空襲で対空戦闘を実施。なお、3月18日附で石井大佐は第21駆逐隊司令の職務を解かれ、後任の司令には3月25日附で伊勢型戦艦1番艦伊勢副長小滝久雄大佐が任命された。3月27日、朝霜は第21駆逐隊の司令駆逐艦となった。3月28日、第一遊撃部隊指揮官伊藤整一第二艦隊司令長官は第一遊撃部隊(大和、矢矧、駆逐艦12隻)の佐世保回航を各方面に連絡した。だが、アメリカ軍の機動部隊が九州地方を襲撃したため第一遊撃部隊の豊後水道通過佐世保回航は中止された。3月29日、周防灘に移動。この日、同じく周防灘へ移動中だった初雪型駆逐艦響(第7駆逐隊所属)が触雷して損傷したため、朝霜は響の警戒艦を命じられる。響を曳航して一旦呉に向かったが、響の動力が回復して自力航行が可能になったため朝霜は周防灘に引き返した。触雷した響を曳航・護衛したのは初霜という響・初霜乗組員の証言も残る。4月6日15時30分、第21駆逐隊(朝霜、初霜、霞)は沖縄水上特攻作戦(天一号作戦)に第一航空戦隊(戦艦大和、第二艦隊旗艦)、第二水雷戦隊旗艦矢矧(司令官古村啓蔵少将)、第17駆逐隊(磯風、雪風、浜風)、第41駆逐隊(冬月、涼月)とともに徳山を出撃した。しかし、翌4月7日早朝、第二艦隊が巡航速力22ノットで航行中、朝霜は機関故障を起こして速力12ノットしか出なくなり落伍した。朝霜側は呉工廠における減速機の修理が原因と判断していた。だが、第二水雷戦隊司令部は機関故障の原因をクラッチ故障にあったと推定している。朝霜では応急修理(予定五時間)を実施したが復旧せず、正午過ぎに『我敵機ト交戦中』『90度方向に敵機30数機を探知す』との無電を発した後、連絡が途絶えた。単艦戦闘であった上、生存者がいない為に各艦が砲煙らしきものを確認しただけで、その最期は明らかではない。涼月砲術長によれば、大和以下本隊から約30km離れていた朝霜は水平線上にマストだけが見えていた。アメリカ軍機の大編隊は第二艦隊を完全に包囲、旋回しながら攻撃タイミングをうかがっていたが、やがて一群が朝霜に急降下爆撃を行い、戦闘は数分で終わったという。アメリカ側の記録では、空母バンカー・ヒル ("USS Bunker Hill, CV-9") のSB2C ヘルダイバー10機が大和の攻撃に向かう途中、「北の駆逐艦(朝霜)をやれ!」との命令を受けて奄美大島近海を北上して朝霜を発見、朝霜は左方向に逃げ続けたものの至近弾数発を受けさらに爆弾3発(煙突の間、二番煙突後方、艦尾部)が命中した。艦後部(3番主砲付近)に爆発が起きたあと後部に傾斜していった。だが、アメリカ軍機は雲によりそれ以上の観測を妨げられたという。朝霜は消息不明となり、駆逐隊司令小滝大佐以下乗員326名全員が戦死と認定され沈没したと言われる。一連の戦闘で大和及び第二水雷戦隊5隻(矢矧、朝霜、磯風、浜風、霞)が沈没、4月20日に第二水雷戦隊は解隊された。第21駆逐隊で唯一生還した初霜も同日附で第17駆逐隊に編入された。5月10日、第21駆逐隊は解隊された。同日、朝霜は夕雲型駆逐艦、帝国駆逐艦籍より除籍された。また、朝霜の沈没により夕雲型駆逐艦19隻は全艦喪失、また霞の沈没により朝潮型駆逐艦10隻も全艦喪失、19隻建造された陽炎型駆逐艦も雪風1隻を残すのみとなった。7月30日、初霜は触雷して擱座沈没し、第21駆逐隊に所属した駆逐艦6隻(初春、子日、若葉、初霜、時雨、霞、朝霜)も全隻喪失した。

出典:wikipedia

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