阻塞弾発射機(そさいだんはっしゃき)とは第二次世界大戦中に日本軍が開発した対空兵器の俗称である。発射器の名称は七糎打上筒および八糎打上筒である。また昭和15年から昭和17年まで口径4cmの打上筒と弾薬が開発されたがこれは実用には至らなかった。開発のコンセプトは、超低空に侵入し攻撃をかける敵機から部隊を防御するため、低空に浮遊する弾幕を作るというものである。弾幕を構成する砲弾は阻塞弾と呼ばれた。七糎打上阻塞弾は内部に7個の子弾を詰めており、高度400mほどに打上げられた後に破裂して子弾を放出する。子弾の内部には1個の爆筒が収められ、子弾はこの爆筒をさらに打ち出し、50mほどの距離に散布する。子弾のケーブル長が1mの場合、カーチスP40の受弾面積は18平方mと計算された。爆筒の間隔が上下左右約25mの時、命中公算は3%と算定された。阻塞弾数発を打上げてこの上下左右25mの圏内に爆筒20個が浮遊する場合には命中公算が15%となり、さらにこうした弾幕地帯が複数存在すれば命中公算は50%程度になると見込まれた。またケーブル長を伸ばすことで命中公算が高くなった。用法としては筒を多数陣地に配備し、連続発射によって弾幕を作った。砲列を作るには、風上に向かって支柱を地面に刺し、風速と高度に応じて射角を与える。陣地には20門程度を配備し、毎分20発程度を打上げる。この兵器の長所は多かった。ただし以下の欠点があった。この発射器と弾薬は、陸軍技術本部が昭和15年から開発を行っており、同年11月の富士演習場における機甲演習において初公開された。昭和16年10月には各種機関に実用試験を依託し、改修を加えれば実用価値があると評価された。ただし改修内容は打上げ高度を800mに延長するなど実現が難しく、整備は改修を加えないままに進められた。七糎打上筒の仮制式制定は昭和19年8月の改修後である。昭和19年3月には試製八糎打上筒と弾薬が完成し、5月10日に仮制式制定された。阻塞弾は海軍も使用し、呉軍港への空襲の際に5機の敵艦載機を撃墜したとされる。一般的な継ぎ目無し鋼管で長さ820mmの筒身が製造された。筒身は筒底にネジ状にはめこまれ、筒底はブロック状の床板に2本のボルトで結合される。床板には長さ350mmの支柱が通され、後方へ長く伸びている。この支柱は地中へと埋め込まれた。筒底の中央部には撃針がねじ込まれており、阻塞弾を落とし込むと弾薬底部の雷管を撃針が突いて発射薬に点火する。撃針は折損が多かったため予備が9個付属した。昭和19年作成の兵器臨時価格表によれば予定価格は1基300円である。九八式高射機関砲は24200円だった。試作は名古屋造兵廠熱田製造所による。構造は七糎打上筒とほぼ同様である。筒身に3インチガス管を利用した。 基準としては10筒を集中使用した。昭和19年作成の兵器臨時価格表によれば予定価格は1基400円である。阻塞弾には様々な種類が存在する。
出典:wikipedia
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