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秋霜 (駆逐艦)

秋霜(あきしも)は、日本海軍の駆逐艦。一等夕雲型の18番艦である。1942年度(マル急計画)仮称第346号艦として藤永田造船所で建造、1943年(昭和18年)8月31日、18番艦を秋霜と正式に命名。また19番艦も清霜と命名された。同日附で2隻(秋霜、清霜)は夕雲型駆逐艦に類別された。1944年(昭和19年)1月22日、日本海軍は平山敏夫少佐(吹雪型駆逐艦白雲駆逐艦長)を秋霜艤装員長に任命する。3月11日に竣工。同日附で横須賀鎮守府籍と正式決定。平山少佐も秋霜初代駆逐艦長となった。竣工後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(司令官高間完少将・海軍兵学校41期)に編入(旗艦名取)。瀬戸内海に回航され訓練を受けた。4月2日、平山少佐は夕雲型駆逐艦17番艦早霜駆逐艦長へ転任、後任の秋霜艦長には白露型駆逐艦海風沈没時駆逐艦長中尾小太郎少佐が任命された。5月10日、駆逐艦4隻(秋霜、早霜、響、電)は第一機動艦隊(司令長官小沢治三郎中将)に編入される。出撃を前に、高間司令官は連合艦隊、第二艦隊、小沢機動部隊、第二水雷戦隊、第十戦隊など各方面に対し「秋霜と霜月は訓練が十分ではないから、今度も指導に関し配慮してほしい」と要望している。5月11日、駆逐艦8隻(秋霜、早霜、時雨、霜月、玉波、満潮、野分、山雲)は大和型戦艦2番艦「武蔵」と空母6隻(第二航空戦隊《隼鷹、飛鷹、龍鳳》、第三航空戦隊《千歳、千代田、瑞鳳》)を護衛して佐伯を出撃し、タウイタウイに向かった。16日、空母部隊はタウイタウイへ到着、5月19日附で機動部隊第一補給部隊(油槽船4隻《日栄丸、建川丸、国洋丸、清洋丸》、護衛艦《響、秋霜、浜風、満珠》)が編制される。22日〜23日、第一補給部隊(満珠欠)は第三補給部隊(油槽船2隻、駆逐艦谷風)と共にタウイタウイを出発する。第三補給部隊分離後の5月24日、油槽船建川丸が米潜水艦ガーナード ("USS Gurnard, SS-254")の雷撃で撃沈された。5月25日、補給部隊はダバオに到着。その後、3隻(響、浜風、秋霜)は口の警戒を下令される。第一次渾作戦に従事していた第五戦隊(妙高、羽黒)と扶桑型戦艦1番艦扶桑のダバオ帰港の際には、同部隊の護衛にも従事した。6月8日、第10駆逐隊の夕雲型姉妹艦風雲が満潮型駆逐艦朝雲(第10駆逐隊僚艦)と共に第五戦隊(妙高、羽黒)を護衛中、アメリカの潜水艦ヘイク ("USS Hake, SS-256") の雷撃で沈没した。駆逐艦浜風を通じて救援要請があり、響、秋霜は直ちに出動。朝雲と共に救助活動に従事したのち、秋霜は風雲乗員136名をダバオへ送り届けた。6月12日、駆逐艦白露の第一補給部隊編入、秋霜の機動部隊乙部隊編入が発令される。だが秋霜、時雨はしばらく第一補給部隊の護衛を続けることになった。6月14日3時30分、第一補給部隊(油槽船《日栄丸、国洋丸、清洋丸》、護衛艦《浜風、響、白露、時雨、秋霜》)はダバオを出撃した。6月15日2時41分、白露は不用意に船団内を横切ったため油槽船清洋丸と衝突、秋霜と時雨の目の前で爆沈した。白露生存者は救助に向かった浜風に収容された。6月16日に特設給油船日栄丸(日東汽船、10,020トン)から燃料補給を受けた後、6月17日に機動部隊と合流し、乙部隊(第二航空戦隊《隼鷹、飛鷹、龍鳳》、戦艦《長門》、重巡洋艦《最上》、駆逐艦《満潮、時雨、五月雨、秋霜、早霜、浜風》など。指揮官城島高次少将兼第二航空戦隊司令官)に編入された。6月19日-20日のマリアナ沖海戦で日本海軍は大敗した。6月20日の対空戦闘では、乙部隊より空母飛鷹が沈没し、秋霜は乙部隊所属駆逐艦と共に飛鷹乗組員の救助にあたる。