ニコロ・フォンタナ・”タルタリア”(Niccolò Fontana "Tartaglia"、1499年または1500年-1557年12月13日)はイタリアの数学者、工学者、測量士。ヴェネツィア共和国の簿記係でもあった。アルキメデスやユークリッドの初めてのイタリア語訳を含む多くの著書を著し、数学関係の編集の分野で高く評価された。タルタリアは、史上初めて数学による大砲の弾道計算を行ったので弾道学の祖とされる。彼の研究は、後にガリレオ・ガリレイによる落体の実験により検証された。タルターリアとも。なお後述するように「タルタリア」は生後につけられた渾名である。ニコロは配達人であったミシェル・フォンタナの息子として、ブレシアの貧しい家に生まれた。1505年、ミシェルが亡くなり、ニコロと2人の兄弟、母が残された。1512年にはカンブレー同盟戦争でフランス軍がブレシアに侵攻し、さらなる悲劇を経験した。ブレシア軍は7日間に渡って街を守ったが、フランス軍がついに侵攻に成功すると、街の人達は虐殺された。戦争の終わりには、45000人を超える住民が殺されていた。ニコロの顎と口蓋もフランス軍によって切り落とされた。これによって、ニコロは普通には話せなくなり、「タルタリア(どもり)」というニックネームが付けられた。タルタリアは、資金が尽きる前に家庭教師からアルファベットをKまで習っただけであり、残りのLから先の文字は、墓石に刻まれた文字を手本に学んだという逸話がある。いずれにしても、彼は本質的に独学だった。1535年の初めごろ、アントニオ・マリア・フィオールに数学の公開論戦を申し込まれ、これを受諾した。三次方程式の問題を互いに30問出し合い、30日後に多く解けたほうが勝ちとした。タルタリアはこれに勝利し、名声を高めた。一方のフィオールのその後についてはほとんど知られていない。1537年には『新科学 "Nova Scientia"』という本のなかで、弾道学の研究の成果を発表した。彼が1543年に編集したユークリッド原論の初めての近代ヨーロッパ語訳となった本はとても重大なものであった。2世紀の間、ヨーロッパではエウドクソスの理論の記載に誤りのあるアラビア語版から訳したラテン語版を使ってユークリッド幾何学が教えられていた。タルタリア編集のものはギリシア語版を元にしたものであった。彼はまたその理論に初めて近代的なコメントを付けた。この理論は天文学の父として知られるガリレオが自身の研究に不可欠な道具となった。タルタリアは、今日ではジェロラモ・カルダーノとの対立でよく知られる。タルタリアは1535年ごろ三次方程式の解法を発見したといわれ、同じ解法を発表したカルダーノとの間に優先権をめぐって論争があった。1535年、三次方程式の数学試合で有名になったタルタリアの元に解法を教えてほしいという人が殺到していた。カルダーノは、出版しないことを条件にタルタリアの三次方程式の解法を伝授された。数年後、独力でタルタリアと同じ解法に辿り着いたシピオーネ・デル・フェッロの未発表の論文を弟子のルドヴィコ・フェラーリと共に目にした。その未発表論文はタルタリアのものより前に書かれていたため、カルダーノは約束は無効と判断し、1548年にニュルンベルクで発表された著書『偉大なる術(アルス・マグナ)』に載せた。カルダーノが自分の名前で解法を発表したことを知り、タルタリアは激怒した。フェッロとタルタリアの発見であることを明記したうえでの公表だったものの、タルタリアの怒りはおさまらず、タルタリアは数学の公開試合を申し込む。しかし、カルダーノはこれを受けず、代わりに弟子のフェラーリと試合を行うことになった。勝敗については諸説あり、フェラーリが大勝した説やフェラーリの遅刻で無効試合になった説などがある。現在、三次方程式の解法は「カルダーノの公式」と称されている。タルタリアは、4つの頂点の間の距離を用いて三角錐の体積を表すタルタリアの公式を考案したことでも知られる。ここでformula_2は頂点formula_3とformula_4との間の距離を表す。これは三角形におけるヘロンの公式を一般化したものである。二項係数を得るパスカルの三角形は、別名をタルタリアの三角形ともいう。
出典:wikipedia
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