鉄道車両の台車史(てつどうしゃりょうのだいしゃし)では、鉄道車両用台車の発達過程の概略を記述する。黎明期の鉄道車両の走り装置は、馬車の揺動防止機構を援用する所から出発していた。これはイギリスにおける鉄道建設が1820 - 1830年代当時、同国で発達していた有料道路や有料運河と同列のものとして考えられ、旅客輸送については馬車の車輪だけを置き換えて軌道上を走行させるという運用形態がごく普通にとられていたことに一因がある。馬車においては、かつては軸受が車体台枠部分に作り付けとなっていたが、後に重ね板ばねを用いて弾性支持することで乗り心地の改善が図られた。鉄道車両においても、車輪をフランジ付きの鉄道車両用車輪に置き換えただけで、後は車体を含め当時の最新技術である馬車の設計を踏襲し、あるいはそれどころか必要に応じて馬車の車体を車台部分から切り離して鉄道用車台に載せて客車として使用する、という輸送形態も一般に行われた。これらの事情から、最初期の客車から車体に作り付けではなく、当時の馬車に準じた軸箱と重ね板ばねによる軸箱支持機構で出発した。そのため、鉄道車両用台車は二軸車と呼ばれる、二つの輪軸と車体との間の位置関係が基本的に固定された最も原始的な構造で出発することともなり、輸送力増強の要請に対しては二軸車のままでの車体および軸距の延伸や、荷重増大に対処すべく一軸を二軸間に追加した三軸車によって対処された。これらの対処法もまた馬車の発達に倣って展開したもので、曲線通過に対する配慮に欠けていた。このため、イギリスにおいては比較的長い車体に二軸あるいは三軸の輪軸を固定した客車が走行可能なように極力緩いカーブと直線を組み合わせ、地形的な障害等に対してはトンネル掘削と橋梁や築堤、高架橋の建設による立体交差化で対処する、現在の新幹線に近い平坦かつ良好な線形での建設を強いられることとなった。しかも、車両の車体断面形状の最大値を規定する車両限界が馬車由来の小断面で策定された結果、イギリスの鉄道は以後も長く輸送力増強のたびに悩まされることともなった。この方法論は既に都市圏が形成されていて確固たる輸送需要が期待でき、かつその建設に必要となる資金確保が容易であった当時のイギリスなどの先進工業国では容易であっても、鉄道建設そのものを社会的なインフラストラクチャー整備や地域開発の基軸に据える、「開拓」の手段として展開しようとしていたアメリカ合衆国や、多くの植民地群においては、主として資金面の事情から実現が困難であった。特に、東海岸と西海岸と称される人口集積や産業振興が容易な2つのエリア間にロッキー山脈やアパラチア山脈をはじめとする急峻かつ巨大山脈が横たわっていて、技術的にもその方法論の援用が非現実的であったアメリカの場合、状況は非常に深刻であり、建設費削減(トンネルの回避)のために地形に従って急曲線や急勾配を許容せざるを得なかった。このため、車軸が台枠に固定された二軸車・三軸車ではではその曲線通過特性故に車体長が著しく制限され、需要に見合った輸送力が提供出来ない、というジレンマを抱えることとなった。アメリカでは特に問題となっていた鉄道車両の曲線通過にかかる問題を台車を採用することにより解決した。台車の発想自体はかつての宗主国たるイギリスで既に、1821年にウィリアム・チャップマンによってボギー台車として考案・特許申請されていた。この方式は、従来、車体台枠に軸箱支持機構を直接固定する方法を改め、短い台枠(台車枠)と軸箱支持機構を組み合わせて構成された2台以上の台車を用意して旋回可能とし、それらの上に従来よりも長大な車体を搭載するものである。こうすることにより、台車枠中央部に用意された枕梁(ボルスター)上に心皿と呼ばれる荷重を支持し牽引力を伝達し、さらに台車枠の旋回を案内するための台座を設け、この部品の上から車体に強固に固定されたセンターピンと呼ばれる部品を落とし込んで首振り可能とし、更に心皿の左右に側受(サイドベアラー)と呼ばれる摺動しつつ荷重の分担支持を担当する部材を設置することで、急曲線通過を容易にした。ボギー台車はイギリスではその採用の必要性が薄かったこともあって実用化されていなかったが、輸送力増強と線路条件の双方の事情から切迫した状況にあったアメリカでは1832年に蒸気機関車の先台車として採用され、1834年にはロス・ワイナンズによる特許申請とともにボギー車として客車にも採用された。以後アメリカでは先台車付蒸気機関車とボギー客車が急速に普及し、事実上の標準方式となった。そしてアメリカ以外の国でも台車は先台車(もしくは従台車)やボギー台車として次第に採用されるところとなり鉄道車両の大型化や安定走行に貢献することとなった。アメリカでは当初、二軸車・三軸車の軸受装置と同様の重ね板ばねを使用するペデスタル式のシンプルな軸箱支持機構が採用されていた。だが、その後は劣悪な条件の軌道での追従性に優れる釣合梁(イコライザー)台車が、やはり蒸気機関車の先台車用として開発された技術を応用する形で導入され、これも爆発的な普及を見ている。なお、この時期のアメリカでは鋼材よりもスプルースなどの良質木材の方がより容易に調達可能な状況にあり、鉄道車両、特に客車の台車枠を木製とする例が多く見られた。台車の多様化の観点から重要な役割を果たしたのは、1890年代以降の交流による高圧送電システムの普及と歩調を合わせてアメリカで爆発的な普及を見た、路面電車およびインターアーバン(都市間電気鉄道)であった。これらのインタアーバンでは、エジソンの部下であったフランク・スプレイグ (Frank Julian Sprague) の手によって確立された吊り掛け式モーターと架線集電を基礎とする簡潔なシステムをその基本とする。スプレイグらによってリッチモンドで実施された、最初の電気鉄道実用化実験の際に電車用台車製作に参入し、以後のインタアーバンの隆盛によって大きな利益を上げた企業の一つに、J.G.ブリル社があった。馬車鉄道用客車製作で創業したブリル社は、当初、Brill 21E 単台車で名を上げた。同台車は路面電車用2軸単台車の代名詞的存在として世界中に広く普及し、かつ世界中のメーカーにライセンス生産品や模倣品を大量に製造されるほどの成功作となったのである。もっとも、この成功はブリル社に大きな利益をもたらした一方で、路面電車およびインターアーバン向け車両市場の可能性に気付いた競合メーカーの台頭や新規参入を招いた。このため、それらとの競争の必要や急速に拡大する市場の、つまりより大型、高速、そして乗り心地の良い車両を欲する事業者の要請から、同社は新機構を備えた各種台車の開発に邁進した。