城端曳山祭 (じょうはなひきやままつり) は、富山県南砺市城端地域にて毎年5月5日に行われる江戸時代中期より続く城端神明宮の春季祭礼で、5月4日夜には宵祭が行われる。かつては5月15日に行われていたが祭礼を執り行う人手確保のため2006年(平成18年)よりゴールデンウィーク中の現在の日程となった。国の重要無形民俗文化財に指定されている。獅子舞、剣鉾、8本の傘鉾、四神旗、4基の神輿、6基の庵屋台(いおりやたい)、「ぎゅう山」といわれる6基の曳山が、越中の小京都と言われる城端の旧市街を厳かに曳き回される。また若連中といわれる囃子方・唄方が庵屋台の中に入り各所望所(しょもうしょ)にて江戸情緒溢れる庵唄を披露する。夜には提灯山となり夜遅くまで賑わう。1981年(昭和56年)1月22日、県の無形民俗文化財に指定され、その後2002年(平成14年)2月12日には今日まで江戸時代からの古い祭礼形式が継承されていることが評価され、「城端神明宮祭の曳山行事」として国の重要無形民俗文化財に指定された。また2006年(平成18年)には、「とやまの文化財百選(とやまの祭り百選部門)」に選定されている。城端地域の前身である城端町は、真宗大谷派の寺院「善徳寺」が1559年(永禄2年)に福光(現・南砺市)より移り、1573年(天正元年)には城端が開町し市が開かれた後門前町・市場町として絹織物で栄えた町である。神明社ができたのは1574年(天正2年)、その後1685年(貞享2年)社殿再建の際春・秋祭りが始まった。神輿が完成し獅子舞や傘鋒の行列が始まったのは1717年(享保2年)の秋祭りからである。1719年(享保4年)秋祭りに曳山が完成、1724年(享保9年)には神輿の巡行に曳山が曳航され現在の曳山祭りの基礎ができた。明治末期より大正時代末に掛けて曳山改良競争が起き、各町内が手を加えていった結果現在の絢爛豪華な曳山になったといわれる。またこの祭りの大きな特徴の一つである庵屋台は、庵唄の稽古番記録が1822年(文政5年)からあることからこの頃からあったと考えられている。庵唄は江戸時代の端唄を元とし現在数十曲が伝承されており、城端の先人達が江戸から持ち帰った端唄や替え歌、小唄調なども採り入れながら江戸の粋な文化に浸ったという遊び心あふれる文化が、現在まで継承されているものである。囃子には横笛、三味線、太鼓が用いられる。また庵唄・囃子を受け持つ若衆を若連中といい各町内ごとに会(連)名があり、毎年寒稽古、本稽古をへて祭礼当日紋付袴姿の若連中が、庵屋台の中で庵唄や曳山囃子を奏でる。薄墨・玉川・辰巳・夏は蛍・重ね扇・宇治茶・川竹・忍ぶ恋路・松風・夕暮・五月雨・萩桔梗・槍さび・宝ほの・花筏・鶴の声・草の葉に・我がもの・橘・書き送る・秋草・雪巴・手鏡に・筆のかさ・一聲・空ほの・打水・海晏寺・ほととぎす・沖の瀬に・浅くとも・秋草・春惜む など2015年(平成27年)4月には、南砺市の各祭礼で庵屋台を持ち、庵唄を継承している4団体が集まり、地方、謡い手の技術向上・育成、継承保存を目的に、「南砺市庵唄伝承保存活動協議会」を立ち上げた。また南砺市も支援のため補助金を交付する。各家で親戚・知人などを招待し祝儀を出して庵唄の所望をすると、各町の庵屋台と曳山が順番に所望した家の前に止まり庵唄を披露する。一般観光客もその様子を見聞きする事ができるほか、観光客用に城端曳山会館横(駐車場)には予約席(有料)・自由席(無料)の特設の所望所が設けられ、午後2時頃と午後8時30分頃に庵屋台と曳山がやって来て座って聴くこともできる。五箇山地方より伝わったとされる多人数で舞う百足獅子で、曳山の巡行路を清める露払いの役目をしている。なお2005年(平成17年)には、「とやまの文化財百選(とやまの獅子舞百選部門)」に選定されている。8本の傘鉾は総高さ2.87〜3.56m、傘径1.50m〜1.90mの絵番傘で傘の上には独自の飾り(鉾)が飾られている。傘の周りには長さ35〜40cmの水引幕が張られている。また傘の中に作り物を飾る物もある。この傘鉾には神輿を先導し神様を招き入れる役目をしている。