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石狩丸 (初代)

石狩丸(いしかりまる)は、運輸省鉄道総局ならびに日本国有鉄道(国鉄)青函航路の客載車両渡船で、後年は車両渡船として運航された。太平洋戦争中の1945年(昭和20年)3月、運輸通信省 鉄道総局が海軍艦政本部の了承を得て、博釜航路用の車両渡船として建造に着手したが、未完成で終戦を迎えた。その後青函航路用として工事は続行され、同航路の旅客輸送力回復も目指し、旅客設備を付加して客載車両渡船として竣工し、1946年(昭和21年)7月就航した。洞爺丸事件後、安全性確保のため、旅客設備は撤去され、車両渡船として1965年(昭和40年)9月まで運航された。また、戦後の1946年(昭和21年)7月、運輸省鉄道総局がGHQより許可を得て建造したのが、十勝丸(初代)・渡島丸(初代)で、石狩丸の基本設計をほぼ引き継ぎながら、旅客設備を持たない車両渡船で、このうち十勝丸は洞爺丸台風で沈没しながらも、浮揚後、修復、再就航し、1970年(昭和45年)3月、青函航路最後の石炭焚き蒸気タービン船として勇退した。これら3隻はいずれも三菱重工横浜造船所で建造された。ここでは石狩丸のほか、十勝丸・渡島丸についても記述する。長期化する日中戦争と太平洋戦争勃発による船腹不足は、満州(現在の中国東北部)方面から日本本土への農産物や鉱物資源の海上輸送を、朝鮮半島経由の鉄道輸送へと転移させた。このため1943年(昭和18年)7月には関釜航路の補完増強の目的で、既に1942年(昭和17年)7月の関門トンネル 開通で本州の鉄道と繋がっていた博多と釜山を結ぶ博釜航路が開設された。しかし当時の運輸通信省鉄道総局は、更に増加する貨物輸送に対応するには4,000総トン級の車両渡船による車両航送導入が必要と考え、海軍艦政本部にその建造を要請した。紆余曲折の末、1944年(昭和19年)8月に1945年(昭和20年)度分として車両渡船7隻の建造が了承された。この車両渡船は、W型戦時標準船とほぼ同じ設計で、博釜航路で使用できない時は青函航路への転用が可能な構造とする、という海軍側が提示した案に沿ったもので、船内軌道は狭軌とし、釜山で大陸の標準軌貨車と貨物の積替えをすることとした。博釜は青函に比べ外海長距離航路のため、ボイラーは4缶から6缶へと増強され煙突も4本にはなったが、第六青函丸以降のW型戦時標準船同様過熱器は省略されており、タービンも第八青函丸以降と同様、右回り回転のものしかない甲25型衝動タービンを使用し、左右両軸とも右回転での運航となった。更に凌波性向上のため、車両甲板船首部幅を狭めて船首部フレアーを小さくした。このため積載車両数はW型より2両減のワム換算42両となった。これがW型戦時標準船の博釜航路版で、博釜“HAKUHU”に因んで「H型戦時標準船」と呼ばれた。設計段階では船尾閉鎖装置が装備されていたが、青函航路では必要ないため装備されなかった。新造時は単底であった。当時浦賀船渠がW型戦時標準船の建造で余力がなかったため、三菱重工横浜造船所で建造されることになり、1945年(昭和20年)3月1日に第1船が起工された。しかし、同年4月には博釜航路の陸上施設建設のめどが立たなくなり、同航路での車両航送計画は消滅した。これにより、このH型第1船の青函航路への転用が確定した。同年8月15日の終戦時には船台上で建造中で、その後、一時工事中断はあったものの、ほどなく再開され、翌1946年(昭和21年)3月15日進水した。従来このクラスの車両渡船は第○青函丸と命名されていたが、本船は北海道の旧国名から石狩丸と命名され、本船建造以降に建造されたH型、W型の車両渡船もこれに倣うこととなった。