その開発過程で、ブリル社は成功作である21Eの構造を基本としつつ、ラジアル台車、マキシマム・トラクション台車(Brill 22E・39Eなど)、と次第に大型化してゆく車体に対応した台車の開発を進め、軸ばね式で細身の側枠にハンガーと釣り合いばねを介して線路方向に重ね板ばねを置き、その上に揺れ枕を載せて支持するBrill 27G→27GE→76E・77E、これを基本としつつ板ばねを長い下揺れ枕に置き換え、その上に枕木方向に重ね板ばねを置いて上揺れ枕を支えるBrill 27E、更には釣り合い梁(イコライザー)を2軸間に渡してその上に側枠から下ろしたコイルばねを載せ、枕梁をそれとは独立した枕木方向の揺れ枕吊り(スイングリンク)で支持するBrill 27MCB、と量産に適した型鍛造による強靱な側梁を特徴とする独特の構造の2軸ボギー台車を電鉄各社に大量供給した。これら、中でも特にブリル社製電車用2軸ボギー台車の決定版となったとされる27MCBでは、通常の重ね板ばねだけではなくグラジエート・スプリングと呼ばれるコイルばねを組み合わせて必要に応じて異なった特性のばねが作用する巧妙な枕ばね機構、曲線通過時の旋回特性を改善すべくトラニオンと呼ばれる自在継ぎ手で側梁や横梁(トランサム)と揺れ枕部を連結する、現在のボルスタアンカーに相当する揺動抑止機構、それに揺れ枕のスイングリンクに組み込まれ、摩耗によるがたつきの除去に効果を発揮したボールハンガーおよびスナッパーなど、静かで乗り心地の良い台車を実現するために非常に先進的な機構が満載されていた。この、ブリル社による多様な電車用2軸ボギー台車製品の展開とその普及に立ちはだかったのが、A形台車、およびこれの荷重上限拡大版であるAA形、それに路面電車用低床台車のL形およびR形を展開したボールドウィン・ロコモティブ・ワークス (Baldwin Locomotive Works:BLW) 社である。元来がアメリカ最大の生産力を誇った大手蒸気機関車メーカーであり、2軸ボギー台車のルーツと言うべき蒸気機関車用2軸先台車の設計をインターアーバン用台車に展開する形で1900年代後半にこの市場に参入したBLW社は、釣り合い梁と揺れ枕吊りを備えたMCB規格準拠のA形台車を第1陣として、「世界の機関車工場」と謳われたその量産力に裏付けられた低価格と短い納期、それに長年の機関車設計で得られた優れた設計による高い信頼性を武器にインタアーバン向け車両用台車の市場で急速に台頭した。特に処女作でありながら空前のヒット作となったA形は、78-25Aのように軸距(インチ数)と心皿上限荷重(×1000ポンド単位)を数字で示し、その後に形式名を示すアルファベットを付与するその型番が示すとおり、顧客の要求に応じて自由にそれらのスペックを変更可能とされており、ボールドウィンの創案になる優美な半月形の鍛造釣り合い梁、複列のコイルばねを天秤式で側枠と接続する巧妙な釣り合い梁のばね受構造、丈夫で変形時の修理の容易な可鍛鋳鉄(マリアブル)を使用する軸箱守(ペデスタル)、入手の容易な一般鋼材を組み合わせたトラス構造を採用した側枠など、実用的、かつ製造および保守の容易性に留意したその合理的な設計を見れば大ヒットを納得できる、優れた台車であった。このA形で示された基本コンセプトはその強化版に当たるAA形をはじめとする以後の同社製台車各種でも継承されており、特にBrill 27GE→76E・77E対抗として送り出されたL形およびR形でも釣り合い梁関連の特徴以外は全て継承された。ライバルであるブリル社が量産では有利であるものの巨額の設備投資を要する製造法と各部機構の特許取得に邁進してコピー品との差別化やライセンス供与ビジネスの展開を図ったのに対し、入手の容易な部材を使用し生産性に優れた同社製台車は、普及期と第1次世界大戦の勃発が重なって入手難の状況がしばらく続いたためもあって、むしろそのデッドコピー品がブリル台車を駆逐する勢いで世界中に大量に普及することとなった。路上からの乗降を行う路面電車の場合、通常の鉄道車両とは異なる設計が求められる。具体的には、乗客の乗降の便を図る上では客室の床面高さを路面に近づけることが望ましく、古来より様々な方法が試行錯誤されてきた。その最初期例となったのは、電気鉄道用2軸単台車としては空前のベストセラーとなったBrill 21Eを開発したブリル社が路面電車車両の大型化に対応して1891年に開発した、初の2軸ボギー台車であるBrill 22Eである。この台車は車体床面高さを低く抑えるために通常のボルスタと心皿を省略し、円弧状のガイドと、コンプレッションブロックと称するばね付きのピンを内蔵した支持架で旋回と牽引力を担当し、垂直荷重は側受を介して複列のコイルばねが負担するという、現在のボルスタレス台車の始祖とでもいうべき変則的かつ極めて複雑な構造を備えていた。この台車は同時に、動輪と従輪の2つの車輪径を違え、荷重を負担する側受の位置を動輪寄りに意図的にずらすことで動輪の粘着力を稼ぐ「マキシマム・トラクション」台車の最初期の例の一つでもあるが、これらの特徴的な構造・機構はいずれも、路面電車で求められる床面高さの引き下げと電動機を装架する動軸の粘着力確保を両立する方策として採用されたものであった。もっとも、変則的な構造を備えるこのBrill 22Eでの試行は、一般的には事実上失敗に終わった。このため、ブリル社はこの野心的な設計を捨てて通常構造のボギー台車への移行を強いられ、Brill 27Gを筆頭とする高床を前提とする27シリーズを開発、一旦は低床台車の開発を中断することとなった。そのため、各地の路面電車では、これらの通常の高床式ボギー台車を使用しつつ客室床面の低床化を図ることが試みられた。それは例えば台車間の台枠を引き下げ、後年の2階建て車体を備えるボギー車における1階床面と同様に、軌道面に近いレベルまでその部分の床面を下げる、といった方策であり、1910年頃にニューヨーク鉄道 (New York Railway Co.) のヘドリィ・ドイル (Hedley Doyle) によって考案され、その名を取って「ヘドリィ・ドイル・ステップレスカー」(Hedley-Doyle Stepless Car) あるいは運行線区にちなんで「ブロードウェイ・バトルシップ」(Broadway Battleship) と呼ばれる中央出入り台式の車両が20世紀初頭の時点における部分低床車の代表例として知られている。鉄道の実用化以来、長期にわたって単純な軸ばね台車や釣り合い梁式台車が一般的であった鉄道車両用台車であるが、20世紀に入る頃から列車運行速度の引き上げに対応し、これに適合する特性を備えた設計とすることが求められるようになった。そのため、1920年代以降、世界各国で高速台車の研究が進んだ。