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早霜 (駆逐艦)

早霜(はやしも)は、大日本帝国海軍の駆逐艦。一等駆逐艦夕雲型の17番艦である。1942年度(マル急計画)仮称第345号艦として舞鶴海軍工廠で建造、1943年(昭和18年)1月20日、起工。当時の舞鶴海軍工廠は、島風型駆逐艦島風(5月10日竣工)、夕雲型駆逐艦早波《7月31日竣工》、浜波《10月15日竣工》、沖波《12月10日竣工》、秋月型駆逐艦8番艦冬月(5月8日起工)、松型駆逐艦1番艦松(8月8日起工)の建造、軽巡那珂《3月下旬修理完了》、龍田《3月下旬修理完了》、長良、名取《6月1日到着》、木曾《11月10日到着》」、駆逐艦複数隻(初春、不知火、巻波《4月下旬到着》、霞《6月下旬修理完了》、秋風)等の修理に追われていた。7月31日、第345号艦は早霜と命名された。同日附で雲龍型航空母艦雲龍や、給油艦速吸等も命名されている。早霜は夕雲型駆逐艦に類別された。早霜は10月20日に進水した。同日附で横須賀鎮守府に所属される。12月中旬、不知火型駆逐艦不知火の修理が終わり、不知火は舞鶴を後にした。1944年(昭和19年)1月10日、荒井靖夫中佐(駆逐艦文月駆逐艦長等)は早霜の艤装員長に任命される。1月20日、舞鶴海軍工廠で秋月型8番艦冬月が進水した。2月3日、松型1番艦松が進水した。2月20日、早霜は竣工して海軍に引き渡された。竣工後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(高間完少将・海軍兵学校41期)に編入。直ちに瀬戸内海に回航され訓練を受けた後、大和型戦艦大和の護衛を兼ねて横須賀海軍工廠に回航され、残りの工事を受けて瀬戸内海に戻った。4月2日、早霜の駆逐艦長は平山敏夫少佐(秋霜駆逐艦長)に交代。5月10日、駆逐艦4隻(秋霜、早霜、響、電)は第一機動艦隊(司令長官小沢治三郎中将)に編入される。5月11日、駆逐艦8隻(秋霜、早霜、時雨、霜月、玉波、満潮、野分、山雲)は大和型戦艦2番艦武蔵と空母6隻(第二航空戦隊《隼鷹、飛鷹、龍鳳》、第三航空戦隊《千歳、千代田、瑞鳳》)を護衛して佐伯を出撃し、タウイタウイに向かう。5月16日到着、同方面で待機する。6月9日、泊地外に敵潜水艦出現の報告により早霜は第17駆逐隊2隻(磯風、谷風)、二水戦僚艦島風に従って出動する。この時の旗艦は磯風だった。夕刻、谷風が米潜水艦「ハーダー」 ("USS Harder, SS-257") の雷撃で僚艦3隻(磯風、早霜、島風)の目前で轟沈した。6月19日のマリアナ沖海戦で、早霜、秋霜は乙部隊(第二航空戦隊空母3隻《隼鷹・飛鷹・龍鳳》、戦艦長門、航空巡洋艦最上、第27駆逐隊《時雨、五月雨》、第17駆逐隊《浜風》、第4駆逐隊《満潮、野分、山雲》等。指揮官城島高次少将/第二航空戦隊司令官兼務・海兵40期)に合流して参加した。6月20日の対空戦闘で空母飛鷹が沈没、早霜以下各艦は共同で飛鷹の乗組員の救助にあたった。海戦後、燃料不足となった駆逐艦部隊(早霜、時雨、浜風、満潮、秋霜)は機動部隊本隊から分離、22日には早霜、満潮が時雨に対し燃料補給を実施した。6月22日夜に沖縄の中城湾に到着した。23日午後、駆逐艦5隻(浜風、早霜、秋霜、時雨、五月雨)は第七戦隊(司令官白石万隆少将)の重巡洋艦4隻(熊野、鈴谷、利根、筑摩)を護衛して日本本土へ向かった。6月24日に柱島泊地に帰投した。早霜、秋霜は6月29日呉を出撃し、第五戦隊(橋本信太郎中将・海兵41期、重巡《羽黒、妙高》)をマニラを経てリンガ泊地まで護衛。8月15日、夕雲型駆逐艦3隻(早霜、秋霜、清霜)により第2駆逐隊(早霜、秋霜、清霜)が編制され、第二水雷戦隊(早川幹夫少将・海兵44期)に編入された。第2駆逐隊司令は白石長義大佐(陽炎型駆逐艦11番艦浦風初代艦長等)。太平洋戦争における二代目の第2駆逐隊である。太平洋戦争開戦時の第2駆逐隊は白露型駆逐艦4隻(村雨、夕立、春雨、五月雨)で編制されていたが、夕立は第三次ソロモン海戦で、村雨はビラ・スタンモーア夜戦でそれぞれ沈没、春雨は空母隼鷹航空隊基地員輸送中に米潜水艦の雷撃により大破長期修理のため1943年(昭和18年)7月1日附で解隊されていた。なお春雨、五月雨は第二水雷戦隊・第27駆逐隊に編入されて定数4隻(時雨、白露、春雨、五月雨)を維持するが、春雨は1944年6月上旬の渾作戦従事中に沈没した。白露もマリアナ沖海戦直前に衝突事故で沈没している。