同時期竣工のW型戦時標準船 第十二青函丸と同様、船員居室の部屋割は高級船員室の一部に相部屋は残ったが、概ね第四青函丸の水準に戻り、更に第四青函丸にはあった船員居室の車両甲板下への設置もなくなった。青函航路は、1945年(昭和20年)7月14日の空襲で翔鳳丸型4隻を失い、自前の旅客輸送力は皆無となっており、これを補うため、戦後まで生き残ったW型青函丸、ならびに戦後竣工のW型青函丸の各船同様、船橋楼甲板の本来の甲板室の前後に3等のみ定員394名の旅客用甲板室(デッキハウス)を建造中に造設し、客載車両渡船(デッキハウス船)として1946年(昭和21年)7月6日竣工した。しかし、竣工と同時に進駐軍専用船に指定されたため、一般旅客の輸送力増強の目論見は失敗、この指定はサンフランシスコ講和条約発効目前の1952年(昭和27年)4月1日に解除されるまで続いた。なおこの間、W型青函丸同様、ボイラーへの過熱機付加や主機換装、発電機増設工事等の改良工事が行われた。元設計のW型戦時標準船でも、同時期の建造で、新造時よりボイラー5缶で3本煙突の第十一・第十二青函丸とは、船首部の船型に差異はあったものの、煙突が3本か4本か以外は酷似していたが、車両甲板船尾開口部が2本の梁柱で3分割されていたため、開口部に梁柱のないW型と識別できた。戦災で落ち込んだ青函航路の貨車航送能力回復のため、1946年(昭和21年)7月、運輸省 鉄道総局がGHQ より許可を得て建造した青函航路用の車載客船4隻、車両渡船4隻のうちの車両渡船2隻で、H型戦時標準船の基本設計をほぼそのまま引き継ぎ、同じ三菱重工横浜造船所で建造したのが十勝丸と渡島丸であった。この2隻は1946年(昭和21年)10月と12月に起工し、翌々年の1948年(昭和23年)4月と7月に就航した。両船ともデッキハウスを持たない車両渡船で、ボイラーも過熱器付きに戻り、戦時標準品ではないタービンを採用し、プロペラも互いに外転する通常の形に戻され、船底も二重底であった。主発電機は50kVA 3台と、当時の W型青函丸やH型石狩丸の新造時の50kVA 2台より増強されていたが、終戦後間もないこの時期製造の機械部品は材料、工作とも不良で、後年取り換えられたものも多かった。なお車両積載数は、石狩丸を含め新造時は3隻ともワム換算42両であったが、1952年(昭和27年)以降はワム換算44両積載可能とされていた。1947年(昭和22年)12月12日は西高東低の気圧配置で、前日より強い西風を伴う猛吹雪が続き、全船運航見合わせしていた。石狩丸船長も出航見合わせを主張したが、占領下の当時は進駐軍函館RTO(Railway Transportation Office、鉄道輸送事務所)の出航命令には逆らえず、進駐軍専用の上り1202便として、進駐軍兵士115名、貨車38両、客車3両を積載して、函館第1岸壁を11時19分出航した。11時51分穴澗岬航過後南30度西に針路をとり14時19分、航程29海里で平館灯台北側の石崎無線標識を南25度東に測定したため、針路を南40度東に転針し平館海峡へ向かった。しかし17.4~24.5mの強い西風を船尾から受け、船首が風に切れ上がって針路保持ができず、猛吹雪で視界もきかず、船体動揺も最大36度にも達したため、14時50分南70度西へ転針し、三厩湾への避難を決意した。しかし視界不良で陸岸への接近もできず、15時17分より蜘躊開始した。15時30分一瞬の晴れ間に竜飛埼灯台真方位80度3海里と船位測定した。蜘躊継続中の19時23分には左舷後方近距離に陸岸を視認、予想外の圧流のため、これ以上の蜘躊は擱坐の危険を伴うと判断し、19時30分に北70度東に針路をとり青森へ向かうことにした。