もっとも、理論的な面での研究こそ進められつつあったものの、蛇行動が問題となるほどの高速域で営業を行う国は皆無に等しく、また各国とも戦争遂行や産業振興の必要性から高速化と相反する貨物輸送力の拡充が社会的に強く求められていたこともあって、高速化のためには必要だが円滑な貨物輸送の遂行には障害となるような軌道改良を積極的に進めにくい一面も存在した。このように、高速台車開発が難しい状況ではあったが、乗り心地の改良の過程で蛇行動への対処が求められ、また列車運行本数の増大に伴う軌道破壊の急速な進行への対処策も必要とされたことから、既存の重ね板ばねによる軸ばね式台車やイコライザー式台車に代わる新型台車の研究開発は、列車の運行速度の引き上げと歩調を合わせて徐々に進んでいった。だが、1964年、ヨーロッパ各国にとってはほぼノーマークの鉄道後進国と見なされていた日本の国鉄が、高規格の旅客鉄道を低速の在来鉄道から分離した東海道新幹線を最高速度210km/hで営業運転開始したことでこの状況は一変することとなる。ドイツでは、早くからルール地方で製鉄が発達していたこともあり、良質のばね鋼の供給には不自由しない状況にあった。このこともあって同国ではドイツ連邦の下で各邦国が独自の鉄道経営を行っていた時代から、重ね板ばねの特性を最大限に生かした台車の開発が模索され続けており、重ね板ばねとリンクを巧妙に組み合わせた軸箱支持機構が20世紀初頭の段階で既に実用化されるなど、世界をリードする研究開発が行われていた。ドイツ帝国成立後、1920年に新たに成立したドイツ帝国鉄道 (Deutshen Reichsbahn) は、統合後D-zug向けとして最初の制式客車シリーズを設計するに当たり、ドイツ国内の有力車両メーカー各社へ呼びかけ、高速運転に適した台車の設計コンペティションを実施した。ここで長期にわたる検討の結果選択されたのが1923年にWUMAG(:ゲルリッツ客車機械製造所)が設計した、長軸距と長大な重ね板ばねを組み合わせたばね機構を特徴とする、ゲルリッツ式と呼ばれる高速台車である。この台車は、荷重負担を担当する重ね板ばねと微振動吸収を目的とした2本のコイルばねを組み合わせた、門形のばね群による軸箱支持機構に加え、非常に長大かつ高剛性の重ね板ばねを2段リンク式で側梁から線路と平行に吊り下げ、これらに直交するように枕梁を直接板ばね上に乗せることで揺動周期の長周期化と蛇行動の引き金となる不安定速度領域の引き下げを実現するものである。この台車の制式化は以後のドイツ帝国鉄道における速達列車の高速化に大きく寄与し、またその成功は他国での高速台車開発にも少なからぬ影響を及ぼした。ゲルリッツ式台車そのものはドイツの国情に最適化して開発されたものであったため、他国に広く普及するには至らなかったが、そうした優れたばね鋼の特性を生かした軸箱支持機構開発の伝統は、ミンデン研究所で開発され、1950年代以降ドイツ連邦鉄道(DB)の制式客車用台車として量産されたミンデン・ドイツ式台車を経て、やがてそれはICEでのカップリングフレーム台車の実用化へとつながって行くこととなる。また、この技術のライセンス供与先である日本の住友金属工業では、新幹線用として高速走行特性を改良したIS式台車が生み出され、また板ばね2枚の組み合わせで軸箱を片持支持とし、ミンデン・ドイツ式の弱点である占有面積の縮小や軽量化を実現したS形ミンデン台車、さらにはS形ミンデン台車を基本としつつIS式台車と同様に板ばね支持基部へ防振ゴムを挿入し枕木方向の柔支持による曲線通過特性の改善を実現したSU形台車といった形で独自の進化を遂げている。第一次世界大戦に伴う物流の停滞で油脂類の供給難を経験したスイス政府は、永世中立国としての自国の立場を維持してゆく上で、非常時に備えた国内に産出しない稀少資源の恒常的な消費量削減の必要性、中でも特に自国で一切産出せず輸入に依存する必要がある戦略物資である油脂類について、これまで以上に厳しく消費抑制を図る必要があることを強く認識した。このため、特に物流の根幹となる鉄道においては、燃料消費を削減する目的で路線網の電化推進、軽量客車の開発、といった策が講じられたが、その一方で駆動システムや台車など、軸受や歯車などに油脂を大量に消費する機構部の設計について、可能な限り油脂類を消費しない代替メカニズムで置き換えるべく、その開発に巨額の費用が投じられた。ここで誕生したのが、シュリーレン社(スイス・カー・アンド・エレベーター社。略してSWS社とも)やシンドラー社 ()、それに兵器メーカーとしても著名なSIG社などにより、1930年代以降軽量客車用として開発・量産された円筒案内式台車である。この円筒案内式台車はウィングばね式台車の延長上に位置するものであるが、油浸あるいは低摩耗材料による二重円筒をコイルばねの内側に収め、これにダンパーと軸箱の上下動を案内する機能を兼用させることでペデスタルを排し、乗り心地の改善と油脂消費量の低減を実現し、併せてプレス材溶接組立構造とすることで十分な強度を維持しつつ軽量化をも実現するという、画期的な設計であった。この方式の台車は高精度な加工技術は必要であったが、その一方で以下のメリットが存在している。このように軌道条件の厳しい路線に広範に適応可能であったことから、この方式はスイスだけではなく日本や中国をはじめ全世界的に広く普及する大ヒット作となった。イギリスはドイツと同様に製鋼能力に恵まれ、また軌道条件が一般に良好であったことから重ね板ばねによる古典的な軸ばね式台車が戦後の国有化後に量産されたマークI客車まで長く採用され続け、その一方で釣り合い梁式台車も同じくマークI客車の一部に採用されていた。その一方で、新しい軸箱支持機構に関する基礎研究はその間も続けられており、例えば1951年には工業ゴム製品メーカーのメタラスティック社 (Metalastik Limited) のアーチ・ハースト (Archie John Hirst) によって考案された、剪断方向の異なるシェブロン(山型)ゴムを交互に積層したものを2組ずつ横断面を台形とした軸箱と組み合わせることでペデスタルと軸ばねの役割を兼用させる、シェブロンゴム式軸箱支持機構の特許が成立していた。日本で東海道新幹線が開業した1964年より量産を開始したマークII客車では160km/h運転を前提に円筒案内式軸箱支持機構と複列コイルばねと揺れ枕を組み合わせた枕ばね、それにボルスタアンカーを採用した近代的な設計のB4形台車が制式採用され、1972年より量産が開始されたマークIII客車ではクラス43ディーゼル機関車のプッシュプルによるInter City 125での200km/h運転実施を念頭に置いて軸梁式軸箱支持機構と揺れ枕上に置かれた空気ばねによる枕ばね、そしてディスクブレーキを備えたB10形台車が導入された。もっともこれらはいずれも他国での採用よりやや遅れての導入となっており、鉄道斜陽化の時代にあってイギリス国鉄の技術開発力が低下しつつあることは否めない状況にあった。