四神旗は4籏あり方位を司る朱雀、玄武、青龍、白虎の4神を奉ったものである。元々は児童がそれぞれ持って歩いていたが現在では台車に立てて神輿の前を進む。4基(春日宮・八幡宮〔石清水〕・神明宮・子供神輿)城端の庵屋台と曳山は、彫り物・漆工芸・彫金等のほとんどが城端の職人の手によって製作されているのが大きな特徴である。庵屋台と曳山は各町ごと連れ添って巡行する。曳き手はかつて町内の人が曳いていたが、大正の頃より近郊のだいたい決まった町の人達が、各町揃いの法被を羽織い曳く。6台の庵屋台はいずれも2層構造で高さ約3〜3.5m、長さ約3m(長柄間約4.71m)、幅約1.8〜1.9m、重さ約300kg、上層には京都の茶屋や江戸の料亭、貴族の別邸など模した、外観、内部とも精巧な家屋の模型が乗せられている。下層の回りは水引き幕で囲い下層上部には木彫刻や欄間彫刻が施され、若連中が庵屋台の中に入り移動しながら曳山囃子を所望所では庵唄を披露する。なお下層の4本の足には車輪が付けられているが床はないので、中に入る若連中は庵屋台の移動に合わせて歩きながら演奏する。車輪が付けられる以前は前後4人ずつで担いで移動していた。地元でぎゅう山といわれる6基の曳山は、高さ5.54m〜6.52m、長さ約4.5m〜5.2m(長柄間)、2層構造の入母屋作り軒唐破風屋根の屋台様式で高欄で囲まれた上層(神座)には御神像を供え一部の曳山にはからくり人形を配している。上層と下層の間には2段に分かれた彫刻などの装飾がされている。創成期の御神像やからくり人形は、人形師の木屋五郎右衛門(別名・木屋仙人)、城端焼の創始者で人形師・彫刻師でもある荒木和助(別名・唐津屋和助)、現在も受け継がれている城端塗(城端蒔絵)の塗師、小原治五右衛門などによって手掛けられたものである。他所の曳山にはあまり見られない特徴の一つとして、狭い路地をすり抜けるように進むため、家屋等にぶつからない様に屋根の軒が可動式になっており紐で操作し幅を縮めることができる。殆んどの曳山は跳ね上げ式だが、西下町曳山の屋根だけは軒を上部へせり上げるという特殊な仕組みになっている。また屋根を支える柱の根元の穴にゆとりをもたせ移動中屋根が20cm〜30cm程揺れるようにできている。これも狭い路地を進むさい建物にぶつからないためと回転する時にバランスをとるための工夫で、神座に乗る紋付・袴姿の男衆4人が柱を持ち屋根の動きを制御する。現在は巡行路となる道路のほとんどが拡張されており、屋根を可動させる場所は大工町の路地だけとなり、逆に見所の一つとなっている。天井は金箔張りとなっており、東下町曳山のみが格天井で他は平天井である。車輪は4輪の大八車(外車)様式の輻車(やぐるま〔スポーク式〕)または板車で、車輪にも漆や彫金などが施されている。もう一つの特徴として曳山を曳くと車輪からギューギューと軋り音がなるので「ぎゅう山」といわれるが、この音は車軸(心棒)と車軸受けの間に、鳴り板と呼ばれる油(現在は灯油)に浸した厚さ約3mmの檜の薄木を噛ませ、車軸にも油を塗り意図的に出しており毎年取り替えられる。夜には提灯山になるが、よく見られる何百もの提灯で周りを囲むのではなく手に持つ弓張り提灯を曳山に挟みぶら下げる様式になっている。巡行路内で昼巡行では西下町と出丸町、提灯山になってからは新町での計3ヶ所で180度ターンがあり、大きな軋り音をたてながら一気に廻すところが見所でもある。また、城端曳山会館横の所望所では庵屋台・曳山の説明、庵唄の披露のほか、からくり人形と屋根可動のデモンストレーションが行われる。1982年(昭和57年)4月大工町に開館。剣鉾は通年、傘鋒4本、庵屋台・曳山3基が交代で展示されているほか、現在使用されなくなった曳山の部材、安永の曳山車騒動で一時没収された車輪、獅子舞の獅子頭、幕などの展示、曳山の歴史史料などを常設展示している。ロビーのモニターでは、曳山祭の様子を見ることができる。2016年(平成28年)9月14日には、曳山創成期の御神像やからくり人形などを手掛けた「荒木和助」(1734年〜1806年)が制作した童子の人形面(頭部)2点が、同館に寄贈され常設展示されることになった。