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V号戦車パンター

V号戦車パンター(ごごうせんしゃパンター、Panzerkampfwagen V Panther 制式番号:Sd.Kfz.171)は、第二次世界大戦中のドイツの中戦車である。後に「V号戦車」という名称は廃止され、「パンター戦車(独:Pz.Kpfw. Panther、豹戦車)」が正式名称となる。1938年、ドイツ陸軍は戦車隊の中核を担う主力中戦車として、III号戦車とIV号戦車を統合した新たな戦車の開発計画を立ち上げた。当初の計画ではこの新型戦車は重量20トン級、5cm級の戦車砲を装備した中戦車として計画名称「VK20.00」が与えられ、1939年10月にはダイムラー・ベンツ社が開発主体として選定されている。これには後にクルップ社が加わり、更に1940年にはMAN社が参加することとなり、各社に設計案の提出が求められ、それぞれVK20.01(D)、VK20.01(K)、VK20.01(M)の計画名称が与えられた。各社の設計案より最終的に選定された車両には「Pz.Kpfw.V(V号戦車)」の制式名称が与えられることも内定し、設計作業が進められていたが、1941年に独ソ戦が開始されると、T-34戦車を始めとしたソ連戦車に対しIII号/IV号戦車は苦戦を強いられることになった。この事態に衝撃を受けたハインツ・グデーリアン将軍は、後に「戦車委員会(Panzerkommission)」と呼ばれることになる調査団を東部戦線に派遣し、T-34の評価を行った。詳細な調査の後、戦車委員会は、T-34の最大の長所は以上の3点が重要な特徴であると結論した。この調査結果を受け、T-34には従来の設計思想に基づいた車両では対抗できないと考えられるようになり、VK20.00計画は30トン級の中戦車の開発計画として拡大され、計画名称も「VK30.02」に改称された。VK20.00の制式名称として予定されていた「V号戦車」の制式番号は、当車の開発が開発・生産中の戦車のうちでもっとも優先するものとされたことと、T-34に対抗する新型車両を開発していることを秘匿するために引き続き使用されたため、開発・設計がVI号戦車(ティーガーI)の後に開始されたにも関わらず、番号はそれよりも古いものとなっている。1941年11月末、ダイムラー・ベンツ社とMAN社に30-35t級新型中戦車、VK3002の1942年4月までの期限での設計が発注された。ダイムラー・ベンツによるVK3002(DB)はT-34の影響を大きく受けたスタイルではあるが、足回りは大型転綸とリーフスプリング式サスペンションの組み合わせであり、この為ターレットリングの小型化、車体の小型化などが実現された。MANの初期案であるVK3002(MAN)、秘匿名称“トラディショナルなドイツの戦車”と共に両者の案は42年1月から3月までフリッツ・トート、後にアルベルト・シュペーアによるレビューを受け、両者ともDB案をヒトラーへ提案する事を支持していた。しかし、最終案提出に際しMAN社はDB社の提案を参考にデザインを変更し、最終的に採用となったのは、よりドイツ戦車的構造であるVK3002(MAN)の方であった。この決定の決め手の一つに、MAN社のデザインは既存のラインメタル―ボルジッヒの砲塔を利用できた、と言う事も挙げられる。この新型中戦車は1942年5月15日に「V号戦車パンターA型(Sd.Kfz.171)」と命名された。しかしこれは1943年1月に「パンターD型」に変更され、A型の名はより後の型につけられている。「パンター(Panther:豹)」の名称は、先行して開発されていた重戦車が非公式ながらヒトラーにより「ティーガー(Tiger:虎)」の愛称を与えられていた(後に正式名称として決定される)ため、より快速で軽量な機動力の高い俊敏な車両として完成することを印象づけるために命名されたものである。しかし、VK3002は当初35tクラスの予定から設計段階で重量が大幅に増加した上、設計がほぼ完了した時点でヒトラーの要求で車体前面装甲を60mmから80mm、砲塔前面を80mmから100mmへと強化したため、当時の重戦車クラスの約45tの重量を持つ「中戦車」として完成した。