その様な状況下で、1970年代に入りイギリス国鉄は長期的な基礎研究の末にAPT (Advanced Passenger Train) と呼ばれる革新的な高速列車開発プロジェクトを具体化させてゆく。1番手となったAPT-Eは1972年に完成したガスタービン動車である。これはウィングばねによる軸箱支持機構とダイレクトマウント型の空気ばねを組み合わせた台車に、強制車体傾斜機構と、潤滑油に浸された羽車の回転抵抗を利用した、液体変速機と同様の機構による流体ブレーキを備えるという極めて先進的な設計となっていた。このAPT-Eが245.1km/hの速度記録を達成したことで自信を深めたイギリス国鉄技術陣は、APTの量産に向けてより本格的なデータ収集を行うべく、そしてオイルショック後の社会情勢に対応すべく動力車を電気動力に変更したAPT-P (APT-Prototype) を設計し、制御車1両を含む6両のトレーラーと1両の電動車を1ユニットとして6ユニット、編成としては3編成を1979年に製造した。このAPT-Pでは台車の基本的な配置こそ変更されなかったものの、軸箱支持機構については改良が施され、ウィングばねに片持ち式の長い板ばねを組み合わせた日本のIS式台車に近い機構が採用された。このAPT-Pは試験時にAPT-Eを上回る261km/hの速度記録を達成したものの、試験的な営業運転を厳冬期に開始した結果、流体ブレーキの潤滑油凍結に起因するブレーキ緩解不良による走行不能など、試験中に想定しなかった問題が台車周りを中心に続出した。そのため、最終的にイギリス国鉄はこのAPTの開発計画を断念し、以後は在来型の機関車で高速運転を実施することに方針転換せざるを得なくなった。かくして1989年には従来型の機構によるクラス91電気機関車と新設計のマークIV型客車の組み合わせによりInter City 225の運行を開始した。しかしマークIV型客車の台車は揺れ枕を廃止してダイレクトマウントとしたものの、軸箱支持機構をマークIII型と同系の短腕型軸梁式とするなどその設計はやや保守的なものとなっており、APTで開発された新技術の多くはそのまま潰え去る結果となっている。第二次世界大戦前には国内に大私鉄が多数存在していたフランスでは、アメリカと同様、軌道条件が劣悪な線区が存在したためもあり、鉄道国有化後の1938年に設計された最初の制式客車であるVoiture DEV AO以降、大私鉄時代の客車用台車を基に設計されたY16と称するイコライザー式台車の採用が長く続けられ、1950年より量産がスタートしたVoiture DEV Inoxと呼称する一連の近代的なステンレス製客車シリーズでも当初はこの伝統的な設計のイコライザー式台車が採用される状況であった。SNCFが台車の改良による高速化に本腰を入れるようになったのは、日本の東海道新幹線にSNCF首脳陣が衝撃を受けた1960年代中盤になってからである。このような事情から、1967年にル・キャピトール (Le Capitole) が最高速度200km/hで営業運転を実施する際に開発されたY28や、それに続くコライユ形客車用Y32などで軸梁式を採用するまで、SNCFは実に30年近くにわたってばね下重量は大きいが追従性の良い釣り合い梁式台車に固執し続けた。このことは、SNCFが承継したNORDやPLMをはじめとする旧6大私鉄それぞれの路線建設方針の相違等の事情から軌道条件の整備・統一が難しかったことと、鉄道先進国として知られたSNCFの車両行政担当者して、追従性ではやや見劣りするもののばね下重量の少ない新型台車の積極的な採用をためらわせるほどに劣悪な軌道条件の線区が長く存在し続けたことを示している。1960年代以降はTGVを含めて直進安定性に優れる軸梁式台車の研究が進められたが、枕ばねについてはドイツと共に優れたばね鋼が得られることを背景として、SNCFは長くコイルばねの使用に固執した。その一方で、積層ゴムによる軸箱支持機構の研究も進められ、TGV PSE用Y230(動力台車)・Y231(付随台車)では円筒積層ゴム式の軸箱支持機構を長軸距(軸距3,000mm)のウィングばね配置で設置し、かつ枕ばねをコイルばねの横剛性に依存するボルスタレス構造とした。更に、Y230では主電動機を車体装架とし、更に駆動装置の質量の約半分を車体装架とすることでボルスタレス構造の採用と併せて台車のばね間質量の大幅な低減と慣性力の削減を図り、またY231では連接車であることを生かして枕ばねの支持高さを重心近くまで引き上げることでローリング特性を大きく改善することに成功するなど、鉄道技術先進国としての威信をかけて様々な工夫を凝らした精緻な機構・設計が導入されている。もっとも、このTGV PSEの方式では車体間の前後動が大きいという問題があり、またコイルばねによる枕ばねでは高速走行時に発生する微振動の吸収が充分には行いきれなかったことから、後継となるTGV-A以降では車体間の上下に各2本ずつ前後動を抑制する車体間ダンパの追加が実施され、加えて枕ばねが空気ばねに置き換えられている。また、TGV-A以降では軸箱支持機構についてもY32などと同様の短腕型軸梁式に変更されている。1939年に201km/hの速度記録を達成したETR200を筆頭として、第二次世界大戦前よりいわゆるカルダン駆動方式を採用した動力分散方式による電車列車の実用化に先鞭を付けていたイタリアでも、ドイツのゲルリッツ式台車に近い構造を採用する高速列車向け台車の研究開発が地道に続けられていた。もっともイタリアの場合は山がちな地形に起因する線形面での制約から、最高速度向上よりはむしろ曲線通過性能の改善に対する関心の方が格段に強く、戦後製造されたETR300“セッテベロ”でも幾分かの改良はあったものの、このゲルリッツ式近似構造の台車を採用している。また、TEE用に開発されたALN 448形気動車では円筒案内式台車を採用するなど、戦後はドイツではなくスイスの影響が強く現れるようになっており、その後はフランス系の軸梁式台車が導入されるなど、軸箱支持機構については独自開発の方式を大々的に採用するような状況とはなっていない。その一方で、後述するように曲線通過性能を改善するための車体傾斜式車両(ペンドリーノ)の開発が1940年代から精力的に行われた。もっとも、当時の技術では応答性の点で満足な性能のものが完成せず、これは最終的に電子回路技術が急速に発展した1970年代に入り、イギリス国鉄のAPTプロジェクトで開発された技術を導入することで問題の解決が図られた。こうして完成したペンドリーノだが、1975年に試作車であるETR401が完成したものの量産車となるETR450は高速新線建設計画を巡る紆余曲折から営業運転への投入が著しく遅れ、ETR401完成から13年を経た1988年よりようやく営業運転を開始している。