マリアナ沖海戦で早霜と行動を共にした五月雨は第16戦隊指揮下で鬼怒、時雨と共に輸送任務従事中、ミクロネシアのパラオ諸島で座礁し8月26日に沈没した。第27駆逐隊は時雨1隻となって10月10日に解隊された。10月18日、捷一号作戦発動に伴って第二艦隊(栗田健男中将・海兵38期)はリンガ泊地から出動し、で補給の後、10月22日に出撃した。早霜は第2駆逐隊司令白石長義(大佐、海兵49)が座乗していた。また清霜は第二部隊(指揮官鈴木義尾第三戦隊司令官)に編入され、不知火型野分と行動を共にした。10月24日からのレイテ沖海戦では第一部隊(大和、武蔵、長門、妙高、羽黒、鳥海、能代、島風、岸波、沖波、浜波、藤波、早霜、秋霜)として参加。空襲で第2駆逐隊からは駆逐艦が被弾損傷、戦艦武蔵救援のため駆逐艦浜風と共に栗田艦隊から分離し、早霜、秋霜とは別行動をとった。10月25日、早霜以下第二水雷戦隊はサマール沖海戦に参加。夕刻、早霜は爆撃を受けて損傷し、第2駆逐隊の僚艦秋霜に護衛されて撤退を開始する。2隻だけでサンベルナルジノ海峡を突破後、10月26日午前7時50分に栗田艦隊本隊と合流するも、秋霜は第2駆逐隊司令の命令により早霜への護衛をやめた(15分後に対空戦闘開始)。空襲終了後の9時すぎ、秋霜は再び栗田艦隊本隊から分離して早霜の傍らに戻ってきた。一方、この空襲で第二水雷戦隊旗艦・阿賀野型軽巡洋艦能代も深刻な被害を受けた。午前8時50分頃、能代に爆弾1発・魚雷1本が命中して航行不能となり、護衛の駆逐艦浜波と共に栗田艦隊本隊から落伍する。続く空襲で更に魚雷1本が命中した能代は11時13分に沈没した。秋霜は早霜と分離して能代の遭難現場に向かい、浜波と共同し能代乗組員を救助している。取り残された早霜はミンドロ島南方を航行中に第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の艦載機の攻撃を受け、艦首部と艦中央部の命中弾によって艦首と二番煙突を吹き飛ばされ、沈没を防ぐためにアンティーケ州セミララ島の浅瀬()に擱座した。すると沈没した重巡洋艦鈴谷乗組員を収容して栗田艦隊から遅れていた夕雲型姉妹艦沖波が擱座した早霜を発見して近寄ってきた。燃料に海水が混じったため早霜の使用可能燃料は5トン程度しかなく、沖波も余裕はなかったが早霜に横付して補給を開始する。この時、早霜と沖波は夕雲型姉妹艦藤波が2隻から約10km程沖合を航行するのを発見した。だが、藤波は空襲を受け、早霜、沖波の目前で轟沈した。藤波は25日に航行不能となった重巡洋艦鳥海の乗組員を救助していたが、2隻とも1人の生存者もいなかった。また早霜、沖波も空襲を受けたため、沖波は横付を離して回避に転じる。沖波は早霜を残してコロン湾へ向かった。10月27日、レイテ島への輸送作戦からの帰途に空襲で沈没した軽巡洋艦鬼怒の救援のために派遣された駆逐艦不知火がセミララ島の西方海域で空襲を受けて沈没し、早霜はその光景を目撃することになった。藤波に続いて2度目の目撃である。11月1日、重巡洋艦那智の艦載機が擱座している早霜を発見して着水し、不知火と藤波の最期を聞きだした。その後、早霜の船体は放棄されたが、田中大尉以下約30数名が早霜に残っていたという。アメリカ軍によるフィリピン奪回が進んで後、アメリカ海軍の調査班が擱座している早霜を調査したが、早霜の船体や残留乗組員がその後どうなったかは定かではない。11月15日、第31駆逐隊より姉妹艦朝霜が第2駆逐隊に編入され、同隊は秋霜、清霜、朝霜、早霜《書類上在籍》となった。11月13日、秋霜はマニラ湾空襲に遭遇して沈没し第2駆逐隊は夕雲型2隻(清霜、朝霜)となった。12月1日、平山中佐は早霜駆逐艦長の職務を解かれる。12月26日、早霜の姉妹艦の清霜は礼号作戦に参加して撃沈され、白石司令は12月29日附で第二駆逐隊司令の職を解かれた。1945年(昭和20年)1月10日、駆逐艦早霜は夕雲型型駆逐艦、第2駆逐隊、帝国駆逐艦籍のそれぞれから除籍された。前述のように、第2駆逐隊は前年末の礼号作戦で夕雲型姉妹艦清霜を喪失して朝霜1隻となっており、2月10日附で再び解隊された。朝霜は第21駆逐隊に編入され、4月7日の坊ノ岬沖海戦で喪失し夕雲型駆逐艦は全隻戦没した。早霜駆逐艦長の平山中佐は3月10日附で秋月型駆逐艦3番艦涼月の駆逐艦長に着任、涼月は大破しつつも坊ノ岬沖海戦から生還した。

出典:wikipedia

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