豊島区(としまく)は、東京都西部に位置する特別区のひとつ。東京23区の西北部に位置する。池袋駅を中心とする副都心を擁し、サンシャインシティや豊島区役所などの超高層ビル群が建ち並ぶ。また、立教大学、学習院大学、東京音楽大学などの教育機関、高級住宅街である目白、「おばあちゃんの原宿」として知られる巣鴨、多くの著名人が眠る雑司ヶ谷霊園や慈眼寺、染井霊園などが存在する。2020年春には旧区役所跡地周辺に超高層ビルが建設され、8つの劇場を含む国際的な「文化にぎわい拠点」が開業予定となっている。また、池袋駅西口では三菱地所による池袋駅西口地区再開発事業が計画されており、超高層ビル3棟が駅前に建設される予定となっている。1965年の国勢調査の結果、日本一の人口密度の自治体になった(前回調査までの1位は東京都台東区)。2005年の国勢調査では、東京都中野区に次いで国内第二位となったが、2010年の調査で再び人口密度日本一となった。2005年の夜間人口(居住者)は233,141人であるが、区外からの通勤者と通学生および居住者のうちの区内に昼間残留する人口の合計である昼間人口は378,475人で、昼間人口は夜間人口の1.623倍になる(東京都編集『東京都の昼間人口2005』平成20年発行134,135ページ。国勢調査では年齢不詳者が東京都だけで16万人いる。上のグラフには年齢不詳者を含め、昼夜間人口に関しては年齢不詳者は数値に入っていないので数値間に誤差がある)。2014年5月8日、日本創成会議の人口減少問題検討分科会で発表された「2040年における消滅可能性都市」で、東京23区内で豊島区が唯一ランクインした際に、「豊島区消滅する説」などの見出しが用いられて報道がなされた。この集計は、20歳から39歳の女性人口に着眼し、女性人口が半分になる都市を機械的に推計したものであり、前述のような昼間人口などの激しい人の流出入などを考慮しないため選出されたものである。日本の国花であるサクラの代表品種、ソメイヨシノは、現在の豊島区駒込から巣鴨の旧染井村が発祥。染井の植木屋が江戸時代後期、交配して生み出した新種がソメイヨシノである。旧染井村では鉢植えをつくることが盛んで、ここでつくられた植木や盆栽は、花売りによって江戸中に運ばれていた。1860年(万延元年)に染井を訪れた英国人植物学者、ロバート・フォーチュンはその種類の多さに驚き、世界一とのお墨付きを与えている。また霧島ツツジも多くつくられ、JR駒込駅の土手が春になるとツツジでいっぱいになるのは、その名残である。北豊島郡に属する4つの町が合併して東京市に編入されるときに、郡名からこの名前が採用された。ただし、豊島区の前身である4町は北豊島郡の一部に過ぎず、元々の北豊島郡は現在の北区から練馬区にかけての広い範囲を含んでいた(右図)。本来の郡の中心地は板橋町であったが、東京市に隣接する4町が郡内で最も発展した地域であったため、4町の区域が「豊島区」と名付けられた。さらに元を辿ると、北豊島郡はかつての武蔵国豊島郡の一部であり、「豊島」が指す範囲はより一層広かった。古代豊島郡の郡衙は現在の北区に置かれ、中世には北区を発祥とし石神井川流域を本拠地とする桓武平氏の豊島氏が豊島郡を治めた。北区に豊島という地名があったり、練馬区にとしまえん(豊島氏の城の一つ練馬城の跡地)があったりするのはそのためである。なお、豊島氏は1477年に江古田・沼袋原の戦いで太田道灌に敗れて滅亡した。東京市による最初の区名原案は「池袋区」(いけぶくろく)だった。その後区名案が「目白区」(めじろく)に変更され、その後各所から寄せられた様々な陳情を受け、東京府議会に於いて「豊島区」と再変更され決定された。なお、「豊島」という町名は豊島区にはなく北区にある(豊島 (東京都北区))。遊園地の豊島園も豊島区ではなく、練馬区にある。豊島区は、練馬ナンバー(東京運輸支局)を割り当てられている。練馬ナンバー割り当て地域は以下の通りである。池袋駅が豊島区の中心駅であり、一日の乗降客数は約264万人(2006年)で、新宿区の新宿駅に次ぐ世界第2位である。埼京線板橋駅はホームが豊島区にかかっているが、所在地は板橋区である。また、東武東上線下板橋駅の所在地は板橋区ではなく豊島区である。東武東上線や埼京線など北方面に向かう路線が多数走っていることから埼玉県、東京都北西部、北東部まで巨大な商圏を形成している。
出典:wikipedia
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