なお、これらETR401・450は強制車体傾斜式による曲線通過性能の向上に加え、在来線では最高200km/h、高速新線では最高250km/hでの運転を可能としている。これらの台車はいずれも直進安定性の点で有利な軸梁式軸箱支持機構を採用し、軸ばね・枕ばねはコイルばねとなっている。20世紀前半のアメリカでは、ペンシルバニア鉄道をはじめとする一部の先進的な鉄道会社でウィングばね式台車や新設計の軸ばね式台車の導入が始まっていたが、一般的にはフランスと同様に軌道条件の問題から、その後も長くイコライザー式台車を主力とせざるを得なかった。だが、そうした機構面での技術的停滞の一方で、1920年代以降、アメリカでは台車の一体鋳鋼化による、組み立て工数の削減と剛性の向上、つまり構造面での技術開発が急速に進展した。鋳造技術の進歩は、気候面で空気が乾燥していて鋳造に有利な条件が揃っていたことによる製造コスト削減の容易化がその背景にあり、同時にメンテナンスフリーによる保守経費削減を特に重視するアメリカの鉄道会社各社の伝統的方針と、台車枠全体の一体鋳鋼化で得られる高剛性がもたらす直進安定性の向上や設計上の自由度確保を狙う設計サイドの思惑とが合致したことによるところも大きかったとされる。大量の台車が必要となる貨車用には、調達・維持の両コストを低く抑えられる鋳鋼製台車枠は特に好適であり、軸箱をトラス構造の側枠に軸ばねを介さず直接結合したアーチバー台車をそのまま一体鋳造したようなベッテンドルフ型と、更なる組み立ての簡素化を狙った様々な亜種が出現し、大きな成功を収めた。こうして経済的でしかも剛性が高く性能が良い一体鋳鋼台車は1920年代以降アメリカの鉄道に急速に普及し、イコライザー式台車やウィングばね式台車、それに軸ばね式台車など、それぞれの目的や必要にあわせて設計されたものが、複雑な鋳型形状をものともせずに大量生産された。もっとも、アメリカでは貨物輸送主体で鉄道事業者側の旅客列車の高速化への意欲も薄かったことから、保守コストの低減が一定のラインに到達した後は、台車改良への取り組みに対する熱意は薄れ、貨車用を中心にメンテナンスフリー化につながる技術は逐次導入されたが、乗り心地の改善につながる新技術の導入はなかなか進まなかった。かくしてアメリカでは、PCCカー用台車開発やバッド社によるパイオニアIII 1自由度系軸箱梁式台車の開発など、主として路面電車やインターアーバン向けには見るべき技術開発があったものの、大陸横断鉄道を主軸とする大手私鉄では第二次世界大戦後も長期間に渡ってイコライザー式台車の量産が継続した。そればかりか、遂には日本の新幹線電車に影響されて1968年に北東回廊向けとしてペンシルバニア鉄道が導入した、時速160マイル超での走行が可能とされるメトロライナーまでG.S.I社製イコライザー式台車を装着して製造されるという驚くべき技術的停滞が発生した。その後はアメリカの旅客鉄道産業そのものが壊滅状態に陥ったこともあって、1970年代以降のアメリカにおける鉄道車両用台車の研究開発は事実上断絶状態となっている。後進工業国として、長く欧米からの技術を受け止めることに汲々としてきた日本の鉄道工業界にとって一大転機となったのは、第二次世界大戦の敗戦と、それに伴う航空機産業の禁止であった。航空産業にとっては致命的と言って良い打撃となったこの決定は、しかし優秀な航空技術者を受け入れる立場となった鉄道・自動車産業界には非常に大きな恩恵を与えるものであった。特に、この時に航空技術者からもたらされた、ワグナー()の薄板による張力場理論を基礎とする張殻構造の設計ノウハウとフラッター現象の分析に由来する振動現象の理論的研究の2つは、日本の鉄道・自動車産業史をこれ以前と以後に峻別させるほどの重大な影響を及ぼした。それは鉄道車両用台車も例外ではなく、中でも後者はその第一人者であった松平精が国鉄の鉄道技術研究所に入り、蛇行動に関する研究を行うようになったことで、これまでは半ば設計者の勘に頼る形で行われていた構造設計について、理論モデルに従った机上計算により合理的に行えるようになる、という劇的な変化が生じることとなった。その大改革に主導的役割を果たしたのが、1946年(昭和21年)に松平が在籍する鉄道技術研究所を中心に、国内の台車メーカー各社が参加して設立された高速台車振動研究会である。蛇行動に関するこの研究会による研究成果については後述するが、この研究会ではガタが生じやすく蛇行動の原因の一つと目された、伝統的なペデスタルを使用する台車からの脱却が強く模索され、この時期以降、日本の台車メーカー各社で多種多様な方式・構造の軸箱支持機構が研究開発された。この時期の理論・実践面での膨大な研究と試行錯誤による経験の蓄積は、やがて新幹線の成功に至る日本の鉄道高速化の道筋を形成することとなる。鉄道車両の輪軸においては通常、曲線区間での自己操舵を成立させるために円弧踏面を備えた車輪を車軸に固定してある。しかしながら、この構造で2軸ボギー台車を構成する場合、限界速度域での自励振動による蛇行動現象の発生は不可避であり、安全な列車運行のためにはこの限界速度が実用速度域よりも高い速度となるよう、台車を設計する必要がある。この問題は長く重要視されていなかったが、高速台車振動研究会の発足後、日本においてはこの分野での研究が急速に、そして飛躍的に発展した。これはまず高速化実現の方策の一つとして研究が進められ、松平らによる精密な模型を用いた振動試験の成果を反映する形で、蛇行動対策として高剛性の鋳鋼製側枠を使用し、軸距を伸ばし、更に軸箱剛性を高く設定した新型台車の開発が進められた。この構想に忠実に従って設計された台車の一つに扶桑金属工業FS-1がある。ユーザーである国鉄と南海電鉄が与えた形式名をそれぞれDT14(TR37)・F-24と称するこの台車は、新しいウィングばね式の軸箱支持機構を備え、従来通り重ね板ばねによる枕ばねを揺れ枕で支える、過渡的な形態を備えていた。だが、それでもこれは在来品と比較して優秀な乗り心地と走行特性を示し、高速台車振動研究会の研究成果を実証するものであった。もっとも、大型鋳鋼製部品を用いた台車枠は高剛性が確保できる一方で、重量が過大となる傾向が強くばね間重量が大きくなるため軌道保守の観点からは受け入れがたい面があり、また長大な軸距は床下機器艤装スペースの確保や曲線通過時の転向性能の低下といった観点で難があった。このため以後はより軽量かつコンパクトで、ばね下重量の少ない方式の模索が行われ、カルダン駆動方式など駆動システムのばね上装架への移行と歩調を合わせ、台車枠全体について大幅な軽量化を図った鋼板プレス材溶接組み立て構造への移行、過大と見なされた軸距の短縮による適正化、新しい軸箱支持方式の導入、といった新設計の導入が進んだ。