飛鷹の御真影と勅諭は「秋霜」に奉移された。このあと、燃料不足に陥った駆逐艦5隻(浜風、早霜、時雨、満潮、秋霜)は6月22日-23日に沖縄の中城湾に到着。23日午後、駆逐艦5隻(浜風、早霜、秋霜、時雨、五月雨)は第七戦隊(司令官白石万隆少将)の重巡洋艦4隻(熊野、鈴谷、利根、筑摩)を護衛して日本本土へ向かった。6月24日に柱島泊地に帰投した。6月29日、夕雲型2隻(早霜、秋霜)は第五戦隊(妙高、羽黒)を護衛して呉を出発、シンガポールへ向かった。8月15日、秋霜は夕雲型姉妹艦2隻(早霜、清霜)とともに、新編制の第二駆逐隊に所属する。駆逐隊司令白石長義大佐(陽炎型駆逐艦11番艦浦風初代艦長等)。第二水雷戦隊(早川幹夫少将・海兵44期)に編入された。夕雲型3隻の第二駆逐隊は、太平洋戦争における二代目の第二駆逐隊である。太平洋戦争開戦時の第二駆逐隊は白露型駆逐艦4隻(村雨、夕立、春雨、五月雨)で編制されて第四水雷戦隊に所属したが、夕立を第三次ソロモン海戦で、村雨をビラ・スタンモーア夜戦で喪失し、春雨の長期修理により1943年(昭和18年)7月1日附で解隊されていた。10月18日、捷一号作戦発動に伴って第二艦隊(司令長官栗田健男中将・海兵38期)はリンガ泊地を出撃するが、秋霜はそれに先立って10月14日にリンガ泊地を出撃し、マニラに向かった。しかし、マニラが第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の艦載機による空襲を受けていたため、マニラ湾口から引き返してに針路を向けた。19日、ブルネイ着。10月22日、第二艦隊主力とともにブルネイ湾を出撃したが翌10月23日、パラワン水道において第二艦隊旗艦で高雄型重巡洋艦愛宕がアメリカの潜水艦ダーター ("USS Darter, SS-227") の、姉妹艦の摩耶がデイス ("USS Dace, SS-247") の雷撃で沈没し、同じく姉妹艦の高雄がダーターの雷撃で大破した。高雄は夕雲型2隻(朝霜、長波)に護衛されて戦線を離脱した。栗田中将以下栗田艦隊司令部は駆逐艦岸波に救助されたあと、戦艦大和に移乗して指揮をとる。秋霜は摩耶の沈没現場で同艦乗員726名を救助(摩耶戦闘詳報では769名)。午後4時頃、秋霜は戦艦武蔵に横付けして摩耶生存者769名を移乗させた。10月24日、シブヤン海を航行する栗田艦隊はアメリカ軍機動部隊艦載機の波状攻撃を受けた。その日の秋霜は、第一部隊(戦艦《大和、武蔵、長門》、重巡《妙高、羽黒、鳥海》、軽巡《能代》、駆逐艦《島風、早霜、秋霜、岸波、藤波、沖波、浜波》)に属していた。戦闘序盤、重巡妙高(第五戦隊旗艦)が被雷して大破、秋霜は戦場を離脱する妙高を一時的に護衛したのち、再び栗田艦隊第一部隊に合流した。第五戦隊司令官橋本信太郎少将は羽黒に移乗した。続く対空戦闘で秋霜は戦死者12名を出し、若干の損傷を受けた。また武蔵も集中攻撃を受けて航行不能となり沈没、島風型駆逐艦島風は武蔵の便乗中の摩耶生存者607名を収容すると、重巡利根と共に栗田艦隊を追いかけた。空襲で損傷を受けていた駆逐艦2隻(浜風、清霜)は、武蔵乗組員を救助するとコロン湾へ撤退していった。このため栗田艦隊に続行する第2駆逐隊は2隻(早霜、秋霜)になった。10月25日、栗田艦隊はサンベルナルジノ海峡を突破する。午前3時6分、速力20ノットで早霜に続行していた秋霜は面舵に変針、直後、左方から来た速力24ノットの島風と衝突した。秋霜の右舷艦首が島風の左舷艦首に衝突。秋霜は艦前部とスクリューに若干の損傷を受けたが、当面の戦闘に影響はなかった。これは島風が岩礁を魚雷艇と誤認して『敵見ユ』の信号を発し、混乱した為だったという。同日午前7時以降のサマール沖海戦では、米空母艦載機の空襲を受けて戦傷者を出し、さらに島風衝突箇所の損傷が拡大して浸水が生じる。