しかし19時33分には強い追い風で針路維持できず、車両甲板への波の打ち込みもあり、北30度西に転針後三厩錨地仮泊を決断し、21時に一時視界確保された機会に、錨を引きずりながら前進し、錨が海底に触れた後直ちに投錨、21時35分三厩灯台真方位30度0.8海里水深18m地点に錨泊できた。翌12月13日8時15分抜錨し吹雪の中、石崎無線標識を測定しつつ9時33分平館灯台航過し、11時35分青森第1岸壁に到着できた。難航中は船上の進駐軍乗船隊長と函館RTOの間には頻繁な電報のやり取りがあり、陸奥湾に入って動揺の収まった船内では、進駐軍兵士が船橋や船員室まで押しかけ、無事を喜び、船員の労苦に感謝した。これ以降は函館RTOも船長判断を尊重するようになった。石炭焚き蒸気船のボイラー室での過酷な労働環境改善のため、1950年(昭和25年)9月、渡島丸に青函連絡船初となるストーカー(自動給炭装置)が、当時の東日本重工横浜造船所で装備された。その後1958年(昭和33年)9月には十勝丸、1959年(昭和34年)6月には石狩丸にもストーカーが装備された。国鉄は運輸省鉄道総局時代の1947年(昭和22年)年頃から、連絡船へのレーダー装備の許可を繰り返しGHQに要望して来たが却下されていた。しかし 1950年(昭和25年)4月、当時進駐軍専用船であったW型の第十二青函丸が濃霧の中、穴澗岬に擱坐し、甲板長が死亡するという事故が発生したのを契機に、その要望はいっそう強まり、ようやくGHQから青函連絡船全船へのレーダー装備許可を取り付けることに成功した。このタイミングで渡島丸が上記の東日本重工横浜造船所へ入渠したため、1950年(昭和25年)9月、商船としては日本初のレーダー装備船となった。この時は1951年(昭和26年)3月までに青函連絡船全船にレーダが装備されている。レーダー機種は、渡島丸を含む11隻にはスペリーMK2が、石狩丸とW型の第十一・第十二青函丸の3隻にはRCA CR-101が装備された。1954年(昭和29年)9月26日53便として14時20分貨車35両を積載し青森第3岸壁を出航、18時18分葛登支航過するも、有川桟橋強風により着岸不能のため、18時50分函館港防波堤外に投錨仮泊。19時20分頃より風速増大し車両甲板への海水打ち込み増大、機関運転再開。19時50分頃から機械室の排気通風筒からの海水打ち込みが始まり、その後その他の空気口からも浸水、20時頃からはボイラー室への浸水も始まり、機械室右舷出入口周縁からも激しい浸水あり、ビルジ貯留増加。20時15分頃から適宜ヒーリングポンプを使用して右舷傾斜を矯正。20時30分頃には車両甲板上は60cmの海水滞留となった。21時頃には右舷40度左舷25度の動揺あり、21時過ぎには石炭取出口から海水と石炭が流出し右舷ボイラー焚火不能、22時頃には左舷ボイラーも焚火困難となり、22時15分には蒸気圧低下のため潤滑油ポンプが2台とも停止し、22時20分両舷主機停止、22時30分発電機停止し、22時45分頃機関室から退避。その後右舷への傾斜増大し、23時41分積載車両横転、23時43分、右舷へ横転沈没。乗組員76名中59名が死亡した。石狩丸は1954年(昭和29年)9月26日1201便として11時00分青森第1岸壁を出航し、15時30分函館第1岸壁着岸予定であったが、そこには洞爺丸が出航見合わせ停泊中で、第2岸壁には先船の5便大雪丸が着岸用意中のため、15時40分防波堤外に投錨待機した。17時25分の大雪丸沖出しを待って17時45分抜錨し防波堤内へ、しかしその頃から南南西の風が強くなり、第2岸壁着岸時には岸壁側から強風を受けながら補助汽船5隻で船体を押し、18時40分かろうじて着岸、通常係留索6本取るところ9本取った。