この段階で注目されるのは、航空技術者が多数参加した新興車両メーカーである東急車輛製造が東急5000系(初代)のために1954年に開発したTS-301である。これは徹底的な軽量化実現のため、台車枠全体についてプレス材による全溶接構造を採用し、さらにコイルばねが備える横剛性に注目し、これと振動の減衰特性に優れたオイルダンパーを併用して枕ばねとすることで揺れ枕を省略、側梁と枕梁の間の前後力をボルスタアンカーで伝達する、インダイレクトマウント台車の日本における鼻祖となった形式であり、この台車で採用された各種要素技術はその後の日本のメーカー各社による台車開発に大きな影響を与えた。このTS-301で採用された、単列のコイルばねの横剛性に依存する形のインダイレクトマウント方式を旅客車用として直接模倣するメーカーはほぼ皆無であったが、前述の空気ばねを枕ばねに採用し、横剛性を左右動ダンパーと過大左右動ストッパーの併用で確保する構造のインダイレクトマウント方式は、保守上の理由などで後述するダイレクトマウント方式の導入に難色を示した各社で採用され、また初期の採用例の一つとなったボルスタアンカーは揺れ枕式の台車でやはり側梁と上揺れ枕間の牽引力伝達手段として、あるいは側梁と上揺れ枕間を結合することで常用速度域での蛇行動減衰特性を確保する手段としてこの時期以降、各社で多用されるようになった。こうして、高速台車振動研究会での蛇行動の研究が進んだことで高速台車に要求される特性が次第に明らかとなり、直進安定性の向上と、ばね下重量の軽減の2つが特に強く求められるようになった。後者については電車における主電動機装架方法の変更、つまり駆動システムをスプレーグ以来の吊り掛け駆動方式からカルダン駆動方式へ変更することで大きな成果が得られたが、同時に台車側でも対処が求められ、台車メーカー各社は先を争うように新型の軸箱支持機構開発に邁進することとなった。1948年以降の10年間に日本で研究開発が進められた軸箱支持機構(海外からのライセンス導入を含む)とメーカーの組み合わせは以下の通りである。サスペンションのばねとして空気圧を利用する空気ばねは、第二次世界大戦前の黎明期の事例では、金属製の二重円筒などが使用されたことが確認されている。もっとも、これらは着目点は優れていたものの、構造・工作面での不備や金属疲労や摩耗に起因する耐久性の欠如などによって充分な成功が得られず、広く普及するには至らなかった。この空気ばねが実用的な形で広範に利用可能となり、また実際に利用されるようになったのは、第二次世界大戦後のことである。自動車用タイヤからの技術的な援用によるゴム製ベローズを使用するものが、アメリカでグレイハウンド社などの長距離都市間バスを中心に遅くとも1940年代には一般化していた。これはベローズ形の空気ばねで車体を支持し、高さをレベリングバルブと呼ばれる圧力調整弁で一定に保持するという、以後の空気ばねの基本となるシステムを既に備えていた。車載圧縮ポンプで圧縮空気を確保するセルフレベリング機能付の自動車用空気ばねの着想は早い時期から存在し、確認可能な範囲でも1921年の米国特許1371648号("Pneumatic spring-support for motor-vehicles" Frank, Schmidt 1919年出願)等の古い例があるが、初期にはやはり金属シリンダーを用いるものが多く、実用域に達したのは耐久性に優れるゴムベローズを利用できるようになった1940年代以降である。鉄道車両への応用も行われ、1953年、アメリカでは、ジェネラルタイヤ社とティムケン社の共同研究により貨車用台車への空気ばね適用が試験され、プルマン社によるトレインX、バッド社によるパイオニアIIIなどの軽量化を狙った客車で空気ばねが採用された。一方で、当時既に斜陽化が指摘されていたアメリカの鉄道界では、低湿度で路盤が強固であるという事情も手伝って、これを鉄道車両に積極的に応用しようという動きは鈍かった。また、当時鉄道先進国と目されていたドイツやフランスなどのヨーロッパ各国でも事情は同様で、枕ばねとしてはコイルばねに防振ゴムを巻いたエリゴばねで満足できる乗り心地が得られていたこともあって、空気ばねの採用に対する関心は薄かった。日本での空気ばねの鉄道車両への応用としては、1948年頃から日立製作所笠戸工場で空気ばねの研究が進められ、1950年には横浜市電の台車用として試作され実車試験まで行われた。しかし、この研究は金属ベローズの疲労強度上の問題により成功には至らなかった。その後、空気ばねの研究は一時途絶えていたが、1950年代当時新型台車の開発に精力的であった高田隆雄 (1909 - 1989) を中心とする汽車製造の設計チームと同社製台車の主要な顧客であった京阪電気鉄道の二人三脚によって再び実用研究が推進されることとなった。。1955年に京阪電気鉄道に最初に納入され、1956年8月より同社の1750型1759で試用が開始されたKS-50では、ゴム製空気ばねの寸法的制約から、設計陣の希望する大径のベローズ式空気ばねが採用できず、枕ばねの空気ばね化が叶わなかった。このため、やむを得ず円筒案内式(シンドラー式)軸箱支持機構を備える台車の軸ばね計8本を空気ばね化するという複雑な構造が選択され、枕ばねはコイルばね+オイルダンパーのままとされている。この試作台車は試験開始後、曲線が多く過酷な軌道条件の京阪線において大成功を収めた。ここでは振動の減衰特性に優れ、しかもレベリングバルブによる空車時と満車時との積空差の自動吸収で床面高さを一定に保てるといった空気ばねの優れた性質が明らかとなった。しかも、一種の妥協策として軸ばねを空気ばねとしていたことがきっかけとなり、1つの興味深い技術成果が得られることともなった。空気ばねによる軸ばねの優れた減衰特性を期待して枕ばねをロックし試験走行を実施してみたところ、走行特性はそれほど低下しなかったものの、乗り心地の著しい低下が発生することが確認されたのである。これにより、走行特性を支配する軸ばね(1次ばね)と、乗り心地を支配する枕ばね(2次ばね)の分担関係が明らかとなり、従来経験則で決定されていた台車のばね定数決定についてのモデル化が可能となって以後の台車設計に大きな影響を残している。この後も汽車・京阪のコンビは、当初の希望通り大径のベローズ式空気ばねを枕ばねに用いる、日本初の量産実用空気ばね台車であるKS-51を筆頭にKS-57に始まる1自由度系軸箱梁式空気ばね台車(エコノミカルトラック)、KS-68独立回転車輪式台車、KS-75全アルミ製台車など次々に新しい構造の空気ばね台車を開発し、競合他社においてもこれに刺激されて様々な空気ばね台車の開発が行われるようになっていった。