この戦闘で第二駆逐隊僚艦早霜が被弾、秋霜は早霜を護衛して栗田艦隊本隊を追いかけることになった。10月26日午前8時50分前後、第二水雷戦隊旗艦・阿賀野型軽巡洋艦能代が空襲を受け魚雷1本が命中して航行不能となり、護衛の駆逐艦浜波と共に栗田艦隊本隊から落伍していた。続く空襲で更に魚雷1本が命中した能代は11時13分に沈没していった。早霜と分離して能代の遭難現場に向かった秋霜は、浜波と共に能代の乗組員を救助、秋霜に328名が乗艦した。第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将は浜波に移乗し、浜波を二水戦旗艦とした。その後、燃料不足となった駆逐艦5隻(浜波、島風、岸波、浦風、秋霜)は主隊から分離してコロン湾に向かった。この時、大和以下の栗田艦隊本隊(大和、長門、金剛、榛名、羽黒、利根、矢矧)に同行している駆逐艦は、第17駆逐隊の2隻(雪風、磯風)だけになっていたという。午後9時、秋霜はコロン島コロン湾到着と共に重巡那智(第二遊撃部隊旗艦、司令長官志摩清英中将)に横付けして燃料補給を受ける。一方、秋霜と分離したあと単艦で退避行動を続けていた早霜はアメリカ軍機の空襲を受け大破、セミララ島に座礁して放棄された。平山敏夫早霜艦長(秋霜初代艦長)は生還した(12月1日附で艦長職を解かれる)。第十六戦隊(軽巡 《鬼怒》、駆逐艦《浦波》)の救援に向かっていた駆逐艦不知火と、重巡鳥海救援後に退避中の駆逐艦藤波も、セミララ島近海で相次いで撃沈された。10月27日午前3時20分、駆逐艦5隻(浜波、島風、岸波、浦風、秋霜)はコロン湾出発。10月28日午前1時にブルネイ湾へ帰投した。戦傷者や収容者を重巡妙高に移乗させたが、能代生存者の一部は補充員として秋霜に残った。2日後の10月30日、秋霜はブルネイ湾を出撃してマニラに向かった。一連の戦闘で、秋霜は主砲通常弾51発、25mm機銃弾17000発以上を発射している。戦死者16名、重軽傷者65名。死傷者の大半は対空機銃要員だったという。マニラに到着した秋霜はレイテ島への陸軍部隊輸送作戦(多号作戦)に投入される事となった。11月5日、マニラ湾に対する大規模空襲により重巡那智が沈没、那智を救援中の駆逐艦曙も大破した。11月8日、秋霜は曙の代役として、第一水雷戦隊司令官木村昌福少将(海兵41期)が指揮する第四次輸送部隊第一梯団(第一水雷戦隊《霞〔一水戦旗艦〕、長波、若月、潮、朝霜、秋霜》、第七護衛隊《司令官松山光治少将:海防艦4隻〔沖縄、占守、11号、13号〕》、輸送船3隻《高津丸、香椎丸、金華丸》)に所属してマニラを出撃。本来なら先に出発するはずだった第三次輸送部隊(指揮官早川幹夫第二水雷戦隊司令官)はマニラ空襲により準備に遅れが生じ、第四次輸送部隊が先発することになったのである。翌11月9日夕方、第四次輸送部隊第一梯団はオルモック湾に到着。まもなく第一号型輸送艦3隻(6号、9号、10号)も到着した。だが大発動艇が揃わず(予定50隻中、使用可能5隻)、兵員しか陸揚げできなかった。第四次輸送部隊は重火器・弾薬の揚陸を諦め、11月10日10時30分以降、順次オルモック湾を出港してマニラに向かう。だが間もなくB-25双発爆撃機約30機とP-38双発戦闘機等約100機の攻撃(反跳爆撃)を受けた。陸軍特殊船高津丸(山下汽船、5,657トン)、輸送船香椎丸(大阪商船、8,407トン)、海防艦11号が沈没した。第一水雷戦隊司令官木村昌福少将は、麾下駆逐艦(霞、朝霜、長波)を率いて救助作業にあたる。秋霜以下の艦艇を輸送船金華丸(大阪商船、9,305トン)の護衛につけてマニラへ先発させた。14時以降、秋霜以下の先発隊はセブ島北端でP-38の攻撃を受け、秋霜は14時18分に被弾した。艦首に命中弾を受けたため、一番砲塔より前部を切断される。戦死傷者55名(戦死20名)を出し、速力も14-16ノットしか出なくなった。