しかしその後、風は更に強くなり、船体動揺激しく、旅客の下船はできたものの、貨車引き出し作業は難渋、やがて係留索が次々と切断されたため、補助汽船3隻で船体を岸壁側に押したが力およばず、20時15分 船内に貨車21両を残したまま自然離岸してしまった。直ちに機関運転開始し20時25分防波堤内第2航路上に錨泊する形となり沈没を免れた。渡島丸は9月26日62便として10時55分函館有川第3岸壁を出航、12時40分、強い東風を受け、船長自ら無線電話で「風速25m、波8うねり6、動揺22度、針路南東で難航中」と発信、難航しながらも45分遅れで16時20分青森第1岸壁着、以後運航休止し船体損傷はなかった。事故後の研究により、当夜の函館湾の波は高さ6m、波周期9秒、波長約120mで、当時の青函連絡船の水線長115.5mより僅かに長く、このような条件下では、たとえ船首を風上に向けていても、縦揺れにより船尾を勢いよく波の中に突っ込んだとき、その勢いで海水が車両甲板船尾のエプロン上にまくれ込んで車両甲板上に流入、船尾が上がると、その海水は船首方向へ流れ込み、次に船尾が下がっても、この海水は前回と同様のメカニズムで船尾から流入する海水と衝突して流出できず、やがて車両甲板上に海水が滞留してしまうことが判明した。その量は、車両甲板全幅が車両格納所となっている十勝丸のような車両渡船では、貨車満載状態で、停泊中であれば、波高6mのとき900トンを越え、この大量の流動水は車両甲板上を傾いた側へすばやく流れるため、これだけで転覆してしまう量であったが、波周期が9秒より短くても長くても、車両甲板への海水流入量は急激に減少することも判明した。更に、石炭焚き蒸気船では、車両甲板から機関室(機械室・ボイラー室)への開口部が多数あり、滞留した海水が機関室へ流入して機関停止し、操船不能となったことも沈没の要因とされた。これらの浸水への対策として、車両甲板面機関室開口部の水密性が確保されている限り、車両甲板船尾側面への多数の放水口設置で、車両甲板上に流入した海水を迅速に船外へ流出させることができ、船尾扉なしでも安全性の確保されることが明らかとなった。このため洞爺丸台風後急遽建造に着手され、1955年(昭和30年)9月に竣工した車両渡船檜山丸からはこの方式が採用され、十勝丸もこの方式で修復工事が進められた。十勝丸は1955年(昭和30年)9月20日引き揚げられ、11月20日に飯野重工舞鶴造船所へ入り修復工事を受けた。車両甲板より上を喪失しており、これら喪失部分は全くの新造となった。車両甲板は檜山丸型に倣い、レールを薄い鋼板を介して車両甲板に溶接することで枕木を廃し、その分、軌道面を下げて車両甲板から船楼甲板までの高さを従来より20cm低い4.8mとし、更に甲板室も、従来遊歩甲板にあった高級船員室の一部を船楼甲板へ下げ、重心の低下を図ったが、無線通信室は檜山丸型同様、操舵室との連携を考慮し、遊歩甲板から1層上げて、操舵室後ろに隣接配置した。また従来、車両甲板舷側上部にあった通風採光用の開口部は廃止され、船橋楼甲板船尾両舷の救命艇ボートダビットには、ブレーキを外すだけで救命艇が自重で舷外に振り出される重力型ボートダビットが採用された。損傷の激しかった船尾部修復に際し、従来の1枚舵から操縦性の良い2枚舵に変更され、これを動かす操舵機も、従来の汽動式から、檜山丸型と同じ、通常は2台の交流電動機で2台の油圧ポンプを駆動し、交流電源故障時には蓄電池を電源とする1台の直流電動機で片方の1台の油圧ポンプを駆動する電動油圧式操舵機が採用された。また、従来車両甲板までであった船首隔壁を船橋楼甲板まで延ばし、車両甲板下の水密区画についても、最大のボイラー室を前後に分割する水密隔壁を増設して、水密隔壁9枚、水密区画10区画とした。