これらと、続いて1958年9月に第一陣が竣工した国鉄20系特急電車およびそれらに装着されていたDT23系空気ばね台車の成功は、空気ばねの乗り心地の優秀性を未採用の私鉄各社にまざまざと見せつける結果となり、以後の日本においては優等車では空気ばね台車の使用が当然、という風潮が醸成された。そればかりか、通勤車であっても空積差を自動調整可能な空気ばねを採用することの有利さが徐々に認識されるようになり、DT21系のコイルばね台車を1980年代半ばになるまで普通車向け標準台車として墨守した国鉄を除くと、1970年代中盤までには日本では通勤車でも空気ばね台車を装着するのが当然、という状況になってゆく。汽車製造以外の各社による空気ばね台車の研究開発は1957年以降本格化し、国鉄でのDT21Yの試作や東急車輛製造と日立製作所を皮切りに、日本の台車メーカー各社およびそれらと取引のある各鉄道で、試作台車の研究開発が進められた。この中で、汽車・京阪コンビ以外でもっとも積極的にその開発を進めたのは、汽車がKS-51に採用したシンドラー式円筒案内台車と同様の機構を備えるシュリーレン式円筒案内台車の開発を進めていた近畿車輛と、その親会社であり同社製台車の大口顧客でもある近畿日本鉄道(近鉄)である。1955年当時、近鉄は競合路線である国鉄東海道本線及び関西本線との対抗の必要性から、特急列車の高速化と併せて冷房化や乗り心地の改善などのサービス改善施策を積極的に推進しており、1957年頃には画期的な高性能車であり、かつ以後の日本の有料特急電車の基本形を確立することにもなる、新型特急車(大阪線用10000系ビスタカー)の設計を進めていた。近隣の汽車・京阪による空気ばね台車の成功を目の当たりにした同社は、1958年に高性能車の試作車である近鉄モ1450形電車の装着していたKD-6の枕ばね周辺を改造して短腕リンク式揺れ枕に空気ばね装備としたKD-25で運用データを採取後、KD-26・KD-27・KD-27A(10000系用)・KD-28・KD-28A(6431系用)として同年6月に製造した特急電車全てに一気に空気ばね台車を装着するという積極性を示した。旅客車用の台車は、通常、軸ばねと枕ばねの2つの自由可動部分がある2自由度系台車が採用されている。これに対して、貨車用2軸ボギー台車では、通常軸ばねを持たない1自由度系台車を採用している。しかし、過去にはオールコイルばね台車の普及期である1950年代から、空気ばね台車が国鉄以外の私鉄各社の旅客車において主流となる1960年代末まで、ばねそのもの及び併用されるダンパー(ショックアブソーバー)の設計制作技術の向上や、新たな素材の投入により、旅客車用台車の片方の自由度系の機能を強化することと引き換えにもう一方を簡略化し、イニシャルコスト・ランニングコストの低減と台車の大幅な軽量化が可能であると考えられていた時期があった。そこで注目されたのが、合成ゴムあるいは天然ゴムを防振ゴムとして使用する手法である。ゴムには金属ばねとは異なり、各方向のばね定数や形状についての制約が少なく、また加硫接着という手法を用いることで金属部品に接着して取り扱いの容易化も可能というメリットがある。そのため、内燃機関のエンジンマウントの振動抑止用を中心に鉄道用でも戦前から使用されていた。だが、第二次世界大戦前には化学工業の未発達と天然ゴム資源の希少性、それに軍需を優先する必要などからその応用は厳しく制限される状況にあり、日本でこの材料を台車のばね材として積極的に利用できるようになるには、1950年代に入り日本国内の化学工業が再興するのを待つ必要があった。防振ゴムの鉄道車両用台車での最初期の応用例となったのは、弾性車輪である。これは車輪のディスク部とタイヤ部を焼き嵌めとせず、タイヤ内周部にボルト穴を設けてディスク部とボルト・ナットで位置決めし、両者間に防振ゴムシートを置いてこれを締め付け固定する、あるいはディスク部とタイヤ部の間にゴムブッシュを圧入して固定するというものである。この弾性車輪は、防振もさることながら防音の効果が非常に大きいことからPCCカーを中心とする路面電車で賞揚され、日本にも和製PCC車と呼ばれるPCCカーの技術を取り入れた車両を中心に、1950年代以降一部の路面電車で導入された。だが、この弾性車輪には、表面積が大きなディスク部とタイヤ部が分離され、その間に熱伝導率の低いゴムが介在するため、踏面ブレーキを連続使用した際に摩擦熱を放熱することが難しいという問題がある。さらに、熱や衝撃でタイヤ部が変形・割損する危険もあるため、高速電車での使用に適さない。そのため、日本ではこの弾性車輪は新幹線開発の過程で試験が行われたものの、一般向けでは名古屋市交通局を除くと、1980年代中盤に広島電鉄がドイツ流のゴムブッシュ圧入式弾性車輪を使用する70形 (GT-8) をドルトムント市から輸入し、その保守を通じて運用ノウハウを習得するまで、約20年にわたって半ば忘れ去られた技術と化していた。このような事情もあり、日本での防振ゴムの鉄道車両用台車、特に高速電車用台車への適用は以後、台車本体の1次・2次ばねに対するものが主流となってゆく。第二次世界大戦後の日本で防振ゴムを台車に採用した最初期の事例の1つに、第二次世界大戦後最初の新造食堂車となったマシ35・カシ36形(1950年製)に装着されたTR46がある。このTR46は、当時の量産客車用台車であるTR40の派生機種で、従来は軸ばね、枕ばね共に複数使用の3軸ボギーとし、ばね定数の低い柔らかいばねを使用することで良好な乗り心地を実現していた食堂車へ戦後初めて2軸ボギー台車を採用するに当たり、ウィングばね式の軸箱支持機構の採用により高評価を得ていたTR40を基本としつつ、乗り心地の改善を目指して下揺れ枕と枕ばねの間に防振ゴムシートを挿入したものであった。この設計変更は好成績を収め、以後食堂車や寝台車、展望車といった優等車の2軸・3軸ボギー台車各種について下揺れ枕と枕ばねの間に防振ゴムを挿入する改造工事が順次施工されるほどの成功となった。こうして枕ばねへの防振ゴムの採用が一定の成果をあげる中、国鉄は戦後初の完全新規開発による制式気動車として、キハ44000形を1952年に試作する。このキハ44000形はディーゼルエンジンで発電機を回し、その電力で電動機を駆動して走行する、いわゆる電気式気動車であるが、その駆動系に直角カルダンを採用したことで一つの問題が生じた。直角カルダンでは主電動機の電機子軸が線路と平行に配され、主電動機の長さが車輪のバックゲージに制限されないため狭軌でも採用が容易という利点がある。