そのため、当初予定していた最高速度は60km/hから55km/hに低下しており、重量の増加はその他も様々な問題を引き起こしている。本車はそれまでのドイツ戦車と違い傾斜した装甲を持っており、70口径 7.5 cm KwK 42という強力な(対戦車兵器として56口径8.8 cm KwK 36よりも近距離であれば高い装甲貫徹力を持つ)戦車砲を搭載していた。また、ティーガー同様に幅の広い履帯、挟み込み式配置の大きな転輪で車重を分散し接地圧を下げる工夫が行われ、これは車台側面を守る補助装甲の役も与えられている。パンターの車体上部は前面、側面及び後面の全面に渡って傾斜がつけられており、避弾経始を追求したデザインとなっている。ただし、強力な前面装甲に対し側面装甲は半分程度の厚みで、特にD・A型は燃料タンクのある車体後部を容易く射貫され炎上することがあった(但し、側背面の装甲が薄いのは本戦車に限ったことではない)。主装甲板は初期生産車に限ってはニッケルを一切使用しない装甲板を使用、Oh式という特殊な焼き入れで表面硬化を行い、さらに高周波表面硬化を施して強度を保っていたが、のちにこの処理を止めており、特にG型からは全車が表面硬化処理を廃止している。ただし装甲厚の薄い側面装甲には表面硬化処理が施されている(イギリスが鹵獲したパンターD・A型を調査した結果、主装甲には表面硬化処理が施されていなかった。またドイツ軍の火焔焼き入れ鋼板規格においてパンターの主装甲厚である80mm規格は1943年末には廃止されている)。転輪の上に露出している車台側部は、射撃試験の結果ソ連軍の14.5mm対戦車ライフルに射貫される恐れがあったため、量産型ではこの部分を被う補助装甲であるシュルツェンが装着された。サスペンションは、トレーリングアームとトーションバースプリングの組合わせを採用しており、1アームあたり2本のトーションバーを用いた折り返し式(通常の形式に比べてトーションバーが2倍の長さを持ち、アームの可動量が大きい)として高い地形追随能力を持っていた。これにより当時の戦車としては強力なエンジンと合わせ、機動力も高かった。しかしトランスミッションは改良を加えたとはいえ重量に対し適正なものとはいえず、放棄されたパンターの故障原因に最終減速ギアの損傷によるものが多い事が記録されている。故障の少ない試作品もあったものの、それを作るための工作機械が足りないためやむを得ず改設計し、それが仇となって故障が続出したともいわれている。この箇所は改設計がくり返されたものの、最後まで万全と呼べる状態にはならなかった。異説としては、「生産効率向上のため、徹底して従来からある共通部品を使用するために専用部品の製造を避け、やむを得ず不適切な部品を無理やり組み込んだ」というものがある。このため従来の戦車よりも重くなって負荷が大きいにもかかわらず、ヘリカルギアではなく旧来の平歯車を組み合わせたため、乱暴なギアチェンジで歯が欠けて故障を多発する原因となった、ということである。初期生産型にあたるパンターD型の第250号車まではマイバッハV12型HL210 P30エンジン(650PS/3000rpm)が搭載されていたが、第251号車以降はマイバッハV12型HL230 P30エンジン(700PS/3000rpm)が搭載されている。このHL230 P30エンジンは通常のV型エンジンと異なり、両シリンダーバンク位置が長手方向にオフセットされておらず、コンパクトさを特徴としたが、逆に故障を促進する結果となった。また、シリンダーガスケットも問題があったが1943年9月までにシール材の改良によりこの問題は解消された。1943年11月以降に生産されたHL230 P30エンジンには信頼性向上のため大きな改修が行われている。たびたび故障の原因となったベアリングは1943年の11月に改良されたものが導入され、改善された。またエンジンガバナーも1943年11月から導入され、エンジンの最大回転数は2500rpmまでに押さえられる事となった。このため1943年11月以降に生産されたHL230 P30エンジンは、700PSから588PS(580hp)~600PS(592hp)へとエンジン出力が低下し、パンターの最高速度は45km/h程度に低下することとなった。