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遠藤一彦

遠藤 一彦(えんどう かずひこ、1955年4月19日 - )は、福島県西白河郡西郷村出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。元プロ野球選手の遠藤政隆とは従弟にあたる。学法石川高校では、2年生時に中堅手、控え投手として夏の甲子園予選東北大会決勝に進出。東北高と対戦し6回からリリーフに立つが3-6で敗退。翌にはエース、四番打者として県予選決勝に進むが双葉高に1-2で惜敗、甲子園には届かなかった。卒業後は東海大学に進学。原辰徳は東海大の後輩にあたり、在学中は共にプレーしている。首都大学野球リーグでは5回優勝。の全日本大学野球選手権大会では、吉田恭之投手(松下電器)との二本柱で勝ち進み、決勝で斉藤明雄投手を擁する大商大を2-1で降し優勝を飾った。翌の全日本大学野球選手権大会では、決勝で駒大に延長10回の熱戦の末に敗れ、準優勝に終わる。リーグ通算47試合登板、28勝5敗、防御率1.11、200奪三振。最高殊勲選手1回、最優秀投手2回、ベストナイン1回受賞。大学同期に石井昭男外野手、林良孝投手(本田技研鈴鹿)がいる。1977年のドラフト会議で横浜大洋ホエールズから3位指名を受け入団。なお大学時代は建築学を学んでおり、設計士になるのが夢だったという。そのためドラフト指名された当初は固くプロ入りを拒否していた。しかし地元福島へ帰る電車の中でスカウトが粘り強く説得した結果、入団にこぎつけた。プロ一年目のシーズン終盤に一軍に昇格しプロ初勝利を挙げるが、監督の別当薫の育成方針によりほとんど二軍生活だった。別当からは春先に下手投げへの変更命令が出ていたが、二軍投手コーチだった堀本律雄から上で投げるようにと進言され、本格派投手としての一歩を踏み出す。前半戦は先発、後半戦は抑えとして12勝12敗8Sの成績を挙げるも、新人王はリーグ勝率1位の藤沢公也が受賞した。はほぼシーズンを通してリリーフに専念。翌に斉藤明雄と入れ替わる形で先発投手に復帰。以後、弱小時代のホエールズのエースとして活躍する。1982年から6年連続二桁勝利をあげる。には18勝9敗3S、186奪三振、防御率2.87の成績でベストナイン、最多勝、最多奪三振、最多完投、沢村賞を獲得。も17勝17敗、208奪三振の成績で2年連続の最多勝、最多奪三振を記録するものの打線の援護に恵まれず敗戦もリーグワーストを記録した。勝率がジャスト5割での最多勝獲得はセ・リーグではこの年の遠藤のみである。17勝目を挙げた10月13日の対ヤクルト戦では9回2アウトまで抑えた所でこの年限りでの現役引退を表明していた平松政次にマウンドを譲り、右翼手の守備に就いた。にも最多奪三振を記録。10月3日の対巨人戦(後楽園球場)の5回表に三塁への走塁中に右足アキレス腱を断裂。翌に手術・リハビリを経て一軍復帰するが、5勝12敗で防御率4.76と復調せず、連続二桁勝利が途切れた。に10年ぶりにクローザーへ転向し、6勝6敗21Sの成績を挙げ、カムバック賞受賞。限りで現役を引退。引退試合は消化試合での巨人戦であったが、最後の勇姿を見ようと詰め掛けたファンで横浜スタジアムは満員となった。2回を無失点、140km/hを超えるストレートとフォークで有終の美を飾った。引退セレモニーではチームのほとんどの選手が涙で引退を惜しみ、1年先輩でホエールズを長きにわたり一緒に支え続けた斉藤明夫(明雄より改名)とは、共に号泣して抱き合った。なおこの試合は「横浜大洋ホエールズ」としての最後の試合でもあった。その後はTBSテレビ・TBSラジオ解説者( - )を経て、横浜で二軍投手コーチ( - ・一軍投手コーチ( - )を歴任。からはTBSラジオ(まで)・TBSニュースバード・テレビ神奈川の解説者を務めている。6月1日付で神奈川県鎌倉市観光協会専務理事に就任。また、ジャパンアスレチックアカデミー(横浜スタジアム室内練習場で開催)で小中学生への野球指導を行っている。オーバースローからのストレートの球速は、本人によれば大学時代で135~6km/h程度で、プロ入り後も140km/h台前半だったという。持ち球も入団直後はカーブしかなかったが、入団2年目に最大の武器となるフォークを習得した。フォークは2種類あり、シュート気味に落ちるフォーク、スライダー気味に曲がりながら落ちるフォーク(今で言うところのフォッシュ)。そのほかチェンジアップも持ち球とした。

出典:wikipedia

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