もっとも、車軸間の線路方向に電動機とカルダン継手を装架するため、台車の軸距を従来の機械式気動車用よりも長く設計する必要があり、さらに、発電システムと電車用制御器を併せて搭載する床下機器の設置スペースを確保する必要もあったことから、台車の軸距についてはキハ42000形用のTR29の2,000mmと、この時期の電車用台車の標準であった2,450mmの間をとって2,300mmとされた。一方、搭載可能なエンジンの出力が低いキハ44000形の場合、軸距の増加による重量増を相殺する必要から、台車そのものの軽量化が特に厳しく要求され、しかも主電動機の電機子軸に接続される駆動軸が位置的に台車の上揺れ枕の心皿左右を貫通することになったため、物理的に上揺れ枕と下揺れ枕の間にコイルばねや重ね板ばねを設置することが不可能となってしまった。これらの問題に対処すべく国鉄が採ったのが、軸ばねを下天秤ウィングばね式として可能な限りばね定数の低い柔らかいコイルばねとオイルダンパを組み合わせて使用、さらに揺動特性に大きく影響する揺れ枕の吊りリンク長を600mmに延伸した上で、TR46で成功した防振ゴムブロックのみを上下の揺れ枕間に挿入する、特異な設計であった。DT18・DT18Aと命名された、この特異な設計に基づくキハ44000形用台車は、軽量化とコストダウンを特に厳しく要求され、またキハ44000形が最高速度90km/hと高速性能に対する要求を一段落としていたことから成立した、いわば低レベルの妥協の産物であった。事実、完成した実車では基礎ブレーキ装置を両抱式踏面ブレーキとしたために制動時に軸ばねがロックされて防振ゴム以外にばね作用を行う機構が無くなり、凄まじい上下動に見舞われるなど、この台車は劣悪な乗り心地で不評を買った。だが、この設計は軽量化と製作・保守コスト低減の点では従来の台車にはないメリットがある、と評価された。そのため、液体式変速機を搭載したキハ44500形でも軸距を2,000mmへさらに短縮し、端梁を省略した上でこの設計を踏襲した台車がDT19・TR49として採用され、以後電車用のDT21系(1957年設計)を基本に、揺れ枕部などを一部手直ししたDT22・TR51系(1958年設計)で置き換えられるまで、これらの台車が国鉄気動車用制式台車として大量生産された。もっとも、DT19・TR49の設計は最終的に失敗と判断されており、前述の空気ばね試用やオイルダンパの改良といった様々な軸ばね特性の改善による乗り心地向上の試みもことごとく失敗に終わった。そのため、DT19・TR49を装着した車両は後年優先的に淘汰され、一部はキハ80系初期車の台車交換で発生したDT22・TR51系へ台車が交換されるなどの経過を辿っている。こうして、日本の国鉄が厳しい制約に迫られて枕ばねを簡素化した台車を設計していた時期に、民間では、これとは逆に軸ばねを簡素化した台車の研究開発が、台車メーカー各社とユーザーである大手私鉄各社によって積極的に進められていた。汽車製造において1自由度系台車の開発の発端となったのは、空気ばね台車の項で記した汽車製造KS-50の枕ばねをロックしての走行試験であった。この試験を通じて乗り心地を支配する枕ばねと、走行特性を支配する軸ばねという図式が明確になったことから、一定の走行特性を確保しつつ軸ばねを簡素化し、たわみ量を大きくできる空気ばねを枕ばねに用いることで、従来の金属ばね台車と同程度かそれ以下のイニシャルコストで乗り心地の良い空気ばね台車を提供しよう、という構想が汽車製造大阪製作所で立てられた。この構想の先行例となったのは、南海電気鉄道(現・阪堺電気軌道)が軌道線である阪堺線用として1957年(昭和32年)に製造したモ501形に装着された汽車製造KS-53である。これは型番からも明らかなように量産空気ばね台車としても極初期の製品で、また日本初の路面電車用量産空気ばね台車でもある。この台車は低床の路面電車用であるため、揺れ枕を床下に収めるのが困難であったことなどから揺れ枕を排したインダイレクトマウント構造として設計されており、枕梁やボルスタアンカー周辺の構造が幾分複雑なものとなっているものの、以後のエコノミカルトラック各種に継承されることとなる各部の基本構造は、ここでほぼ全て確立されている。この台車を装着したモ501形は阪堺線としては初のカルダン駆動方式採用車でもあったことから乗り心地面で好評を博した。そのため、同形式以後の南海電気鉄道阪堺線向け新造車ではモ351形用汽車製造KS-69(1962年〈昭和37年〉)、モ351形用帝国車輌工業TB-58、とこのKS-53を基本とする1自由度系軸箱梁式空気ばね台車が順次採用されている。また、TB-58を設計製造した帝國車輛工業は軸箱支持機構などはこれと同様ながら枕ばねをコイルばねとした西日本鉄道北九州線1000形連接車用TB-21、鹿児島市交通局600・460形用としてTB-55・TB-55A、伊予鉄道モハ50形用としてTB-57、と汽車製造KS-53と同様のコンセプトに基づく1自由度系軸箱梁式台車を多数製造し、さらに帝國車輛工業や汽車製造大阪製作所とほど近い尼崎に所在し、帝國車輛工業と分担して各社への車両納入を行う機会の多かったナニワ工機でも、鹿児島市交通局600形用NK-51、呉市交通局2000形用NK-52、と同種の1自由度系空気ばね台車を製造納入している。譲渡先(仙台市交通局)を含む運用路線の廃止で消滅となった呉市向けNK-52と保守面の事情から早期に淘汰された伊予向けTB-57、それに路線の部分廃止時に少数派台車の装着車から優先淘汰されたために先行処分されて早期消滅となった西日本鉄道向けTB-21を除くと、この種の路面電車用1自由度系軸箱梁式台車は、その乗り心地の優秀さから、大半が製造から半世紀前後が経過した現在も引き続き使用されている。もっとも、路面電車向けに続く高速電車向け1自由度系軸箱梁式空気ばね台車の開発と実用化にはしばらく時間を要した。汽車製造の提案する高速電車向け1自由度系空気ばね台車を最初に受け入れたのは、同社製空気ばね台車の最初のユーザーとなった京阪電気鉄道であった。同社では試作のKS-57が1959年(昭和34年)に1810系で試用され、従来方式空気ばね台車や金属ばね台車との比較試験が実施された。これは同年から量産が開始されていた2000系への採用を企図してのもので、翌1960年(昭和35年)製造の2000系2次車ではKS-57を基本としつつ設計をさらに洗練させたKS-63が採用された。後にエコノミカルトラックあるいはエコノミカル台車と呼称されることになる、この1自由度系台車シリーズは、以下の特徴を備えている。このように、このエコノミカルトラックでは、軸箱支持機構が大幅に簡
出典:wikipedia
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