しかし、この各種改良やエンジン回転数・出力のデチューンによってHL230 P30の故障問題やエンジン寿命は以前よりも改善された。当初クランクシャフトのベアリングは7つであったが1944年1月より8個に増やされた。最初の量産型(D型)は、ツィタデレ(城塞)作戦に間に合わせるためにさまざまな問題が未解決のまま戦場に送り込まれた。重量増のため、転輪や起動輪、変速機など駆動系に問題が多発。また、機関部の加熱問題に対処するために新たに開発されて装備された自動消火装置の不具合により、燃料漏れによる火災事故も発生し、2両が戦わずして全焼全損するなど、稼働率は低かった。また最初にパンターを装備し実戦投入された第51・52戦車大隊は、それぞれ既存の戦車大隊を基に再編成されたものであったが、一握りのベテランを除く乗員は、東部戦線での実戦経験の無い新兵が多く、また訓練期間も不足していた。さらに同隊の作戦将校にも実戦経験のある者が少なく、指揮にも問題があったため、クルスク戦では十分な活躍はできなかった。後に問題点が改良され、装甲師団の中核を担う戦車となる。それまでドイツ機甲部隊の中核を担ってきたIII号戦車の生産は打ち切られ、突撃砲を除いて全て本車の生産ラインに切り替えられた。1943年頃のパンターの価格は125,000ライヒスマルクで、これに対しIII号戦車は96,200ライヒスマルク、IV号戦車が103,500ライヒスマルク、ティーガーIが300,000ライヒスマルクと、高性能でありながら導入コストパフォーマンスが高かった。しかしパンターのみでは戦車隊の損失を埋め部隊配備を充足できる程の生産が間に合わないため、長砲身(48口径)7.5センチ砲に換装されたIV号戦車(戦車連隊の第二大隊装備)は生産ラインの切り替えを行わず、最後までパンター(第一大隊装備)と併行生産された。本車に搭乗したエースとしては、第2SS装甲師団のエルンスト・バルクマンSS曹長が有名である。1944年7月のフランス、サン・ロー/クータンス間の十字路でアメリカ戦車M4シャーマンをたった1両で迎え撃ち、近接戦闘で9両撃破、1両中破せしめ、後年の戦記では「バルクマン・コーナーの戦闘」として語られている。バルクマンはこの後の二日間に、さらに15両の敵戦車を撃破、7月30日には乗車を撃破されるも脱出に成功している。同年12月、古いD型で「バルジの戦い」に参加した彼は夜間、敵戦車の列に紛れこみハッチから漏れる車内灯の色で識別し攻撃、M4戦車数両を撃破している。戦場に大挙出現したパンターへのソ連軍の反応は素早く、クルスクの戦いで損傷し、戦場に放棄された31両のパンターは徹底的に調査された。結果、砲撃により撃破されたものはこのうちの22両で、傾斜した車体前面装甲を撃ち抜けた砲弾は一発も無く、一方機関部付近への被弾では容易に炎上するなどの弱点も発見している。またこの中でT-34によって撃破されたものはたったの1両だけであった。しかし1943年後半でも赤軍戦車部隊は、1941年と同様の76.2mm砲装備のT-34が主力のままであった。この砲はパンターの前面装甲に対して力不足で、撃破するためには側面に廻りこまねばならなかったが、パンターの主砲はどの方向からでも遠距離からT-34を撃破できた。そこで85mm砲と三人乗りの大型砲塔を装備したT-34-85戦車が開発された。本戦車はパンターと対等とは言えなかったものの、76.2mm砲装備のものよりはるかに強力であり、質的な劣勢は数的優位でおぎなった。T-34の車台を使用したSU-85やSU-100などの新型の自走砲も投入された。1944年半ばまでには赤軍はパンターよりはるかに多数のT-34-85を戦線に投入していた。1944年3月23日に行われたドイツ軍によるドイツ戦車とソ連のT-34-85およびIS-2(122mm砲装備)の比較では、パンターは正面戦闘ではT-34-85よりはるかに優れており(パンターG型は2000mでT-34-85の前面装甲を貫くのに対し、T-34-85はようやく500mでパンターG型の砲塔前面装甲を貫くことができる)、側面と背面ではほぼ互角であり、IS-2に対しては正面では互角であるが、側面と背面では劣っているとされた。