潮に護衛されて退避しながらも、僚艦と共に金華丸を守り通す。一方、第四次輸送部隊護衛艦(霞、長波、朝霜、若月)は、第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将(旗艦島風)指揮下の第三次輸送部隊(護衛艦7隻《島風、浜波、初春、竹、駆潜艇46号、掃海艇30号》・輸送船5隻《せれべす丸、泰山丸、西豊丸、天照丸、三笠丸》)と合流し、駆逐艦3隻(長波、朝霜、若月)と駆逐艦2隻(初春、竹)を交換した。南西方面艦隊(司令長官大川内傳七中将)の下令によるものだった。第三次輸送部隊の駆逐艦は5隻(島風、長波、朝霜、若月、浜波)となり、そのままオルモックへ向かう。なおせれべす丸は座礁し、駆潜艇46号の護衛下で取り残されていた。11月11日午前5時、木村司令官直率の駆逐艦3隻(霞、初春、竹)は第四次輸送部隊と合流。18時、輸送部隊(霞、潮、秋霜、初春、竹、沖縄、金華丸)はマニラに到着して任務を終えた。一方、第三次輸送部隊はレイテ島オルモック弯でアメリカ軍機動部隊艦載機約340機以上に襲撃され、駆逐艦朝霜を残して全艦が沈没、島風の沈没時に二水戦司令官早川少将も戦死した。艦首を喪失した秋霜はカヴィテの第一〇三工作部に回航され、カヴィテ港第2桟橋に係留された。この時、機関故障を起こした2ET型戦時標準船の第5蓬莱丸(蓬莱タンカー、834総トン)や、応急修理のために回航されていた曙も同桟橋に係留されており、岸壁から第5蓬莱丸-曙-秋霜の順番で係留されていた。11月12日、緊急輸送作戦のためマニラに入港していた空母隼鷹、重巡利根(ブルネイで合流)、第30駆逐隊(夕月、卯月)からなる小艦隊は、西村艦隊唯一の残存艦時雨を編入してマニラを出港、日本本土へ向かった。時雨と入れ替わる形で軽巡木曾がマニラに残留した。南西方面部隊は軽巡木曾と秋月型駆逐艦霜月を第一警戒部隊(第一水雷戦隊)に編入した。翌11月13日午後、マニラはアメリカ軍第38任務部隊の艦載機の攻撃を受けた。第5蓬莱丸は船体後部に直撃弾を受け、同日中に大破着底。曙は直撃弾1発・至近弾10数発を受けて大破した。秋霜も一番砲塔前方と後部甲板に直撃弾3発を受け火災が発生、その後火薬庫に誘爆して炎上した。秋霜は翌14日0500に右舷を下にして転覆し、艦橋部が海底に埋まった状態で着底、曙も同じ14日朝に艦橋部のみを海面上に露出させて着底した。航海長原田実大尉(海兵71期)以下乗員15名が戦死し、25名が負傷した。また同日のマニラ港では、駆逐艦初春、夕雲型姉妹艦沖波、軽巡木曾、輸送船金華丸も秋霜と同じように空襲を受けて沈没(大破着底)している。すくなくとも秋霜の生存者110名以上がマニラ地区地上部隊に編入された。同日深夜、第一水雷戦隊残存部隊(霞、朝霜、潮、初霜、竹)はマニラを出発し、ブルネーに向かった。11月15日、秋霜、早霜の喪失により清霜1隻となった第2駆逐隊に朝霜が編入されるが、清霜も12月26日の礼号作戦で沈没した。1945年(昭和20年)1月10日、駆逐艦秋霜は夕雲型駆逐艦、第2駆逐隊、帝国駆逐艦籍のそれぞれから除籍された。2月10日、第2駆逐隊は再び解隊され、残存した朝霜は第21駆逐隊(初霜、時雨《1月21日沈没》)に編入された。秋霜初代駆逐艦長の平山中佐は早霜沈没後の12月1日附で任を解かれ、1945年(昭和20年)3月10日附で秋月型駆逐艦3番艦「涼月」艦長に着任、坊ノ岬沖海戦から生還した。秋霜2代目駆逐艦長の中尾中佐は前年12月に秋月型10番艦宵月の艤装委員長となり2月10日(交代16日)まで勤務した。太平洋戦争終結後、秋霜の艦体は戦後の1955年(昭和30年)9月に呉造船所呉船渠(旧呉海軍工廠)により浮揚され解体された。

出典:wikipedia

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