人形面2点は童子がほほ笑む木製の面で、高さ約20cmと曳山に乗るからくり人形の頭部より一回り小さいため試作品と思われる。箱書きには「荒木五牛」とあるが、和助は1771年(明和8年)ごろよりこの号を名乗っており、これ以降の作品とみられている。また1993年(平成5年)11月には、曳山会館の奥に明治時代の豪商などの土蔵を修復・再生した土蔵造りの建物4棟を回廊でつなぎ、城端町の歴史史料、城端塗(城端蒔絵)、城端焼などを展示する「土蔵群 蔵回廊」(旧 城端町史館蔵回廊)を併設した。こちらは土蔵そのものも展示物となっており、土蔵の構造も見る事ができる。山宿は4日の宵祭の午後に6町の家に「飾り山」として曳山の御神像を安置し一般に公開し、翌日の祭礼当日まで御神像をお守りする役目を務める家のことで、山宿に選ばれる主人は一生に一度だけの名誉なこととされ、立派に務め上げることが誇りとされる。古くは山宿を務めるに当たって城端独特のしきたり・風習が多く出費も多く掛かるため、資産家で間口が広く奥行きがあり書院作りの部屋を持つ家が担当することが多かったと、古い文献によりわかっている。現在では緩和されたしきたり・風習もあるが、山宿は現在も脈々と受け継がれている。城端市街地の町屋は間口が狭く続き間が奥に続くうなぎの寝床といわれる家が多い。山宿に選ばれた家は御神像を奥座敷に一夜安置するが、城端のしきたり・風習に従い務める。なお現在では、家を新築や改築したり、おめでたいことがあった家が務めることも多い。また各町の公民館を借り受け山宿を務める家もある。安永の曳山車騒動は、1775年(安永4年)に高岡(御車山)と、放生津(新湊)曳山(放生津)との間におこった車輪(曳山車)を巡る騒動で、「今後高岡と類似した曳山車は曳き出してはならぬ。しかし地車であれば許可する。」とのお触れが出たことにより、その後の加賀(主に現在の富山県西部)、越中各地の曳山祭りならびに曳山の発展に多大な影響を与えた大事件である。城端ではこの騒動で、漆の塗師、大工、町の組合頭など関係者7名が魚津の盗賊改方への出頭・入牢を命じられ詮議を受けた。この際、出丸町の坂上に延命地蔵を建立し7名の無事釈放を祈願した。7名はその後無事釈放されている。なおこの地蔵尊は今も同じ地に建っている。また当時輻車も没収されたが一部は返還され、現在城端曳山会館に保存展示されている。その後の曳山祭りの実施については、曳山創設から歴史が長いとの理由で許可された。祭礼の約半月前と5月1日の夜間に、当番町の若連中が三味線、篠笛、太鼓により「夜まわり囃子(廻りあい)」を奏でながら山町6町内を回り、祭礼が近づいたことを知らせる。宵祭は神様が神社から神輿御旅所(じょうはな座内)へ移られる夜である。また曳山・庵屋台を各山倉から出して組み立てられる。宵祭当日は午後6時より午後10時まで市街中心部の一部道路で車両通行止となる。早朝、御神像を山宿から曳山に移し、8時30分に神輿、獅子舞、剣鉾、傘鋒が神輿御旅所(じょうはな座)より出発する。その後剣鉾、8本の傘鋒、庵屋台・曳山が善徳寺(城端別院)前に一同整列し9時30分より曳き出され、庵屋台と曳山は各町ごとに連れ添って氏子町内の各所望所で庵唄を披露しながら巡行し、神輿、剣鉾、傘鋒は15時頃神明宮に還御される。庵屋台・曳山は巡行を続け、夜には提灯山となり22時30分頃に城端曳山会館前に到着し解散となるまで続く。なお、庵屋台・曳山の巡行順は西下町・西上町・東下町・出丸町・大工町・東上町と決まっていたが、明治の初めに交代制となり、前年の6番山が翌年1番山となる。お昼の休憩時には剣鉾・8本の傘鋒・庵屋台・曳山が一同整列するほか、18時頃の提灯山の準備時には各町の庵屋台・曳山が整列する。また、14時頃と20時30分頃には城端曳山会館横所望所にて、各町曳山の説明、庵唄・からくり人形の披露が行われる(雨天中止)。祭礼(本祭)当日は午前9時より翌日午前0時まで市街中心部は全面車両通行止となる。
出典:wikipedia
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