翁長 吾央(おなが ごお、男性、1980年5月5日 - )は、日本のプロボクサー。沖縄県那覇市出身。大橋ボクシングジム所属。沖縄尚学高校、東洋大学卒業。トランクスに555の縫い取りがあるが、昭和55年5月5日生まれと名の吾央とGoを捩ったもの。高校入学と同時にボクシングを始め(自身の1学年上の生徒までは興南高校で指導する)金城真吉監督の熱血指導で、1998年インターハイフライ級で決勝で花咲徳栄高校矢代義光に判定勝利。かながわ・ゆめ国体少年フライ級、選抜も制し高校3冠を達成した。アルゼンチン・ブエノスアイレスでの世界ユース選手権ではベスト8(プエルトリコライトウェルター級代表ミゲール・コットとエールを交換した)。高校卒業後に進学の為に上京、高校時代からの同級生の中真光石と東洋大学ボクシング部に所属し関東大学ボクシングリーグ戦や全日本アマチュアボクシング選手権大会、国民体育大会等で活躍した。大学時代に熱戦を演じた相手には相澤国之、清水智信らがいる。東洋大学は翁長の3年次に関東大学ボクシング2部リーグから1部リーグに昇格した(当時の1学年上の主将は三浦数馬)。翌年、翁長は主将となりリーグ戦でフライ級の階級賞を獲得。アマチュア戦績125戦114勝11敗。大学4年次、職員となり大学にとどまるかプロの道に進むか悩んだ末に卒業後、光石の実父中真茂が創始者の沖縄ワールドリングジムに入門。2003年6月29日、星野恭一に奥武山武道館で1RKO勝ちしプロデビュー。その後デビューから5試合連続KO勝利。2005年12月10日、元WBA世界ジュニアフライ級王者のカルロス・ムリーリョ(パナマ)に北谷ドームで1RKO勝ち。その後日本同級10位にランクされる。2006年8月6日、沖縄市テルヤダイヤモンドホールでWBA世界ライトフライ級9位・WBO同級7位のネリス・エスピノザ(ニカラグア)と対戦し、5Rに偶然のバッティングで翁長の右瞼が切れ、負傷判定勝利。当初は6月11日の予定であったがネリスの体調不良により、7月23日に日程変更されたが来日せず、WBAおよびニカラグアボクシングコミッションに抗議し成立した。この勝利により、WBA世界同級15位にランクされた。2007年3月20日、1戦1勝後日本フライ級9位の奈須勇樹(グリーンツダ)に後楽園ホールで10R判定勝ち。その後、1年1か月あまり試合から遠ざかった。2008年1月1日、同日付で大橋ボクシングジムに移籍。担任指導者は松本好二。2008年4月30日、移籍初戦でチャーンサックノーイ・サックルンルアン(タイ)と対戦し、2RKO勝ち。2008年10月18日、タイ国フライ級チャンピオンのユーシ・エアウサンパンに2RKO勝ち。2009年1月3日、元PABAフライ級暫定王者・鄭眞綺(韓国)に6R負傷判定勝ち。2009年5月16日、WBC世界フライ級12位のリチャード・ガルシア(フィリピン)と対戦し、三者三様の判定引分となり、初めて勝利を逃した。2010年5月1日、チャンピオンカーニバル、中広大悟(広島三栄)の負傷により設置された日本スーパーフライ級暫定王座をWBA・WBC同級11位として日本1位の佐藤洋太(協栄)と争い、7R0分32秒TKO負けで初黒星を喫し、王座獲得はならなかった。2011年4月21日、大塚隆太(18鴻巣)とノンタイトル8回戦を行い、3−0の判定勝ちを収めた。2011年10月15日、日本タイトル挑戦権獲得トーナメント準優勝も同大会決勝で帝里木下(千里馬神戸)と引分(自身の敗者扱い)。2012年3月27日、佐藤洋太の世界初挑戦の前座で佐藤の返上した王座を前回引き分けた帝里木下と争い1-2の僅差判定負けでまたしても日本タイトル獲得とはならなかった。2013年2月24日、中城村民体育館でティエンチャイ・ソーカニットソーン(タイ)と対戦し、2RKO勝利。
出典:wikipedia
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