問田大方(といだのおおかた、生年不詳 - 元和5年5月20日(1619年6月21日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。戦国大名・毛利元就の三男で、毛利両川として知られる小早川隆景の正室。小早川氏の本家・沼田小早川家の当主・小早川正平の娘として生まれるが、父・正平が21歳で討死したため、兄の繁平が沼田小早川家の家督を継いだ。しかし、繁平は幼少の上に病弱だったため、大内義隆や毛利元就に尼子氏の侵攻が始まった際に防げないと懸念され、天文19年(1550年)、尼子氏と内通した疑いで拘禁され、強引な手段で強制的に隠居・出家に追い込まれた。天文20年(1551年)、竹原小早川家を継いでいた元就の三男・小早川隆景に沼田小早川家の家督も継がせるために隆景と結婚。こうして両小早川家は再統一された。二人の間に子はなかったが、隆景は側室を置かず、夫婦仲は睦まじいものであった(しかし、桓武平氏流小早川本家の血筋は途絶えることになった)。そのため、元就の末子である才菊丸を養子に迎え、小早川元総(後の小早川秀包)と名乗らせて、家督を継がせた。夫・隆景の死後は毛利氏の長州転封にしたがって、義兄・吉川元春の外孫で隆景の旧臣でもある益田景祥の給領地周防国吉敷郡問田に移り住んだため、問田の大方と呼ばれた。法名は慈光院月渓永智。墓は山口県山口市下小鯖鳴滝の泰雲寺にある。夫・隆景は、黒田如水(官兵衛)と親交があった。『黒田家譜』には、隆景のことも記載されており、「隆景は、内室(問田の大方)と接するときは、正装をして、賓客と接するような態度をとったらしい」と記載されている。また、子がなかった理由について「(隆景は)いかなる考えからか、一生妻や妾を近づけなかったので、子がなかった」との記載がある。さらに、「(隆景の)内室は早くに亡くなり、その後再婚しなかった」とある。しかし最後の記述に関しては、内室(問田大方)よりも隆景の方が先に亡くなっているため信憑性が問われる。
出典:wikipedia
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