1943年と44年にはパンターはIS-2を除くあらゆる連合軍戦車を2000mの遠方から撃破でき、ベテラン乗員の乗るパンターは1000m以内で90%以上の命中率を達成した。パンターはIS-2とほぼ同じ重量があり、実際のところはるかに軽量なT-34よりIS-2の方が好敵手と言えた。これに比べアメリカ軍、イギリス軍の対応は一貫性がなかった。パンターは1944年初めのアンツィオの戦闘でようやく初めてアメリカ・イギリス軍の前に姿を現したが、その時に使用されたのはごく少数だった。アメリカ軍は北アフリカ戦線でティーガーIに遭遇しており、パンターもこれ同様に独立編成される少数の重戦車であり、IV号戦車を支援するものと思い込んでいた。しかし実際には、その後ノルマンディー上陸作戦で遭遇したドイツ戦車の半数近くはパンターであり、アメリカ軍のM4シャーマン戦車の75mm砲では前面装甲を貫けなかった。アメリカ軍はとりあえず76.2mm砲装備のシャーマンとM10駆逐戦車、1944年末頃からは90mm砲装備のM36ジャクソン駆逐戦車で対応、終戦間近にようやくM26パーシング重戦車を投入した。これらの新兵器によってもなおパンターの前面装甲を貫くことは容易ではなかった。しかしながら、ノルマンディー戦以降、ドイツ軍の優秀な搭乗員が払底していることも事実であり、西部戦線最大の戦車戦であるアラクールの戦いでは、米軍に対して大敗を喫している。アメリカ軍より対戦車戦闘能力を重視していたイギリス軍は、ドイツ重戦車に17ポンド砲搭載のシャーマン ファイアフライと牽引式の17ポンド対戦車砲で対抗した。ノルマンディー戦の終結までにイギリス軍のシャーマンの5両に1両はファイアフライとなった。また1945年には、17ポンド砲の短縮版である77mm砲を搭載するコメット巡航戦車を投入した。ソ連軍ではパンターを優秀な戦車と認識しており、前線部隊ではパンターがしばしば優れた戦功に対する褒章として与えられ、鹵獲車両による臨時部隊も編成された。戦車兵たちにはパンターは大変好評であり、「鹵獲されたティーガーとパンターは修理してはならず、故障したら破壊して放棄せよ」との規則があったにもかかわらず、できるだけ長く使用するため努力が払われた。ドイツ乗員のための運用マニュアルもロシア語に翻訳されて、鹵獲したパンターの乗員に支給された。これはパンターに限らないことではあるが、鹵獲した敵の戦車を使用すると友軍からの誤認射撃を受けるケースが頻発したため、その犠牲者になることを恐れて一部のソ連軍戦車兵の中には鹵獲したパンターに乗ることを避ける者もいた。ソ連軍に鹵獲されたパンターは、ソ連軍の他に親ソビエト派ルーマニア人によって編成された義勇部隊、第1ルーマニア義勇師団“トゥドル・ウラジミレスク”()に他の鹵獲ドイツ軍装甲車両と共に与えられ、同師団の機甲戦力として戦闘に投入された。戦後、1947年にルーマニア人民共和国が成立し、同部隊が義勇師団からルーマニア陸軍の正規部隊となって機甲師団に改変された後も装備され、1950年代に入りソ連より戦車の供与が始まるまで使用された。ブルガリアは戦後社会主義体制となり1946年にブルガリア人民共和国発足の後、ソ連から鹵獲品のパンターを15両程度供与され、同じく鹵獲品を供与されたIV号駆逐戦車や枢軸国時代にナチスドイツより提供されたIV号戦車などと共に、ソ連製戦車を供与されるまでの間の装甲戦力として装備している。これらの車両は1948年頃まで現役として使用され、ブルガリア軍にソ連より戦車が供与された後も、トルコとの国境地帯に固定砲台(トーチカ)として配置され、1980年代まで用いられていた。また、フランスは第2次世界大戦後、ドイツ軍の残存車両を再生したものに加えて占領時代の工場で生産したパンターで戦車部隊を編成している。これらフランス製パンターは1951年頃まで現役で運用され、退役後も1961年頃までパリ近郊で予備保管されていた。後に少数が武装を撤去して民間に払い下げられており、重量物トラクターやクレーン車に改造されて使用されている。

出典:wikipedia

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