従来から、ボイラー室、機械室、車軸室、操舵機室の間の3枚の水密隔壁にはそれぞれ手動式水密辷戸が設置されていたが、増設の前後部ボイラー室間の水密隔壁にも水密辷戸が設置され、計4ヵ所となった。この開閉を手動式から操舵室からも遠隔操作で開閉可能な電動式に改めたが、1955年(昭和30年)5月11日に発生した紫雲丸事件を受け、機械室の前後(後部ボイラー室と車軸室)には発電機が止まっても蓄電池で駆動できる直流電動機直接駆動方式水密辷戸が設置され、残り2ヵ所は檜山丸型と同じ交流電動機直接駆動方式水密辷戸が採用された。車両甲板面の水密性向上のため、車両甲板の石炭積込口を含む機関室への開口部の敷居の高さを61cm以上に嵩上げのうえ、鋼製の防水蓋や防水扉を設置、車両甲板から機関室への通風口も閉鎖して電動通風とし、発電機も250kVA 2台に増強のうえ、容易に水没しないよう機械室中段に設置した。車両甲板船尾側面に放水口が設置され、船尾扉や入渠甲板の設置はなかった。また従来のH型船の特徴であった船尾開口部梁柱も設置されなかった。操舵室を含む甲板室前面は各層とも前方に丸みを持たせ、一層ごと後退する形とし、船体塗装でも外舷上部も白く塗装されたため、檜山丸型を4本煙突にしたような印象となった。車両積載数はワム44両のままで、1956年(昭和31年)8月31日 再就航した。沈没を免れたこれら2隻でも、十勝丸と同様、救命艇ボートダビットの重力型への交換、車両甲板船尾側面への放水口設置、車両甲板面の水密性向上工事、発電機の250kVA 2台への増強工事等が行われたが、車両甲板全幅にわたる広い車両格納所を持ち、且つ船橋楼甲板上にも客室を持つ客載車両渡船(デッキハウス船)の石狩丸では、これだけでは十分な復原性を確保できないことが判明したため、 1958年(昭和33年)7月、放水口設置と同時にデッキハウスを撤去し、本来の車両渡船に戻し、更に1959年(昭和34年)6月二重底化工事も施工された。車両甲板下はW型船同様8枚の水密隔壁で9水密区画に区切られ、ボイラー室、機械室、車軸室、操舵機室間の3枚の水密隔壁に手動式水密辷戸が3ヵ所設置されていたが、このうち機械室の前後の水密隔壁の水密辷戸2ヵ所のみ、修復された十勝丸同様、蓄電池で駆動する直流電動機直接駆動方式水密辷戸が設置されたが、残り1ヵ所は手動式のまま残された。なお、両船とも車両甲板舷側上部の通風採光用の開口部は、これら一連の改良工事でも閉鎖されず、終航まで残った。函館第2岸壁は全長110.28mの翔鳳丸型がちょうど収まるよう全長108mで建設されていた。しかし、その後建造された船はどんどん長くなり、全長118.00mの石狩丸が船首を突き出して同岸壁に停泊中、洞爺丸台風の強風で係留索が切られ自然離岸してしまったことから、余裕をもって停泊できるよう、1959年沖側へ40m延伸して148mとした。津軽丸型当初計画の6隻の就航を見届けた1965年(昭和40年)8月31日と9月30日に、渡島丸と石狩丸が順次終航した。この前年の12月3日の第八青函丸終航直後の試験に引き続き、やはり終航直後の渡島丸を使い、1965年(昭和40年)9月4日、水中傘使用による貨車海中投棄試験が実施された。この試験の成功により、既に就航していた船も含め、車両甲板船尾端、エプロン甲板との段差部分に、貨車引き出し投棄用の水中傘を格納するようになった。十勝丸は1970年(昭和45年)3月31日、2代目日高丸就航を前に国鉄連絡船最後の蒸気タービン船として勇退した。

出典:wikipedia

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